第109回倭塾は、2024年5月25日 12:30-17:00 の開催です。場所は富岡八幡宮/婚儀殿2F。テーマは「マネーの歴史とこれから」です。みなさまの奮ってのご参加をお待ちします。詳細はコチラ→https://nezu3344.com/blog-entry-5957.html

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歴史上の人物で誰が好きかと問われれば、1番にあげさせていただくのが静御前です。
江戸時代、歴史上の女性で最も愛されたのが静御前、二位が巴御前であったという話もあります。

よく時代劇などで、大奥のお女中たちなどが、忍び込んだ曲者に気がついて、薙刀を持って頭に鉢巻を絞め、
「曲者でございます。お出会えそうらえ」
などといって廊下をバタバタと走る姿などが描かれます。
武家の娘といえば、まさに薙刀が定番だったわけですが、なぜ、江戸時代の武家の娘さんたちが薙刀を習ったかというと、これまた実は、静御前への憧れからきていたといわれています。

静御前といえばいまでいうダンサーである白拍子だった人であり、源義経とのロマンスが有名ですが、同時に彼女は当時の世を代表する薙刀の名手でもあったのです。
武家の女性たちにとって、まさに静御前は永遠の憧れだったし、だからこそ、彼女たちは静御前に倣って、薙刀を学んだのです。
おそらく静御前は、日本史上もっとも多くの女性から愛され続けた女性であろうと思います。

実は、この薙刀、たいへん強力な武器です。
相当腕の立つ剣道の達人でも、女性の扱う薙刀の前に、手も無くやられてしまうことがあります。
そういう意味では、江戸の武士たちは、もっとも強力な武器をむしろ女性たちに与え、自分たちはそれより弱い、大小二本の刀を腰に差していたともいえるわけです。

ちなみに大小の刀二本を差したのには、理由があります。
大刀は、もちろん相手を斬るためです。
そして小刀は、その責任をとって自らの腹を切るためのものとされていました。
武士は斬捨御免だったなどと言われますが、実は、人を斬れば、自分も責任をとって腹を切る。それが武士の覚悟というものでした。

▼流転の旅と吉野山中の別れ

静御前は飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせることができた「神に届く舞」を踊れる白拍子として、後白河法皇から「都一」のお墨付きをいただいた女性です。
この神事のとき、後白河法皇の側にいた源義経は、静御前のあまりの美しさに心を打たれ、その場で御前を妻に娶ることを願い出ました。
以来二人はずっと寝起きをともにします。
けれど京の都で雅な生活をする義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝に疎まれ、ついに京を追われてしまいます。
京を出た義経一行は、尼崎から船に乗って九州を目指すのですが、暴風雨に遭って船が難破してしまい、一行は散り散りになってしまいます。
嵐の中でも、決して手を離さなかった義経と静御前は、一夜開けて芦屋の里に漂着します。
九州落ちが不可能となったため、生き残った弁慶や源有綱、堀景光らと一緒に、陸路で大和へと向かいます。
目指すは奥州平泉です。

大和の吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。
そこからは、大峰山の山越え路です。
ところが問題がありました。
大峰山は神聖な山で、女人禁制なのです。
女の身の静御前は立ち入ることができません。
やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。
「ここからなら、都もさほど遠くない。
 これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう。
 そなたは都の生まれ。
 必ず戻るから、
 都に帰って待っていておくれ」
それを聞いた静御前は、
「私は義経さまの子を身ごもっています」
と打ちあけます。
そして「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。
このときの静御前は、鎧をつけ大薙刀を持っています。
鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、泣かせる場面です。

ここでひとこと注釈を挟みます。
大峰山は、たしかに女人禁制の山です。
しかし義経一行は、頼朝に追われた逃避行です。いわば緊急避難行動中です。
たしかに静御前は女性ですが、大峰山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。
関所があるわけでもありません。
つまり、女人禁制とはいっても、女性を連れて入ろうとすれば、いくらでも入ることができる状態でもありました。
人が見ていなければ、見つからなければ、何をやってもいいと考えるのは、昨今の個人主義の弊害です。
昔の日本では、人が見ていようが見ていまいが、約束事は約束事、決まりは決まりです。

たとえどんなに愛する女性であっても、たとえ口の堅い部下しかそこにいなかったとしても、誰も見ていなくてもお天道様が見ている。
そう考え、行動したのがかつての日本人です。
だから義経は静御前に「都へ帰りなさい」と言ったのだし、御前もその義経の心中が分かるからこそ、禁制を破るより「殺してください」と頼んでいるのです。

