かつて百済や新羅があった時代、百済王や新羅王の倅(せがれ)、つまり次の国王となる王子は、人質として日本の都に留め置かれました。
これは日本における伝統的な統治方法で、こうすることによって日本で成長した王子が日本人女性と結ばれる。
そしてその王子が次の国王になれば、その次の王となる王子は日本人との混血ですから、きわめて平和的に血が混じり、両国が自然と良い関係になっていく。

この方法を全面的に採り入れたのが元の大帝国で、元もまた征服した各地の王から、後継ぎの王子をカラコルムに人質に取り、子供のうちからモンゴルで過ごさせることによって、モンゴルの言葉や習俗にも通じ、モンゴル人の妻を娶って、次の国王を生んでいました。

また同時にこのことは、次の国王となる王子が人質になっているということは、その王国が裏切れば、その王子はまっさきに処刑されるわけです。
つまり、王は、宗主国を裏切れないというわけで、これはどうみても、王子が人質に取られている側が、宗主国の属国となっているということが明らかです。

これと同じ仕組みが西洋にもあって、国王の側近にあって国王を護るための兵のことを近衛兵と言いますが、その近衛兵というのは、王に従う貴族たちの跡取り息子たちです。
貴族は、王の命令によって、外地に出征していきますが、もし、その貴族が王を裏切ったり、裏切ったと疑われるような振舞いをすれば、即時、王子は処刑、国許にある貴族の領地や財産も没収、貴族の館に勤める女たちも奴隷として売買されるというのが、近衛兵の仕組みです。
世の中、決して甘くはないのです。

ところが戦後の日本の歴史教科書や歴史小説、あるいは韓国の歴史教科書は、百済や新羅が日本に王子を人質として出していたことについて、これを
「親善大使として、日本に長く逗留させていた」
などと、まことしやかな嘘を書いていました。

少し考えれば、親善大使なら、子供時代から青年期に達するまで何年もの間、日本にずっと滞在し続ける理由がありませんから、誰でもこの書き方がおかしいことに気付いてしまうのですが、そのように書いた経験のあるある作家の方に以前伺いましたところ、当時はそう書かないと流通に乗せてもらえなかったのだそうです。

もっとも韓国の歴史教科書は、新羅や百済の方が日本よりも文化的な上位国であって、遅れた国である日本に王子を「親善大使」として送ったのだと相変わらず強弁しているようです。
しかし後年の李氏朝鮮は、モンゴルに征服されたとき、やはり王子をモンゴルに送っていますし、これは明らかな人質以外の何ものでもありませんし、日本は新羅にも百済にも李氏朝鮮にも、天皇や将軍の跡取りを人質に送ったことなど、歴史上、ただの一度もありません。
嘘は、つじつまが合わないから、結局はバレるのです。

同じように嘘にまみれたものに、江戸時代に朝鮮から来日した朝鮮通信使があります。
この朝鮮通信使について、Koreaでは
「徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、
 先進文物を取り入れようと
 李氏朝鮮王に懇願して招いたもの」
だったと教えているのだそうですが、馬鹿な話です。
徳川幕府というのは、いまのお金に換算すれば、将軍の個人資産が800兆円に達していた当時にあって、世界最大の大金持ち政権です。
なにせ世界の金の3分の1を支配していたのです。
それがどこをどうしたら「徳川幕府が経済的に困窮」となるのでしょうか。

しかも朝鮮通信使は、毎度600人からの大勢でやってきて、日本国内を対馬から江戸まで旅するのですが、その旅の経費は、毎度、全額日本持ちです。
「将軍家就任のお祝いにやってきた」というのですから、粗略に扱うわけにもいかないし、彼らに自由行動を認めれば、娘はかどわかすし、暴力は振るうし、放置できないから仕方なく日本側で全部経費の面倒をみながら、彼らの行動を制限するしかなかったのです。

