我が国で古来、広く知られたチャイナの故事に「韓信(かんしん)の股くぐり」という逸話があります。
鎌倉以降の武士の時代に、広く知られた物語です。

韓信というのは、後に前漢の太祖である劉邦の元で数々の戦いに勝利した大将軍です。
マンガやアニメの『キングダム』がお好きな方であれば、秦の末期から漢が興る時代におけるアニメの王騎大将軍が、まだ若い、一兵士だった頃と想像していただくとイメージがわくかもしれません。
とにかく、その強さは猛虎の如しと言われた、強くたくましい大将軍に、後になった人です。

そんな若き日の韓信が、ある日、町を歩いていたときのことです。
町のヤクザものが数名、韓信に難癖を付けてきました。

「おい!そこの大柄なてめえ。
 てめえはいつも剣を帯びているが、
 実際には体がでかいだけの臆病者だろう。
 どうだ!
 言われて悔しかったら、
 その剣で俺を刺してみやがれ!
 なに?!できねえってか?。
 だったら俺の股をくぐりやがれ!」

明らかな挑発です。
何ごとだろうと、騒ぎに大勢の人がまわりを取り囲んみました。
誰もが固唾(かたず)を飲んで見守る中、
韓信は腰の剣を横に置くと、黙って若者の股をくぐりました。
周囲にいた者たちは、大柄な韓信を「腰抜け」と笑いました。

けれど韓信は、こう言ったそうです。
「恥は一時、
 志は一生。
 ここでこいつを斬り殺しても
 何の得にもならない。
 それどころか仇持ち云々と騒ぎになるだけだ」

この出来事は「韓信の股くぐり」として、戦国時代の日本では、知らない人はいないと言われるくらい、広く知られ、日本の武士の心得とされた物語です。

武士は何より名誉を重んじます。
名誉のために命をも賭けます。
けれど、
「恥は一時、志は一生」
なのです。

何のために日頃から剣や弓や馬術や体術を鍛え、何のために戦うのか。
それは武士の発生の原点に基づきます。

武士は、もともとは新田の開墾百姓です。
奈良時代の聖武天皇の御世に出された墾田永年私財法によって、新田を拓き、その土地を一所懸命に守り抜く。
そして、その土地で暮らす人々が、豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことに命を賭けるのが武士です。
武士の棟梁である将軍は、その土地の私有を認めてくれる大親分であり、だからこそその御恩に報いて、戦いをします。
これを奉公と言います。

江戸時代、武士が街のやくざ者に絡まれると、武士は黙って頭を下げたといいます。
ただし、武士を本気で怒らせたら、刀を抜くだけでなく、命を捨ててそのやくざ者を斬り殺しました。
そして自分もその場で、人を斬った責任を果たすために、腹を切りました。

武士が刀を抜くということは、それだけの重みがあることであったのです。
だから韓信の、
「恥は一時、志は一生」
は、武士の心得となりました。

社会の上層部における常識は、その社会における常識となっていきます。
一般の農家においても、あるいは町人の間においても、この韓信の股くぐりからくる「恥は一時、志は一生」は、日本の常識となっています。

そうした社会常識を持つ社会において、おおいに誤解されているのが、江戸時代初期に実在した「踏み絵」です。
キリスト教の布教を禁じた幕府によって、キリシタンかどうかを識別する道具として「踏み絵」が行われた。
「踏み絵」にはキリスト像や、マリア像が描かれていて、これを踏むことができない者は、バテレン(キリシタン)として改宗のための拷問に付された、というものです。

けれど、すこし常識を働かせて考えていただいたらわかるのですが、命を取るか、絵を踏むことを選ぶかといえば、日本人の常識は、平然と絵を踏むことを選びます。
なぜなら、これもまた韓信の股くぐりだからです。
信仰というものは、心が行うものであって、形式や形ではない。
早い話、その踏み絵が、阿弥陀様や大日如来、あるいは天照大御神の絵柄であったとしても、命か踏むかという選択なら、平然と絵を踏む。
それが日本人です。

