「食いねえ、食いねえ、寿司食いねえ」といえば、ご存知広沢虎三の「次郎長三国志」です。

讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めた遠州森の石松が、帰り道に大阪から京都に向かって三十石船に乗る。
その舟の中で、お江戸は神田の生まれという江戸ッ子が、「清水港に住む山本長五郎、通称清水次郎長が、街道一の親分よ!」と啖呵を切る。

自分の親分を褒められて嬉しくなった森の石松は、その江戸っ子に、
「もっとこっちへ寄んねえ」と声をかけます。

で、酒を進めて「呑みねえ、呑みねえ。江戸っ子だってねえ」
「オゥ、神田の生まれよ」
「そうだってねえ。次郎長にゃいい子分がいるかい」
「いるかいどころの話じゃないよ。千人近く子分がいる。その中でも代貸元をつとめて他人に親分兄貴と言われるような人が28人。これをとなえて清水の二十八人衆。この二十八人衆のなかに次郎長ぐらい偉いのが、まだ五、六人いるからねえ」

ますます嬉しくなった石松は、「で、五、六人とは一体誰でぇ」と聞きます。

「清水一家で強いと言えば、いちに大政、二に小政、三には大瀬半五郎、四に増川の仙右衛門・・・」と続きます。
ところがなかなか石松の名前が出てこない。

いい加減焦れてきたた石松「お前ェ、あんまり詳しくねえな。次郎長の子分で肝心なのを一人忘れてやしませんかってんだ。この船が伏見に着くまででいいから、胸に手ェあてて良~く考えてくれ。「もっと強いのがいるでしょが。特別強いのがいるんだよ。お前さんね、何事も心配しねぇで気を落ち着けて考えてくれ。もう一人いるんだよぉ」

「別に心配なんかしてやいねぇやい。どう考えたって誰に言わせたって清水一家で一番で強いと言やぁ、大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」
石松「うん?」
江戸っ子「大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」
「うわぁ~客人すまねェ、イの一番に言わなきゃならねぇ清水一家で一番強いのを一人忘れていたよ」
石松「へ~。で、誰だいその一番強ぇってぇのは」
江戸っ子「こりゃあ強い。大政だって小政だってかなわねえ!清水一家で離れて強い!遠州森の生まれだぁ!」。

石松「へえ。そこのところをもう少し聞かせてくれや、誰が一番強いって?」
江戸っ子「こりゃあ強ぇ。遠州森の福田屋という宿屋の倅だ!」
石松「なるほどぉ」
江戸っ子「森の石松ってんだい。これが一番強いやい!」
石松「呑みねぇ、呑みねぇ、寿司食いねぇ、もっとこっちへ寄んねぇ。江戸っ子だってねぇ」
「神田の生まれだい」
石松「そうだってなぁ。そんなに何かい、その石松は強いかい?」
江戸っ子「強いかいなんてもんじゃないよ。神武この方、バクチ打ちの数ある中で強いと言ったら石松っつぁんが日本一でしょうなぁ!」
石松「へぇっ、そいつぁ凄い」
江戸っ子「強いったって、あんな強いのいないよ。だけど、あいつは人間が馬鹿だからね!」

と、まあ楽しい掛けあいが続きますが、森の石松のお話はまた今度ということにして、今日のお題は、清水次郎長です。

清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
上の石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、映画やテレビで繰り返し取り上げられていますので、ほとんどの方は、ご存知であろうかと思います。

清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市で生まれています。
当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされ、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されます。

清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、「山本次郎八さんの家の長五郎」がなまって次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。

次郎長15歳のとき、養父の次郎八が逝去したため、甲田屋の跡を継いでいます。
この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していた。

甲田屋も、米の輸送をしていて、次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまいます。

次郎長は、妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊ら弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
これはいわゆる凶状旅というやつで、罪を負った人間が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、というものです。

