以下は拙著『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』に掲載した文です。
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きっと何かを感じていただけるものと思います。

▼日清戦争

日清戦争で出征した我軍の将士は総計30万人に及びます。
この戦争で広島の宇品(うじな)港では、軍船がひっきりなしに往来することになりました。
なぜなら大陸はコレラ、赤痢、疱瘡(ほうそう)その他の伝染病の温床だったからです。
このため7月20日には、広島城の西側の広島衛戍(えいじゅ)病院も戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されました。

戦争に医師に看護士は付きものです。
けれど戦いは男がするものですから、我が国では古来、戦場に出向くのは医師も看護師も、すべて男とされてきました《もちろん一部巴御前のような例外もありますが、あくまで一般的な国策としては、ということです》。

ところが西洋では、たとえば米国では米国独立戦争《一七七五年》の際に、すでに女性看護師が活躍しています。
日本でも明治10年に博愛社が設立され、これが明治21年にジュネーブ条約加盟に伴って日本赤十字社と改称され、そこで女性看護士の育成が行われていましたが、女性が戦場や軍病院に看護士として採用されることは一切ありませんでした。

日清戦争は、明治日本にとって、初の国をあげての国際戦でした。
君民一体となって断固不条理を粉砕する。
だからこのとき日本赤十字社から「女性も看護役として軍で採用してもらいたい」という要請が出されました。
陸軍はこれを固辞しました。
二つの理由からです。

ひとつは予算の問題です。
当時の日本はまだまだ貧しく、軍にも十分な予算がありません。
軍病院に女性看護師が採用となると、男たちとは別に着替えの場所や寝所、あるいは風呂トイレに至るまで、すべて男性用と女性用を別々に作らなければなりません。
それだけ余計にコストがかかります。
けれどそれだけでは「国をあげての戦いに何を言われるのか!」と逆に突っ込まれてしまいそうです。

理由の二つ目は風紀の問題とされました。
戦地において立派な戦功を立てた名誉の戦傷病者が、女性の看護を受けて万一風紀上の悪評でも立てられようものなら、せっかくの武功が台無しになる。
名誉が損(そこ)なわれる、というわけです。

実はこのことは、大変に日本的な発想です。
我が国は聖徳太子の十七条憲法の時代から続く明察功過(めいさつこうか)《第十一条》によって、事件や事故を未然に防ぐことが人の上に立つ者の仕事とされてきた国柄を持ちます。
この場合も同様です。
万にひとつも不名誉な事態が起これば、上位者もまた責任を取ることになります。
当時の感覚としては、責任とは自分がとるものであって、人や上司から四の五のと言われてからとるものではない。
だからそうなれば、戦(いくさ)に集中しなければならないはずの軍の将校たちが、余計なことにまで気を配らなければならなくなる。
なぜなら事件や事故は、それが「起きてからでは遅い」からです。

このような理由から軍病院への女性看護婦採用を固辞してきた日本陸軍でしたが、そうはいっても看護ということになると、仏頂面(ぶっちょうづら)で少々患者の扱いが乱暴な男性より、笑顔でやさしく接してくれる女性の方が、兵士にとっても有り難いものです。

そこで陸軍の石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医総監が、「風紀上の問題は私が全責任を負う」と明言して、ようやく試みとして少数の女性看護婦を広島の軍病院で採用することになりました。
ただし条件付きです。
女性は40歳以上であること。
そして樺山資紀(かばやますけのり)海軍軍令部長婦人、仁礼景範(にれいかげのり)海軍中将夫人らが看護婦たちと起居(ききょ)をともにし、また看護婦らの安全を図り、また夫人らも一緒に看護活動に当たりました。
ここにはNHK大河ドラマで有名になった『八重の桜』(平成25年放映)の新島八重(にいじまやえ)も赴任(ふにん)しています。

▼岩崎ユキの遺書

こうして半年が経つと、現場で女性看護婦が大変評判が良い。
しかも大陸での疫病(えきびょう)感染によって、患者の数は急増しました。
それがどれだけたいへんな事態であったか。
日清戦争における我が軍の死者は13,311人です。このうちなんと11,894人が疫病感染による病死です。
なんと戦死者の九割が疫病死だったのです。
広島の軍病院には、こうした疫病感染者の兵士たちが連日運び込まれました。
感染病棟は患者で溢れかえりました。とても看護の人手が足りません。

そこで篤志看護(とくしかんご)婦人会の若い女性が「看護婦の助手」として広島陸軍予備病院に送られました。
その中に日本赤十字社の京都支部から派遣された、もうすぐ十七歳になる「岩崎ユキ」がいました。
明治二十七年十一月七日のことでした。
そして彼女は、伝染病棟付となって勤務中、チフスに感染して死亡しました。
発症は明治二十八年四月八日、亡くなったのが同月二十五日のことでした。