要するに踏み絵は、ある種のパフォーマンスとして実在したものであって、逆に合理性を尊ぶ日本社会では、むしろ絵を踏むことを拒否して、拷殺されることを選ぶことは、むしろ不自然な行動となります。

もちろん、イエスズ会の側が、信者に踏み絵を踏むことを拒否させ、信仰に殉じた信者を誇大に宣伝することで、幕府の横暴を訴えたということは、あったといえます。
しかし、そうした考え方は、本当に信者たちの幸せを願うならば、本来、あってはならないことです。

そういえば先日ある会で
「日本ではなぜ日本でキリスト教が根付かないのでしょうか」
というご質問をいただきました。

イエズス会の布教によって、戦国時代にキリスト教に改宗した人の数は、日本の人口の1%内外であったといわれています。
このことは、戦後にGHQがさかんに日本でキリスト教を布教しようとしたときにも、キリスト教に改宗した人は、やはり1%前後であったといわれていますから、日本人の精神性は、昔も今も変わらないということがいえます。

ちなみにチャイナでは、キリスト教の伝道師は、ものすごい成果をあげることができたといいます。
これはラルフ・タウンゼントの『暗黒大陸中国の真実』に詳しいのだけれど、日本に来た宣教師たちは、なかなか日本人がキリスト教に改宗しないため、成果があがらない。
一方、チャイナに派遣された宣教師たちは、ものすごい人数の信者を短期間に集めることができた。
このため多くの派遣された宣教師たちが日本を憎み、その一方でチャイナを愛した、といったことが書かれています。

チャイナで信者を集めることは簡単で、ただ教会で毎日無料でパンを配れば、チャイニーズたちは列をなしてやってくるし、それどころか、その日からキリスト教に簡単に改宗してしまう。
ところが、パンがもらえないとなると、その日のうちにキリスト教を辞めてしまう。
実は彼らは、ただパンが欲しいだけであって、信仰をする気など微塵もないのである、とタウンゼントは書いています。

これに対し、日本では、なかなかキリスト教に改宗しようと言う人が生まれない。
ところが、です。
日本では、実はキリスト教は、おおいに普及しています。

たとえば、クリスマスのお祝いや、プレゼント、あるいは「きよしこの夜」を歌ったりすることは、日本人なら、誰でも行います。
だいぶ以前ですが、知り合いのお寺のご住職が、ずいぶんと若い美人さんと結婚しました。
お寺の住職ですから、当然結婚式も仏式で行うのだろうと思っていたら、びっくり。
結婚式場に設置されている教会で、神父さんを呼び、新郎は白のタキシード、新婦も白のウエディングドレスでの結婚式でした(笑)

要するに日本人は、キリスト教を拒否しているどころか、おおいにキリスト教を社会に取り入れているわけで、決して拒否しているわけではないということができます。

このことは、仏教においても同じで、仏教では死んだら極楽に逝くと説きますが、神道では死者の魂は神となってイエ・ムラ・クニの守り神となるとされます。
両者の考え方はまったく異なるのですが、なぜか日本では神仏習合で、神様と仏様は普通に共存しています。

もっと言うなら、現代日本では、神仏習合どころか神仏基(基は基督教(きりすときょう)のこと)習合なのであって、そのことに疑問を持つ日本人はほとんどいません。

なぜこのようなことが可能になるのかというと、日本古来の神道が、「道」であって、「教え」ではないことによります。
受験に例えるなら、大学合格までの「道」があります。
その道を歩むにあたり、受験生は、良い教師に付いたり、よい教材を教わったりして、より確実な合格を目指して努力するわけです。
神道(かんながらの道)もこれと同じで、縄文以来、我々は神様になるために生まれてきたのだから、そのために必要な良い教えであれば、仏教であれ道教であれ、ヒンズー教であれ、キリスト教であれ儒教や易経であれ、良いと思われる「教え」は、なんでも採り入れる。