旅を終えた次郎長は、弘化4(1847)年に、弟分の江尻大熊の妹お蝶(おちょう)を妻に迎え、清水に一家を構えています。

つい最近まで、ヤクザや博徒などは「○○一家」と名乗っていることが多かったのは、ご存知の通りです。
誤解を恐れずに行ってしまうと、こうした極道の世界というのは、ある意味、日本社会の価値観の縮図のようなところがあって、この「○○一家」というもの、ボクはある意味、その典型ではないかと思っています。

日本社会、とりわけ江戸社会というのは、すべてにおいて「家」を中心として社会が構成されていました。
たとえば大名にしても、山之内家であり、上杉家であり、浅野家であり、井伊家、松平家等々、藩主を家長とする「家」という概念です。

そしてそこにいる藩士たちも、それぞれは「家」を持ち、家督も俸禄も「家」を単位として形成されています。

たとえば徳川家には八万騎の旗本、御家人がいるとされていますが、その旗本や御家人たちは、それぞれ佐藤家であり、榊原家であり、松平家であり、井伊家、勝家等々の「家」の集まりです。

欧米型文明が、個人を単位として形成されているとするならば、日本型文明は「家」を単位として形成されている。

「家」が集まって、藩と言う名の「家」を構成し、その諸藩が集まって「日本」という「家」が形成されている。
その「家」の中の本家の中の総本家が、天皇家にあたります。

以前、出光佐三氏のことを書いた「社員は家族だ」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-827.html)の記事で、出光石油の創業者の出光佐三氏が、「社員を家族」として大切にした、というお話を書かせていただきましたが、こうした「社員は家族」、会社は、一個の「家族」であるという考え方は、日本社会の、かつては基礎をなしていた考え方の一つです。

日本という国は、いまから2673年前に、神武天皇が即位された際、建国の理念として「八紘をおおいて一宇となす」と述べられました。
「八紘」は四方八方の意、一宇は「ひとつ屋根の下」という意味です。
「四方八方をおおって、ひとつ屋根の下に暮らす家族のような国家を築く」これが日本建国の理念です。
ですから、大名も会社も家族、もちろん我が家も家族、そして清水一家のような者でも、まさに「一家」つまり「家族」を名乗ったのです。

さて、その清水一家ですが、保下田の久六を斬ったり、富士川舟運の権益を巡って甲州の黒駒勝蔵と抗争を繰り広げたりしながら、次第に勢力が増え、気がつけば配下千人の大博徒一家に成長しています。

幕末の風雲急を告げた慶応4(1868)年(明治元年)、次郎長49歳のときのことです。
新年早々に、京都で鳥羽伏見の戦いが起こる。

この戦いのあと、有栖川宮を大総督とする東征官軍が京都を出発して東海道を東に向かって進発するのだけれど、問題は駿府(静岡)です。
駿府といえば、徳川家のおひざ元です。
街の住民も含めて、何が起こるかわからない。

そこで菅軍は、街道筋の年貢を、従来の幕府の半分にするとお触れを出すとともに、遠州浜松藩の家老であった伏谷如水を駿府町差配役に任命します。

この伏谷如水が、次郎長に街道警固役を命じるのですが、このときの様子が(「次郎長翁を知る会」のHPに書かれているので、引用します。

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ある日、清水港の長五郎のところに出頭命令が来た。
駿府町差配役、判事伏谷如水からである。

長五郎はすでに50の声を聞こうという年頃である。
女房のお蝶を呼んで言った。
「おれは罪の多い身だ。出頭すれば、二度とおまえっちの顔を見ることはできめえ。逃げようと思やあわけねえことだが、今度のことは、お上がおれを捕えようというのじゃない。特別のことでお召しになるようだから、逃げかくれするのは、やっぱ、よくねえ。行かなきゃなるめえ」

長五郎が腹をくくって出頭すると、小役人が案内して、別室の伏谷判事に引き合わせた。
判事が言った。
「今戦乱で何かと事の多い時代だ。武士だ、官員だと詐称して悪事を働く者が後を断たない。一方、取締る側も、旧幕臣との間で意見の食い違いから上司に抗するなど、憂慮すべきことが多い。そこで、その方を登用して沿道の探索に当たってもらうことにした。これまでの処世態度を改めて、御奉公につとめてもらいたい」