義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている鏡を、そっと差し出しました。
「静よ、これを私だと思って使っておくれ。
 そして私の前で、もう一度、
 静の舞を見せておくれ」
愛する人の前で、静御前は別れの舞を舞います。
目に涙を浮かべいまにも崩れ落ちそうな心で、静御前は美しく舞う。
それを見ながら涙する義経。名場面です。

 静御前が舞ったときの歌です。

 見るとても 嬉しくもなし ます鏡
 恋しき人の 影を止めねば
(鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです……)

義経一行は、雪の吉野山をあとにしました。
その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。
一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いています。
文治元年《一一八五年》十一月のことです。

この月の十七日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の僧兵たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行いました。
夜十時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけます。
そして執行坊に連れてゆき尋問しました。荒ぶる僧兵たちを前にして、静御前はしっかりと顔をあげ、
「私は九郎判官義経の妻です。
 私たちは、一緒にこの山に来ました。
 しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、
 義経様御一行は、山伏の姿をして
 山を越えて行かれました。
 そのとき数多くの金銀類を私に与え、
 雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
 しかし彼らは財宝を奪い取り、
 深い峰雪の中に、
 私を捨て置いて行ってしまったので、
 このように迷って来たのです」と述べます。

翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいました。
一方、静御前は鎌倉へと護送されます。
鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行き先は知りません。
知らないから答えようもありません。
やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女が妊娠五カ月の身重であることを知ります。
このため出産の日まで、静御前を鎌倉にとどめ置くことになりました。

▼敵陣で舞う桜

年が明けて文治二年四月八日、鎌倉幕府で源頼朝臨席の花見が、鶴岡八幡宮で盛大に執り行われることになりました。
この日頼朝は、幽閉されていた静御前に、花見の席で舞を舞うことを命じました。
なにしろ静御前は当代随一の神に通じる舞の名手です。
けれどそれは静御前からすれば、敵の真っただ中で舞うことになります。できる相談ではありません。

「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。
 いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、
 わが身の不遇をあれこれ言うことはできません。
 けれど義経様の妻として、
 この舞台に出るのは恥辱です」
そう言って、八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断ったのです。

これを聞いた将軍の妻、北条政子は、たいへん残念に思いました。
新興勢力である鎌倉幕府記念の鶴岡八幡宮での大花見大会なのです。
「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、
 近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」
政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるよう頼みます。
頼朝は「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう指示しました。
単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するということでは、舞う意味がまったく違います。
神への奉納となれば、これは神事だからです。
静御前は神に捧げる舞を舞う白拍子です。
神事といわれれば断ることができません。

静御前は着替えを済ませ、舞台に出ました。
会場は鎌倉の御家人たちで埋め尽くされています。
静御前は一礼すると、扇をとりました。
そして舞を舞いはじめました。曲目は、「しんむしょう」という謡曲です。
歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとりました。
満員の境内の中に桜が舞います。
その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。
素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。

ただ……、何かものたりないのです。
心ここにあらずなのです。
続けて静御前は『君が代』を舞いました。
けれど舞に、いまひとつ心がこもっていません。
ちなみに『君が代』を軍国主義の象徴のように思っている方もいらっしゃるようですが、大東亜戦争よりも八百年以上前に、静御前がこうして舞った歌でもあるのです。

▼女ひとりで挑んだ戦い

鶴岡八幡宮では、どこか心の入らない静御前の舞に、場内がざわめきはじめます。
「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」
「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?
 それとも静御前が大したことないのか」
会場は騒然となりました。
敵の中にたったひとりいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭たちのうなり声のようにさえ聞こえたかもしれません。
普通なら、足が震えて立つことさえできないほどの舞台なのです。
その静御前は、二曲を舞い終わり、床に手をついて礼をしたまま、舞台でかたまってしまいました。
そのまま、じっと動きません。

「なんだ、どうしたんだ」
会場のざわめきが大きくなりました。
それでも静御前は動きません。
このとき御前は何を思っていたのでしょう。
遠く、離ればなれになった愛する義経の面影でしょうか。
このまま殺されるかもしれない我が身のことでしょうか。

「二度と会うことのできない義経さま。
 もうすぐ殺される我が身なら、
 これが生涯最後の舞になるかもしれない。
 会いたい、会いたい。
 義経さまに、もういちど会いたい……」

このとき静御前の脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。
『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。
「詮ずる所敵の前の舞ぞかし。
 思ふ事を歌はばやと思ひて」
(どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろう!)

そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がりました。
なにが起こるのでしょうか。
それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきます。
そして、しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れたとき、静御前が手にした扇を、そっと広げました。
そして歌いはじめます。

 しづやしづ しづのをだまき 繰り返し
 昔を今に なすよしもがな

 吉野山 峰の白雪 踏み分けて
 入りにし人の 跡ぞ恋しき

(いつも私を、静、静、苧環の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。幸せだったあのときに戻りたいわ。吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた義経さま。あとに残されたあのときの義経さまの足跡が、いまも愛しくてたまりません……)

歌いながら、舞う。
舞いながら歌う。
美しい。あまりにも美しい。
場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として声も出なかったといいます。
その姿は、まさに神そのものが舞っているように見えたとも伝えられています。

この「しづやしづ」の舞を、静御前が白拍子だったから「賤(しず)」である、などと書いているものもあるけれど、とんでもない話です。
義経は、静御前を「苧環(おだまき)の花」にたとえているのです。
映画やドラマなどでは、いろいろな女優さんが静御前を演じ、私たちはその映像を見ます。
けれど物語は千年前です。
テレビも映画もありません。
ですから昔の人は文字だけで何とか美しさを表現しようと、その場面に背景や花を添えてイメージを伝えているのです。

静御前は、青色の苧環(おだまき)の花にたとえられました。
背景は満開の桜の花です。薄桃色一色に染まった背景の中で、一輪の苧環の青い花が舞うのです。
このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。
「賤」なんて、とんでもありません。

静御前が舞い終えました。
扇を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭を垂れました。
会場は静まり返っています。
およそ芸能のプロと呼ばれる人には、瞬時にして聴衆の心をぎゅっと摑んでしまう凄味があります。
なかでも神に通じる当代随一と呼ばれた静御前です。
しかもその御前が、愛する人を思って舞ったのです。
どれだけ澄んだ舞だったことでしょう。
想像するだけで、体が震えるほどの凄味を感じます。
しかも、舞台は敵の武将たちのど真ん中。そこで静御前は、女一人で戦いを挑んだのです。

会場には、またもうひとつの緊張がありました。
源氏の棟梁である源頼朝と、名だたる御家人たちの前で、静御前が敵方の大将であり、逃亡中の義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。

静寂を破ったのは頼朝でした。
「ここは鶴岡八幡である。
 その神前で舞う以上、
 鎌倉を讃える歌を舞うべきである。
 にもかかわらず謀叛人である義経を
 恋する歌を歌うとは不届き至極である!」

このとき、日ごろは冷静すぎるくらいの頼朝が、珍しく怒りをあらわにしたとあります。
このままでは静御前は、即刻死罪となるかもしれません。
けれど、これを制したのが頼朝の妻の北条政子でした。
「将軍様、私には彼女の気持ちがよく分かります。
 私も同じ立場であれば、
 静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
「ならば」と頼朝は言います。
「敵将の子を生かしておけば、
 のちに自分の命取りになる。
 そのことは自分が一番よく知っている。
 生まれてくる子が男なら殺せ」

実は、このとき静御前は妊娠六カ月です。
お腹の子は、もちろん愛する義経の子です。
母親となる身にとって、生まれて来る子を殺されることは、自分が殺されるよりつらいことです。
北条政子は言いました。
「では、生まれてくる子が女子ならば、
 母子ともに生かしてくださいませ」
同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。
頼朝は、これには、
「ならばそのようにせよ」と言うしかありませんでした。

▼千年の時を超えてなお、日本人の心を震わせる物語

それから四カ月半後の七月二十九日、静御前は男の子を出産しました。
その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやって来ました。
お腹を痛めた、愛する人の子です。
静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに引き渡すことを拒みました。
武者数名がかりで取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放さなかったといいます。

数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きました。
安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。
そりゃそうです。初産を終えたばかりなのです。体力も限界だったでしょう。
けれど御前が寝入ったすきに、静御前の母の磯禅尼(いそのぜんに)が赤子を取り上げ、安達清常に渡してしまいます。
子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて殺し、遺体もそのまま海に流してしまいました。

目覚めて、子がいないことに気がついた静御前の気持ちはいかばかりだったことでしょう。
「どうせ殺すなら、私を殺してほしかった」
気も狂わんばかりとなった御前の悲しみが、まるで手に取るように伝わってきます。

産褥の期間を終えた静御前は、九月十六日、鎌倉から放逐されることになりました。
このとき御前を憐(あわ)れんだ北条政子は、たくさんの重宝を御前に渡し、京へと旅出するよう言ったといいます。

こうして、およそ半年間暮らした鎌倉を、静御前と、その母の磯禅尼(いそのぜんに)は後にします。
街道を歩く二人に会話はありません。
この世で最も信頼すべき母は、この世で最も大好きな源義経様の種になる我が子を、殺すためにやってきた安達清常に渡してしまった人なのです。
この先誰を信じて生きていけばよいのか。
凍りついた静御前の顔は、このとき、まるで蒼白となった能面のようになっていたことでしょう。
母を殺して自分も死ぬか。けれど親殺しはこの世で最も重い重罪です。