ちなみに李氏朝鮮では、国王から派遣される巡見使が国内の地方を回るときは、それぞれの滞在先で巡見使の一行の全員が、それぞれの村の若い娘に夜伽を命じ、言うことを聞かなければ、娘が承諾するまで、その娘の眼の前で、その娘の親兄弟をムチでぶっ叩くというのが慣習でした。
彼らの国ではそれが常識であったとしても、我が国では、村人たちは全員、天子様の大御宝であり、これを護るのが大名や将軍の務めですから、彼らの行動を制約するためには、厳重警護するしかなかったというのが実情でした。
そこまでしても、よその国に来て、鶏泥棒はするし、畑の作物は勝手に持ち去るし、旅籠に泊めれば、旅籠にある置物から布団、茶碗まで全部持っていってしまう。
朝になれば、旅籠にちゃんとトイレがあるのに、わざわざ路上に出てフンをする。
だから江戸時代の末期になると、さすがにあまりに迷惑だからと、対馬で追い返し、追い返すことに成功した対馬守は、その功績で将軍から多額の謝礼を受け取っているのです。

そういえば、江戸時代のはじめ頃、秀吉の時代に日本にやってきた朝鮮の儒者や職人たちを、李氏朝鮮が「返せ」と言ってきたことがありました。
職人たちというのは、陶工などの特定の技術知識集団だったのですが、この求めに、儒者はほとんどが帰国を希望したので、日本はあご足つきで、彼らを朝鮮に送り返しました。

ところが技術職人である陶工たちは、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残りました。
これには理由があって、李氏朝鮮では、陶工たちは白丁(奴隷)であり、収奪の対象であり、最下層の賤民です。
上から司令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられました。

ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができる。
もちろんなかには、それでも日本人を信じられなかったり、どうしても故郷に思い残すところがあって帰国を申し出た者もいたけれど、ほとんどの職人たちは、むしろ日本に残って腕を振るいたいと願ったのです。
つまり、圧倒的大多数の半島人職人さんたちは、日本に居残ることを希望したのです。

ところが李氏朝鮮にしてみれば、これが気に入らない。
あくまでも「返せ!」という。

このことは、朝鮮との国境を接する対馬の対馬藩にしてみれば、大きな問題です。
なぜなら対馬藩は、島の田畑に限りがあるため、基本的に海洋からの漁労収入と、日本本土および朝鮮との交易が藩の財政と民政の柱です。
ですから対馬藩は、領海内での漁業操業の安定化のために徳川幕府と李氏朝鮮の和解を願いました。

一方、李氏朝鮮は、慶長の役のあと、ようやく明軍の脅威が去り、国情が安定してきた李氏朝鮮は、対馬藩に対して、日本が朝鮮征伐の謝罪をし、捕虜を帰すなら、国交を開いても良いともちかけました。
いつもの朝鮮の自尊肥大なのですが、言うことをきかなければ武器を持たない対馬の漁民に対して危害を加え、対馬に軍を出すというのですから、放置できない。
対馬の人たちには、元寇の際の苦い思い出があります。
皆殺しにされ、女達は強姦され、裸にして軍船に吊るされたのです。

こうした李氏朝鮮の意向に、対馬藩がどれだけ困ったかは、想像に難くないのですが、当時の日本では、李氏朝鮮を「国」としてさえ認識していません。
日本人は、民のために国があると考えますが、当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮という明と通じた暴力団が、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域です。
当時、全世界の鉄砲の半数を保持し、世界最強の軍事大国となっていた日本にとって、そうした朝鮮半島の暴力団との交流は、「外交」の名にさえ値しないと考えられていたのです。
これは正しい認識というべきです。

そうはいっても、対馬藩にとっては、相手が暴力団のようなものだからこそ困るのです。
やむをえず対馬藩主の宗義成は、朝鮮出兵とは無関係の藩内の罪人たちの喉を水銀で潰して声を出せないようにしたうえで、「半島人捕虜」として、李氏朝鮮に差し出しました。

李氏朝鮮側も、形式が整っていれば「日本が捕虜を帰した」と公式には発表できるため、事実を知りながらこれを黙認して捕虜(実は罪人)たちを受け取りました。
李氏朝鮮の要求に従ったわけですから、これでひと安心、となるはずでした。