つまり、日本人の目的意識は、よりよく生きるようとするところにあるのです。
教えそのものは目的ではありません。
そこに日本的思考、日本的価値観の特徴があります。

こうした文化的土壌の背景にあるのが日本神話です。
日本書紀によれば、イザナギとイザナミがこの世界を作ったのは、「豈国(あにくに)」つまり、「よろこびあふれる楽しい国」を作ろうとしたのだと書かれています。

されに言えば、イザナギとイザナミから生まれ、高天原を知らすことになられた天照大御神は、孫のニニギの天孫降臨に際して、
「中つ国においても、高天原と同じ統治をしなさい」
と語られたと、神話に記されています。
高天原というのは、全員が神々の国です。
その高天原と同じ統治をするということは、臣民のひとりひとりを、すべて神々の御分霊として尊重しなさいということです。

ここからさらに、我々人間は、神々の御分身である霊(ひ)が本体、肉体はその乗り物に過ぎないという思考が生まれています。
神々の御分霊であるのは、ひとりひとりに備わった霊(ひ)であって、肉体ではないからです。
これは、神社と神様の関係と同じです。
神社は、神様のおわすところであって、神様そのものではありません。
言い換えれば、肉体が神社のお社(やしろ)、その神社(肉体)に宿っているのが、神様である霊(ひ)です。
だからどんな人でも大切にしなければならない。
たとえ悪人であっても、罪は憎むが、人は憎んではならない。
そうした日本的思考の大本になっているのが、そうした霊(ひ)の思考です。

そして日本は、日のもとの国です。
日は、霊(ひ)であり、天照大御神を意味します。
そうすることで、日のもとの国は、高天原と同じ統治という形を目指していることが明確になります。

そして日のもとの国は、臣民みなが「よろこびあふれる楽しい国」を目指す国だとされてきたのです。
政治機構も、まさにそのためにある。
だから国の統治は、神々と直接つながる祭祀の長を上におき、政治の実務を司る政治の長をその下に配置したのです。
このとき祭祀の長が、民を「おほみたから」とする。
すると政治の長にとっての最大の仕事は、「おほみたから」である民衆が、豊かに安全に安心して暮らせるよろこびあふれる楽しい国を築くことに焦点が絞られることになるのです。
これを「知らす」といいます。
人類が生んだ、最高の、そして究極の民主主義がここにあります。

よろこびあふれる楽しいクニ、よろこびあふれる楽しい社会、よろこびあふれる楽しい人生を実現するために、良いと思う教えなら、なんでも採り入れる。
目的がそこにあるのですから、キリスト教を学んでいる人であっても、「踏み絵」を踏まなければころすぞと言われれれば、何の迷いも躊躇もなく、これを踏む。
それが日本人のしたたかさであり、日本人の強さの根源です。

よく保守系の識者の方で、
「自分は世間からさんざん批判されている」と、悲劇のヒーローを気取る方がおいでになられます。
世の中の常識と違うことを言い出せば、(それをわかっているのは自分だけ)なのですから、世間から「あんた、何言ってんの?」と思われるのがあたりまえです。
世間の常識となっていることや、誰かの二番煎じの発言をしていれば、世間からは非難されず、たとえばYoutubeの再生回数もバク上がりです。
けれど、言い出しっぺの言うことは、その時点では誰もしらないことを述べているのですから、必ず批判されたり叩かれたりするのがあたりまえだし、誰も知らないのですから、再生回数もあがらないのが当然なのです。
あたりまえです。支持してくれる人がまだいないのです。

それにそもそも、自分のためではなく、みんなのために始めたのなら、それは自分を捨てるということですから、自分が批判されても、それは捨てたゴミを批判されているにすぎません。
つまり、いっさい気にする必要がないことということになります。
もちろん、批判の声に耳を傾け、ちゃんとした批判には、それに耐えうるだけの論拠を固めていく努力は必要です。
というか、それがあたりまえなのであって、悲劇ぶるのは、自分が可愛いからです。
自分が可愛いなら、他の批判などしてはいけないのです。
それが日本の常識です。

股くぐりくらい、なんでもない。
日本男児にとって、「恥は一時、志は一生」です。

※この記事は2021年6月のねずブロ記事のリニューアルです。

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