73|部隊は、昭和11(1936)年に、当時の関東軍板垣征四郎参謀長によって「関東軍防疫部」として発足した機関です。

部隊長の石井四郎軍医中将が、千葉県山武郡芝山町加茂の出身で、同郷者の出身者が当初数多くいたことから、初期の頃は加茂部隊と呼ばれたりしていました。
そしてこの「関東軍防疫部」には、「関東軍・軍馬防疫廠」も併設されていました。
つまり軍馬の防疫も所轄していたのです。

この二つが、昭和15(1940)年に統合されて、「関東軍・防疫給水部」となりました。
これが通称「満州第73|部隊」と呼ばれる部隊です。

この部隊の、最初の大手柄となったのが、ノモンハン事件(昭和14年)です。
このとき石井軍医中将は、特殊な技術の石井式濾水機を考案し、現地での給水活動にあたりました。
御存知の通り、大陸では洋の東西を問わず、糞尿を川にそのまま垂れ流す風習があります。

この習慣は、実はたいへん恐ろしい習慣です。
過去においては西洋もペストの大流行によって、人口の3分の1が失われています
このことは、チャイナにおいてもまったく同じで、たとえば明治27年(1894)の日清戦争のときには、この戦争による日本の戦傷病死者1万7069名のうち、なんと69.7%にあたる1万1894名が、チャイナでの疫病感染によって死亡しています。

このため日本では、チャイナでの感染症罹患者のために、大本営のあった広島に専用の収容施設を作ったくらいです。
そして日本の看護婦の感染による死者の第一号も、この日清戦争中の広島陸軍病院でした。

ですから日華事変や、その前の満州事変どころか、日清戦争(1894年)、義和団事件(1900年)、日露戦争(1904年)の時代から、大陸に出兵した日本兵の最大の課題は、まさに感染症対策と、感染の心配のない飲料水の確保にあったわけです。

このことは、世界有数の水資源国である日本に住む日本人には、少々わかりにくいことでもあります。
日本は国土の表土が常に衛生的に保たれている国です。
山には森の樹々が茂り、その下の土は腐葉土や岩盤、砂利、粘土層など、幾重にも折り重なった地層があって、雨水は自然濾過され、衛生的できれいな地下水がいたるところで湧きます。

ちなみに富士山に降り積もった雪が溶けて地下水となり、これが足柄あたりで湧き水となるまでが、約30年です。
この水は、まことにおいしく、東名高速の足柄SAで、そのまま飲むこともできますが、自然は、それだけ長い時間をかけて、水を清潔で美味しくしてくれているわけです。

ところが大陸には、まず緑がありません。
もとはあったのでしょうが、ヒトが火を得るために伐り倒してしまい、このため表土にある栄養のある土も流されてしまって、どこもかしこも黄砂の砂漠ばかり。
表土にはわずかばかりの草が茂るだけです。

戦時中、荒んだチャイナの人々に少しでも水とうるおいをあたえようと、日本軍がせっせと植林を行いました。
いまでは、グーグル・アースで世界中の衛星写真を見ることができますが、チャイナの内陸部は、赤や黄色の砂漠ばかりの土地です。
そのチャイナで、緑に覆われている地域がありますが、この地域はあら不思議。
「日本軍が侵略した地域」として教科書に掲載されているエリアと、まったく重なります。

かつて日本軍が駐留していた地域は、日本の軍関係者や民間人が、
「みどりの潤いがあれば人々の殺伐とした心がきっと和むに違いない」と信じて、
日本からの苗木で、数十億本単位の植林事業を展開したのです。

そういえば最近、お隣の国で、「日本人が植林した樹木だから」と公園の樹木が、勝手に伐採される事件が起きました。
歪んだ国民教育の賜物ですが、禿山ばかりだった半島の緑化は、日本が統治した時代の名残です。
つまり、現存する半島内の森や林の木々は、ことごとく日本から持参した苗木が成長したものです。

話が脱線しましたが、そんな黄土ばかりの大陸で、軍が水を確保することは、現実問題としてとても大切なことです。
そこで、防疫のための専門部門がつくられたのです。
これは、当然すぎるくらい当然の措置であるといえます。

防疫ですから、当然、細菌への対策研究をします。
しかもそれは当時としては、世界最先端の防疫学上の第一級資料です。
このため73|部隊の研究資料などは、戦後、すぐに米軍がすべて接取してしまいました。
この資料は、米軍にとっても、米国の薬品メーカーにとっても、きわめて貴重性の高い資料でした。
ですからその接取は極秘扱いとされました。