乱れる心で街道をたどって、ようやく鎌倉を抜けて峠に差し掛かったとき、そこに馬を降りた安達清常が立っていました。
安達清常は、静御前母子に真顔で近づきます。
普通なら、静御前にとって安達清常は憎んでも憎み足りない敵(かたき)です。
けれど我が子を失い、すでに心が死の淵に行ってしまっている静御前にとって、もはや目の前にいる安達清常は、ただの物体でしかありません。

その安達清常が言います。
「静(しづ)殿、お待ちしておりました。
 母君の磯禅尼(いそのぜんに)殿に、
 ほだされましてな。
 『武士が赤子を殺すのか!』というわけです。
 それで委細(いさい)を承知つかまり、
 由比(ゆい)ヶ浜で海に漬(つ)けたことにして、
 こうしてひそかにお育てしてまいりました」

見れば、安達清常の後ろに立っている女性が赤子を抱いています。
(生きていれば私の子も、この子くらいだったかもしれない)
静御前には、まだ事態が飲み込めません。
安達清常は、女性が抱いている赤子を静御前に抱かせます。
「ほら。若君ですよ。
 大切にお育てしてまいりました。
 ささ、お顔をよくご覧ください。
 若君、ホラ、母君だよ・・・。」

腕に抱いた赤子の重み。
母というのは不思議なものです。
どんなにたくさんの赤ちゃんがいても、そのなかからひと目で我が子を見つけます。
このときの静御前もそうでした。

そのとき、静御前の胸の中ですべてがつながりました。
母は知っていながら、心を殺してまでしてそのことを自分に黙っていた。
娘が傷つき、心が死の淵をさまよう状況にまで至っても、それでも母は自分を信じていてくれた。
鬼と思って憎んでいた安達清常も、こうしてみれば真っ直ぐそうな良いお男です。
これまで乳母をしてくれていた女性の笑顔。
にっこり笑った髭面の安達清常。
母のやさしい笑顔。
静御前の目から滂沱(ぼうだ)と涙がこぼれ落ちます。

赤ん坊が生きていたという記述は、『義経記』にはありません。
ただ、赤子を殺せと命じた頼朝も人の子です。
弟の赤子を殺したとあれば、死ぬまで後悔が続きます。
けれど政治の事情で、そのように決断しなければならなかったし、将軍の決断は、そのまま実行に移されなければなりません。

しかしそこが政治なのです。
静御前の赤子を取りあげに誰を行かせるか。
ちゃんと事情を飲み込んで対処できて、しかも口にチャックを締めて誰にも言わずにいれる男。
だから信頼できる側近の安達清常を静御前のもとに向かわせたのです。

安達清常は、御家人ではありません。
御家人というのは、いま風に言えば、領土を持った地元の名士たちです。
けれど安達清常は、一般の庶民の出で、京の都で元暦年間から頼朝に仕えた、武士階級の出ではない頼朝の側近の「近習(きんじゅう)」です。
それだけに安達清常は、頼朝の気持ちを察して行動できる信頼できる男でもありました。

ちなみに安達清常は、その後の時代において「近習」の道を開いた男としても知られています。
「近習」は、土地持ちの御家人ではありません。
また単なる「配下」《部下のこと》でもありません。
上役の考えを「察して、責任を持って、自己の判断で行動できる男」。それが「近習」です。
そしてそんな近習もまたれっきとした武士であり、土地がなくても才覚と努力で御家人となる道を開いたのが、安達清常であったのです。

ただ赤子を殺すだけなら、小物を派遣すれば足ります。
けれど頼朝が、近習の中の近習、最も信頼できる安達清常を派遣したのは、
「清常ならこの問題をきちんと処理してくれる」
という期待と信頼が頼朝にあったからです。
そしてそういう人材こそが、幕府の官吏としてふさわしいとされ、そうであればなおのこと、御家人たちは、さらにもっと深く察して行動できる力量が求められるようになっていったのです。

ここが他所の国と日本の武士文化の異なる大事なところです。
命令されたからと言って、何の感情もなく、ただ人を殺せるような痴れ者は、鎌倉武士の中にはひとりもいない。
そう断言できるだけの武士文化を、頼朝は構築したのです。
だからこそ、江戸時代に至っても、男子が戦慄する武士の模範的姿は、常に鎌倉武士であったのです。