長五郎は固辞した。
「とんでもねえことです。私らのように身分いやしい無頼の徒が、お上の御用なんてつとまるわけはありません。どうか勘弁して、ほかの人を選んでおくんなさい」

長五郎の返事を予期していたように、判事は部下を呼んだ。
官員の制服を着た部下の男が、書類を手にさげて部屋に入って来た。

下座の方に坐っていた長五郎が、顔をあげてその男を見て驚いた。
よく見かけた顔である。
その男は清水の港町を近頃よく歩いている足袋の行商人である。
長五郎の家にも、一度買ってやったら度たび現われ、時には酒を出してやったこともある。

伏谷如水は小池にささげ持つ書類を朗読するように言いつけた。
長五郎は頭を下げてこれを聞いた。
長五郎の旧悪が細大もらさず記されている。
長五郎は背中に冷水をかけられたかのようであった。

「包みかくしなどできることではございません。お上の御明察には恐れ入った次第ですが、ただ間違っていることが二件ほどございます」

長五郎は誤認の箇所を詳細に申し立てた。
判事は、率直な長五郎をほめ、登用する旨を正式に申渡した。

積年の長五郎の罪科はすべて免除され、平民としては破格の帯刀を許されるという栄誉もあわせて、命を受けて長五郎は退出した。

天保13年、23歳の年に国を売って清水を出て以来、実に27年の間、常に危難の中に身を置き、一日たりとも世をはばからない日はなかった長五郎は、ここにおいて初めて、青天白日の身となったのである。
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こうして明治元年3月から7月まで街道警固役を無事つとめ終えた次郎長に、この年の9月、事件が起こります。

事件に登場するのは、幕府の軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」といえば、勝海舟が海軍伝習所で、坂本竜馬らとともに操船を学んだ船であり、また、福沢諭吉らを乗せて、サンフランシスコまではるばる太平洋を横断した船としても有名です。

この「咸臨丸」が、明治元年、海軍副総裁榎本武揚らとともに、品川沖を脱走して函館に向かうのですが、途中で台風の影響による暴風雨にあい、榎本艦隊とはぐれて、下田港に漂着してしまうのです。
そして救助に来た蟠竜丸とともに清水港に入港した。

9月11日、榎本艦隊と合流するために、蟠竜丸が先に清水を出発。次いで咸臨丸も出航しようとした矢先、明治新政府の艦隊に清水港内で襲われ、沈没してしまうのです。

このとき次郎長は、傷ついた徳川方の軍人を官軍の目が届かないように密かに逃がし、湾内に浮遊する屍を拾い集めて、手厚く供養して葬ったのです。

港に浮かんだ多数の幕府軍の兵士の遺体は、次第に腐乱し始めていたのだそうです。
官軍は放置し、漁民たちには漁の邪魔にもなっていた。

けれど「賊軍に加担する者は厳罰に処す」とのお触れが出ているので、誰も怖くて遺体の処理ができない。
いまの東日本大震災の被災地の遺体と同じです。

けれどこのとき次郎長は「不仁のために仁をなさずんば」と啖呵を切り、ただちに子分たちを連れて小船を出し、港に浮かぶ遺体の回収作業をおこなった。
政府が何もしないので、地元の自警団が、遺体を回収して埋葬、石碑まで建てた、ようなものです。

この時次郎長は、次のように述べたと伝えられています。
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人の世に、賊となり敵となる悪む所、唯その生前の事のみ。
もしそれ一たび死せば復た罪するに足らんや。
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日本人だなあと感じます。

ところがこのことで次郎長は糺問官に出頭を命じられます。
「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」というわけです。

ところがここで次郎長は、「敵だろうが味方だろうが、死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けしましょう」と啖呵を切って突っぱねた。