そして極秘であることをいいことに、まるで73|部隊が細菌兵器開発の悪魔の部隊と言われるようになりました。
言い出したのは、米中韓ではありません。
日本人です。

それが森村誠一の著作の『悪魔の飽食』です。
この単なるフィクションにすぎない小説が、いつの間にかノンフィクションにすり替えられ、宣伝されました。

これを利用したのが中共政府で、中共内に「73|部隊記念館」をつくり、そこに実は日本人が被害者である済南事件(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3379.html)のときの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として蝋人形にして展示し、かつまた学校の歴史教科書にまで掲載しました。

  斉南事件の被害者(24歳の女性)

 チャイナの歴史教科書にも掲載(翻訳版)

  73|部隊記念館では蝋人形になって展示

こうして、ありもしないことが、宣伝され、拡散され、常識化されてしまったわけです。

先程も書きましたが、当時のチャイナは伝染病の巣窟でした。
だから日本としては、当然、その研究をするし、現地の人達に対しても73|部隊は「無償で予防接種」もしています。
ところがその予防接種のことが、人体実験にすり替えられて宣伝されたわけです。

また米国も、その史実については、沈黙を守り続けてきました。
理由については、米中の関係悪化を懸念した、あるいは薬品メーカーにとって終戦時に日本から奪いとった研究データが躍進のきっかけになっていたことを隠したかった等々、いろいろな忖度があります。
どれも当たらずとも遠からずとは思いますが、それによって日本が貶められる状況が続いていたことは事実です。

この73|部隊について、2007年1月、産経新聞が、
「米国立公文書館(メリーランド州)は、旧日本軍が当時の満州(現中国東北部)で行った細菌戦研究などに関する米情報機関の対日機密文書10万ページ分を公開した」
と報道されました。

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米国立公文書館が73|部隊(関東軍防疫給水部)に関する機密文書10万頁分を公開 《73|部隊の人体実験・細菌戦の嘘が改めて明らかに》

今まで反日勢力に散々あげつらわれ日本の残虐性の一例として利用されてきた、悍ましい〈人体実験〉をしていたと言われる〈73|部隊の作り話〉が、米公文書の公開で明らかになった。
こうして冤罪はひとつづつ晴らされて行く。

73|部隊(関東軍防疫給水部)は細菌戦研究はしていたものの、細菌戦を行った証拠は全く見つからなかった。
米国立公文書館は、石井四郎中将を始めとする73|部隊関係者の個別尋問記録や、石井中将が細菌戦研究の成果を1947年6月ごろ執筆し米軍に引き渡した事を裏付ける最高機密文書も明らかにした。

ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査する為、クリントン政権当時の1999年に編成された記録作業部会(IWG)は「人体実験」に留まらず「慰安婦問題」などの悪事を裏付ける文書も必死に探したが、それらを裏付ける証拠は何ひとつ見つからなかった。(つまり1999年以降の調査で「性奴隷」が言いがかりである事はクリントン政権時には既に判明していたという事だ。併し、同盟国 米国は口を噤んでいた)

奉天(現・瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかを調べたりしたが「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も発見された。
つまり米国が持っていた73|部隊に関する10万ページの機密文書には、73|部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われた事は全て根拠なき捏造であったと証明された。

 *****

要するに73|部隊は、単に日本人、チャイニーズ等が細菌に侵されずに済むように、誠実に研究を重ねていただけなのです。

日本に日米関係は、重要です。
ところが中共政府は、日本悪玉論を元にして、日米の離間を図り、「日米同盟よりも米中同盟の方が、よりメリットがありますよ」、とさかんに米議会や大統領府でロビー活動を繰り広げています。
これはきわめて大掛かりかつ周到なものです。
対する日本は、政府としては、何もしていず、言われぱなし、ヤラレっぱなしの状態にあります。

戦前の日本には世界最強の日英同盟がありましたが、米国のウイルソン大統領によって、日英同盟は破棄され、代わって米英同盟が成立しました。
このとき、ウイルソン大統領にとってカードとなっていたのが、米国が持つ英国債でした。

いまの日本には、日米同盟がありますが、中共政府は米国債を持っています。
そして、もし、中共のロビー活動によって、日米同盟が破棄され、米中同盟が成立したら、日本に残された選択肢は2になります。
それは、
 第二のチベットになるか、
 チャイナ相手に戦争をするか、
という選択です。

73|部隊の石井四郎陸軍軍医中将は、戦後、新宿区内で医院を開業し、近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行いました。
このことは、昭和57(1982)年8月29日の『The Japan Times』で、報道されています。
たいへんな人格者で、多くの患者さんから慕われました。
そして昭和34(1959)年10月に、満67歳で天寿をまっとうされてお亡くなりになっています。

※この記事は、2015年5月の記事のリニューアルです。

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