「察する」ということを大切にした日本の文化においては、文学であっても時代への配慮を欠かしません。
ですから物語そのものは「○○と日記に書いておこう」と同じで、いわゆる建前で記述されます。
しかしそのようなものは、どこかおかしなところがあるもので、前後の経緯や事態の流れから、容易に実際にあった出来事を察することができるように書かれているものです。

そんなことを言い出すと、間違っていると言われるかもしれません。
どこにも書いてないよ、と言われるかもしれません。
なるほどそうでしょう。
間違っているかどうか、どこかに書いてあるかどうかはとても大切なことです。
けれど洞察し、見抜くことは、人が生きていく上において、もっと大切なことですし、日本文化の根幹です。
ここを理解しないで日本文化を語るのは、幼児が大人の社会を語るようなものでしかないのです。

▼その後の静御前

その後の静御前については諸々の伝承があり、はっきりしたことは分かりません。
北海道乙部町で投身自殺したというもの。由比ヶ浜で入水したというもの。義経を追って奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたって死んだというもの等々、列挙すればきりがないほど、たくさんの物語が存在します。
もしかしたら、大陸に渡ってチンギス・ハーン《経(ちん)義(ぎす)官(ハーン)》となった義経のもとに、静御前は向かったのかもしれません。

そういえばなるほど鎌倉を出た後の静御前には、埼玉から福島、岩手、そして大陸との交易で栄えていた新潟に、その後の静御前の足跡が遺(のこ)っています。

もしかすると静御前は、大陸に渡ってチンギスハーン(義経)の妻となり、ボルテ・ウジンとなったのかもしれません。
記録によれば、ボルテの出身は、ニロン族のキャトで、これは日本の京都の音と同じ。
ボルテ・ウジンは、ボルテ夫人であり、モンゴル語でボルテは、モンゴル語で「静か」を意味する「baidal(ボイダ)」に発音が似ています。

ボルテの長男はジョチですが、ジョチの生年は、静御前が鎌倉で生んだ子と、ほぼ一致します。
ボルテは、その後、次男 チャガタイ、三男 オゴデイ、四男 トルイを産みますが、四男のトルイの子がフビライ・ハーンです。

フビライハンは、元寇を起こして日本に攻め込んでいますが、これがまた不思議なことで、なるほどモンゴルは、ユーラシア大陸を席巻してモンゴルの大帝国を築いていますが、この大陸での戦いでは、石で囲まれた城塞都市を、毎度、瞬く間に陥落させています。
それもそのはずで、モンゴルの傘下に入った城塞都市国は、ものすごく好景気に恵まれて、庶民の生活が自由です。

他方、モンゴル族の傘下に入っていない城塞都市国では、王が民衆を支配し、富が王だけに独占されています。
モンゴルは、大軍でそんな城塞を囲みますが、すでに城内の民衆は、その時点でモンゴルの味方になっているのです。
城が陥落すると、王族たちは皆殺しにされていますが、これはむしろ、それまで収奪されてきた城の内部の住民の恨みの深さを意味しているともいえるのです。
城が陥落すると、攻めに来たモンゴル側が、王族の財産のすべてを奪い、これをモンゴル側のすべての兵に分け与えます。
一方、城内の民衆は、夢にまで見た支配からの自由と、驚くほどの好景気を得ることができました。
これがモンゴルが瞬く間にユーラシア大陸を席巻した理由です。

ところが対日本戦においては、事前のこうした「モンゴル側に付けば、民衆の生活が楽になるよ〜」という事前の手当がまるで行われていません。
つまり戦いが、あくまで五分の戦いとして行われているのです。

もし仮に、フビライが義経と静御前の孫であったとするなら、モンゴルに制圧された高麗の王から「日本を攻めるべし」との提案があったとき、はじめのうちは、これを退けるでしょうし、何年もかけてしつこく工作されて、どうしても日本を攻めようということになったときには、他の城塞都市のときのような、あらかじめ相手国内の撹乱工作(先に民衆をモンゴル側の味方に付ける)を行わずに、高麗兵を中心に、平手で日本を攻めさせるに違いありません。
そして歴史はまさにそのように動いています。
結果日本は、モンゴル帝国の攻撃を退けた、世界で唯一の国となっています。

さて、八百年以上も昔の女性でありながら、いまもなお多くの日本人から愛され続けている静御前。
義経との愛の日々。
悲しい吉野のお山での別れ。
満開の桜の下で行った、たったひとりでの女の戦い。
彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せた北条政子。
頼朝の深い思いを察して、人としての道を貫いた安達清常。
我が子を信じぬいた実母の磯禅尼。

静御前の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないのです。

※この記事は拙著『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』からの引用です。

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