いまでもそうだけれど、ヤクザの大親分の啖呵というのは、実におそろしい迫力のあるものです。
結果として次郎長はお咎めなしになる。

もっと、その裏には、幕末の剣客、山岡鉄舟のフォローがあったともいわれています。

鉄舟は、次郎長の行動に感動し、「壮士墓」と揮毫を送った。
これは、いまでも巴川のほとりの埋葬地で墓標となって現存しています。

その山岡鉄舟の勧めで次郎長が明治7(1874)年にはじめたのが、富士山麓の万野原の開墾です。
いまではすっかり住宅街になっている万野原ですが、明治の初めごろは、ここはうっそうとした雑木林だった。
次郎長は、そこをおよそ10年がかりで広大な水田地帯に開墾したのです。

はじめたのが次郎長55歳のときですが、次郎長自身も、鋤や鍬を持ち、人夫衆と一緒に開墾をしたそうです。
人夫衆には、お上の了解を得て、懲役囚を数十人を使ったのだけれど、誰ひとり脱走する者はいなかったそうです。

翌明治2(1869)年9月、江戸城を明け渡した徳川慶喜は、駿府(今の静岡)に居住することになります。
これを受けて、この年の12月、江戸の大物親分の新門辰五郎が次郎長に会い、徳川慶喜公の護衛役を依頼します。
次郎長は辰五郎の意思を引き継ぎ、影ながら晩年まで慶喜の護衛を果たしていますが、徳川家では、その労に対し、葵の五つつの紋が入った熨斗目(かみしもの下につける礼服)を次郎長に送っています。

そして博徒稼業から足を洗った次郎長は、万野原の開墾の他、清水港の整備事業の推進を説いて回り、単なる廻船港にすぎなかった清水港を、国際貿易港として機能するように築造しています。

さらに清水港から、蒸気船を使って清水~横浜間の海運会社を起こし、米や海産物の輸送だけでなく、静岡茶の販路の拡大にも貢献しています。

また清水港内に宿泊施設「末広亭」を築造して、船旅の旅客の宿泊に供し、ここで英語塾を開き、米国人教師を雇って、塾を清水の青年たちに開放しています。

晩年の次郎長は、「どてら姿で縁側に腰をおろし、子供たちの相撲を眺めている好々爺」だったそうです。

たとえ犯罪者であっても、あるいは博打打ちであっても、心のどこかで「いつかは俺も世のため人のためになる真人間になろう」という気持ちを持ち続ける。

それが日本人という生き方だし、そんなことを実際に実行し生涯を駆け抜けたのが、清水次郎長だったのではないかと思います。

次郎長親分が、いまだに大変な人気なのも、単に次郎長三国志の男伊達というだけでなく、晩年の彼がほんとうに体を張って、世のために尽くしたという、そういう姿が、多くの庶民に受け入れられたのだと思う。

ただの喧嘩早い博徒の話なら、広く大衆に受け入れられる物語とはならないからです。

現実の問題として、暴れん坊の次郎長話が好きだと子供が言ったとして、それが単なる暴れ者だったとしたら、親にしれみればやはり心配です。

ところが次郎長三国志を呼んだり観たり聞いたりして、子供が興奮状態になったとしても、「実はな、清水次郎長と言う人はたいへんに偉い人で、晩年の彼は・・・」と話して聞かせたら、子供にはものすごくいい刺激になる。

一昔前の日本では、演歌や浪曲といった大衆芸能でも、人の道や人の生き方がテーマになることが多かったように思います。
おそらくそれは、日本人としての生き方、つまり人の道を常に意識する社会文化を、多くの日本人が持っていたからなのではないかと思うのです。

けれど昨今では、個人主義です。
自分さえよければいい、いまさえよければそれでいい。人の道よりゼニカネが大事、というのが、昨今の汚染された日本の情況といえるかもしれない。
それでは日本が日本でなくなってしまう。

温故知新というのは、古きをたずねて新しきを知るの意ですが、そういうことをもういちど考え直してみるべきときに、いまの日本はきているように思えるのです。

※この記事は2016年6月のねずブロ記事の再掲です。

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