彼女の荷物の中に、遺書が見つかりました。
そこには次のように書かれていました。

 ***

お父さま、お母さま、
ユキは大変な名誉を得ました。
家門の誉れとでも申しましょうか。
天皇陛下にユキの命を喜んで捧げる時が来たのであります。
数百名の応召試験の中から、ユキはついに抜擢されて、戦地にまでも行けるかも知れないのであります。
ユキは喜びの絶頂に達しております。
死はもとより覚悟の上であります。

私の勤務は救護上で一番恐れられる伝染病患者の看護に従事すると云う最も大役を命ぜられたのであります。
もちろん予防事項については充分の教えは受けております。
しかし強烈あくなき黴菌(ばいきん)を取り扱うのでありますから、ユキは不幸にして何時(いつ)感染しないとも限りません。

しかしお父さまお母さま、考えても御覧下さい。
思えば思う程この任務を命ぜられたのは名誉の至りかと存じます。
それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の苦戦地に闘うのと同じであるからであります。
戦いは既にたけなわであります。
恐ろしい病魔に犯されて今明日も知れぬと云う兵隊さん達が続々病院に運ばれて来ます。
そして一刻も早く癒して再び戦地へ出して呉(く)れろと譫言(うわごと)にまで怒鳴っております。
この声を眼のあたりに聞いては伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち消し飛んでしまいます。
早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。
感激と申しましょうか。
ユキは泣けて来て仕方がありません。

今日で私の病室からは十五人もの兵士達が死んで行きました。
身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな眠りであります。
また、中には絶叫する兵士達もありました。
『死は残念だぞ!
 だが死んでも護国の鬼となって
 外敵を打たずに済ますものか』
と苦痛を忘れて死んでいったのです。

あるいは突然
『天皇陛下万歳!』
と叫ぶので慌てて患者に近寄りますと、そのまま息が絶えていた兵士達もありました。

しかも誰一人として故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで逝(い)った者はありません。
恐らく腹の中では飛び立つほどに故郷の空が懐かしかったでありましょう。
ただそれを口にしなかっただけと思われます。
故郷の人達は、彼の凱旋を、どんなにか指折り数えて待っていたことでありましょう。

悲しみと感激の中に、私はただ夢中で激務に耐えております。
数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるのでありますが、ユキの頭脳にはこうした悲壮な光景が深く深く焼きついていて、寝ては夢、醒めては幻に見て、片時たりとも心の落ちつく暇(いとま)がありません。

昨日人の嘆きは今日の我が身に振りかかる世のならいとか申しまして、我が身たりとも、何時(いつ)如何(いか)なる針のような油断からでも病魔に斃(たお)されてしまうかも解(わか)らないのであります。
しかしユキは厳格なお父さまの教育を受けた娘であります。
決して死の刹那(せつな)に直面しても見苦しい光景などは残さない覚悟でおります。
多くの兵士達の示して呉(く)れた勇ましい教訓通りにやってのける決心であります。
決してお嘆きになってはいけませぬ。
男子が御国のために名誉の戦死をしたと同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。

 ***

岩崎ユキは、明治10年12月23日生まれで、明治27年10月10日に、日本赤十字社京都支部に採用になりました。
看護婦として軍に召集(しょうしゅう)されたのが同年11月4日です。
はじめ救護団に編入されましたが、11月7日には感染病棟である広島陸軍予備病院第三分院付きとなっています。

彼女に腸チフスの発症が確認されたのは、勤務開始からわずか五カ月後。
明治28年4月8日です。
そして17日後の4月25日に亡くなりました。
昭和4年4月13日、靖國神社合祀(ごうし)。

岩崎ユキの遺書は石黒軍医総監の元に渡り、その後、昭憲(しょうけん)皇后陛下のお涙を催(もよお)させ給(たも)うことになりました。
女性であっても、ここまでの覚悟をして病院に赴(おもむ)いている。
岩崎ユキのこの手紙がきっかけとなり、看護婦の崇高な職務が国民の間に浸透していきました。
そして陸軍が正式に女性看護師を採用したのは、この25年後の大正8年、そして陸軍の養成看護婦は、先の大戦中の昭和19年のことです。

日清戦争当時、広島予備病院のほか各地の予備病院にも日本赤十字社救護看護婦が配置されました。
また赤十字社の病院船である博愛丸(はくあいまる)、弘済丸(こうさいまる)はもちろん、他の臨時の病院船にも、また海軍病院にも看護婦が配属されました。
そしてこれら女性看護師の登用が、いずれも良い結果を収め、風紀上に一点の悪評も起こらず首尾よく日清戦争は終わりを告げました。
そしてこれまで全く軍の医療施設に女性看護婦が配置されなかったものが、極めて短期間にその数を増やし、日本赤十字社救護看護婦たちは、その後、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争にそれぞれ出征して戦傷病者の看護に大きな貢献をするに至るのです。
その背景には、若干17歳だった岩崎ユキの覚悟と死があったのです。

日本は、男だけでなく、女も勇敢に戦い、そうすることで我が国は列強の植民地とならずに、独立自尊を保ち続けたのです。
私たちはそんな曽祖父母、祖父母、父母たちのおかげで、世界に五百年続いた植民地支配という収奪を終わらせ、今の命を、そして社会をいただいています。

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