ところが、ひとつ要求が通ると、ますます増長して要求をエスカレートするのが、古来変わらぬ彼らの特徴です。
今度は、日本の徳川幕府に、「国書をもって朝鮮征伐行為を謝罪せよ」と言ってきたのです。
日本にしてみれば、戦いの相手は、あくまでも明国であって、半島は明国の出先機関という認識です。

困りきった対馬藩(宗家)は、慶長10(1605)年、日本の謝罪国書を勝手に偽造し、李氏朝鮮に提出しました。
とんでもない、というご意見もあろうかと思いますが、李氏朝鮮は、日本の謝罪さえあれば、それ以上、ことを荒立てることなく、対馬藩の領海への侵害もしないと約束したのです。

このことは、平成10(1998)年の日韓共同宣言のときの日韓外交と酷似しています。
このとき日韓共同宣言をまとめたのは、当時外務大臣だった高村正彦氏(衆議院議員、現・自民党副総裁)ですが、氏はこのとき、金大中韓国大統領(当時)から、
「一度謝れば韓国は二度と従軍慰安婦のことは言わない」と説得され、
「痛切な反省と心からのおわび」
を共同宣言に盛り込みました。

その結果何が起こったかといえば、ひとたび日本政府から「反省とお詫び」を引き出すや、韓国は手のひらを返したように、今度はこの共同宣言をネタにして、慰安婦問題を日韓関係のカードに使い、賠償を要求し、韓国への巨額の財政援助をゴリ押しし、さらに世界中で、日本が半島人をセックス奴隷にしたと宣伝してまわっています。

日本人の感性では、「綸言汗の如し」といって、ひとたび口に出したなら、それを守るのが信義の道ですが、半島人にはそうした考えはありません。
ケモノと同じで、「いま」が満足できれば、真実などはどうでもいいのです。
ケモノにとって約束は、その場限りの言い逃れにすぎないのです。

実際に、朝鮮半島に渡り、そうした半島人の習性を、日常的に目の当たりにしていた慶長・元和・寛永の頃の日本は、ですからそうした半島人の体質、政情を体験的に熟知しています。
ですから、家康も、秀忠も、家光も、李氏朝鮮の言い分など、まるで頭から相手にしていません。

一方対馬藩では、藩主の宗義成の「お詫び文」の偽造に対して、家老の柳川調興(やながわしげおき)が、三代将軍徳川家光に、「嘘はいけない」と藩主の宗義成を告訴しました。
柳川調興というのは、たいへんな教養人で、China語、Korea語にもよく通じ、古今の書物にも精通する人物です。
それだけに藩主の二枚舌外交は許せなかったのでしょう。

江戸幕府内でも、幕府の官僚の一部は、柳川氏の意見を、もっともなことだと評価したようです。
そこで江戸幕府では、家光の命で、江戸城大広間に、江戸にいた全国の大名を全員総登城させました。
そして将軍家光の前で、対馬藩主の宗義成と、対馬藩家老の柳川調興を直接対決させました。

理は、柳川調興にあります。
嘘はいけないからです。
まして国書の偽造など、もってのほかです。

ところが、その場にいた全国大名の総意と、将軍の家光の判断は同じでした。
結論は、
「藩主宗義成にお咎めなし」
というものです。
そして家老の柳川調興は津軽に流罪になりました。

なぜでしょうか。
なぜ嘘はイケナイと言った柳川調興が罰せられ、偽書を書いた宗義成が無罪とされたのでしょうか。
このことを、私達はしっかりと考えなければならないと思います。

現実に朝鮮出兵をしてきた全国の大名たちからすれば、民を人として扱わず、民に対して暴虐と貪りの限りを尽くし、平気で奪い、殺し、その肉を食らう李氏朝鮮の一族は、まさに獣であり、国の名に値しないものです。
獣に対して自己防衛のために偽書を送り、対馬藩の民衆の安寧を図るのは、たびたび熊に襲われる村人たちが、熊に偽の餌を与えて、熊からの被害を食い止めようとするのと同じです。
つまり、宗義成の行動は、藩主として当然の行いであり、李朝を「人の王朝」と考える家老の柳川調興のほうが、むしろ現実をわきまえない「曲学阿世の徒」であり、その曲学に基づいて藩主を告訴するなど、もっての外だと考えられたのです。
だから、柳川調興は遠島流罪となったのです。

江戸の武家社会では、この事件を
「柳川一件」
といって、幕末から明治にかけても、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓とされました。

要するに簡単に言うと、どんなに勉強ができて通訳ができたとしても、「民を靖(やす)んじる」という施政の本義を失っては、国民の生活を守ることはできないし、そういうことでは人の上に立つ武士は勤まらない。
どんなに学問ができて、良い大学を出ようが、いくら一見して正しげな理屈を言おうが、
「国を靖んじ民の安寧を離れては、
 曲学阿世の徒でしかない」
ということによって、この事件を「武家のいましめ」としてきたのです。

もっとも対馬藩では、この事件で漢籍、朝鮮語に通じた柳川調興がいなくなり、朝鮮と直接交渉ができる通訳がいなくなってしまったため、藩主の宗義成は、幕府に泣きついて京都五山の僧の中から漢文に通じた碩学を派遣してもらい、ようやく外交ができる体制を整えています。

さて、こうした対馬藩宗家の努力もあって、李氏朝鮮からは、江戸時代を通じて、都合12回、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、来日しています。
そして最終回の12回目が、上に述べた対馬差し止めとなった通信使です。

初回が慶長12(1607)年で、最終回が江戸後期の文化8(1811)年です。
当初の3回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされていますが、以降の9回は、いずれも、新将軍就任の祝賀のための来日です。

その朝鮮通信使の第11回目、おおむね朝鮮通信使が、制度として定着していた宝暦14(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。

このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を詳細に書き遺しているのです。
これが「日東壮遊歌」で、本にもなっています。
希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時の半島人官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。

そこに次のように書かれています。
〜〜〜〜〜〜〜
●1764年1月22日 大阪

100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装だ。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。

Chinaの伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の1万倍の発展だ。

北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。

●1764年1月28日 京都

街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。

「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。

●1764年2月3日 名古屋

街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。

人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、
美しさを失うだろう。

(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。

●1764年2月16日 江戸(東京)

左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。

全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
〜〜〜〜〜〜

これが来日した朝鮮使節の実際の感想です。

この感想が、いまから248年前の半島人の日本を見た感想であり、その感想は、当時来日した半島人にとっても、現代日本に来る半島人にとっても、ほとんど変わりがない、ということは注目に値します。

そして、自分たちが思っていた「我が国が一番」という認識(認知)と、実際に自分の目で見たときの認識(認知)が、あまりにも不一致(不協和)だったとき、本来なら人は他国に倣って自分たちも進化しよう、進歩しようと考えるのがあるべき普通の姿です。
これを「認知不協和」というのですが、普通はこうした認知不協和は、自国の文化の発展に大きく寄与するものです。

ところがその認知不協和が、なぜか「嫉妬」になってしまうのが、半島の特徴で、
実際、金仁謙の上の文にも、
「悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。
 この土地を朝鮮の領土にして、
 朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。」
と、考えられない不逞な思考に走っている様子が描かれています。

感情は、とかく低レベルであればあるほど、激しくなります。
足を踏んだ、踏まない、言葉遣いが気に食わない、肩がぶつかった、ガンを飛ばされた等々です。
人は、とかく次元の低い感情であればあるほど、過激に走る。

そういう斜めにしか物事を見れなくなった認知的不協和症状の相手に対しては、関わりをもたないことが、最良の防衛策です。
相手にせず、関わらず、近寄らない。
そうすることで、彼らが経済的にも社会的にも追いつめられれば、自然と、反省の息吹も芽生えるというものです。

さて、その朝鮮通信使ですが、おもしろい絵があります。
京都大学が所蔵している「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」の絵です。

 鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節

この絵は、朝鮮通信使が鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵です。
ご覧いただくとわかります通り、白昼堂々の往来で、朝鮮通信使一行が、日本人の町民からニワトリを強奪し、騒ぎになっている様子がみてとれます。

場所は辻の中央です。
ニワトリを奪おうとする朝鮮通信使たち、そうはさせじともみ合う町人たち、足下には明らかに日本人と見られる町民が倒れています。
通信使を押さえつけようとする町民、ニワトリを奪い取って、別な通信使に渡そうとしている半島人、そうとうな騒ぎであり、乱闘があったことが伺えます。

日本では、官が民の所有物、たとえばニワトリなどを勝手に泥棒するなどということは、まず考えられないことです。
なぜなら、官は民のためにあるというのが、官民両方の「常識」だからです。
けれどそれは、あくまで「日本の常識」であって、「朝鮮の常識」ではありません。

では、朝鮮ではどうだったのか。
それについては、明治初期に、日中韓を旅行した英国人女性イザベラ・バードの朝鮮紀行に詳しく紹介されています。

〜〜〜〜〜〜
彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつかんで隠してしまう。
伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。
従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
(イザベラ・バード「朝鮮紀行」P133~P137)
〜〜〜〜〜〜

要するに1392年から1910年まで、500年続いた李氏朝鮮では、支配階層である貴族(両班)が、庶民(白丁)からニワトリや卵を勝手に奪うのは、支配者としての「当然の権利」であったのです。

ニワトリや卵だけではありません。
魚も、食べ物も、穀物も、女性も、欲しいものがあれば、勝手に奪う。
目の前にアベックがいて、その相手の女性が気に入れば、その場で平気で奪う。
幼子を連れた若い母親がいて、その母親が気に入れば、その場で蹂躙する。

日本では「官は民のためにある」が常識ですが、朝鮮半島ではあくまで「民は官のためにある」のです。
上下関係が何よりも優先する。
上に立つ者は、下のものをどれだけ犠牲にしても構わない。
それがあたりまえの常識です。
それが、朝鮮流儒教です。
彼の国の常識です。

この傾向は、いまでも続いています。
日本では子供に「思いやりのある立派な大人になれ」と教えます。
けれど、朝鮮では「とにもかくにも人の上に立て」と教えます。

下になったら、何もかも奪われる。
だから、どんな卑怯な手を使ってでも上に立った者が勝ちというのが、彼の国の古来変わらぬ常識だからです。
日本とは、根底にある「常識」が異なるのです。

同じくイザベラバードの朝鮮紀行に、次の一節もあります。
〜〜〜〜〜〜
高級官僚や両班はお付きの行列を連れ、
行政官の屋敷に泊まり、贅沢な食事をとる。
快適とはほど遠い宿屋に泊まり、
村の食べ物をとらなければならないはめに追いこまれたとしても、
すべて最上のものが選ばれ、
それに対して代金は支払われない。
(同上P168)
〜〜〜〜〜〜

下々の者が、それによって飢え死にするようなことがあったとしても、官僚は我関せず、なのです。
自分がその場で贅沢ができればそれで良いと考える。
日本人にはあり得ない感性です。

そういう一行が、朝鮮通信使として日本に来たのです。
宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれた。
朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといいます。

そしてそのことは、何も18世紀の大昔のことばかりではありません。

昨今の対馬には韓国人観光客が大勢やってくるけれど、例えばタクシーで、降りるときにカネを払わずに走って逃げていく。
あるいは、料金を払っても、その支払いの際に、五百円玉とそっくりの五百ウォン(価値は十分の一)を混ぜてくる。
その場で気づいて、注意しても、何事か大声で喚き散らして、泣き寝入りさせられてしまう。

スーパーでは、並んでいるバナナを、カネも払わずにその場で食べてしまう。
店員が気づかなければそのまま金を払わずに立ち去る。

コンビニでは、5、6人の集団でやってきて、一人が支払いをしている間に他の者が万引きする。
若い女性客は陳列棚の口紅をその場で使って元の棚に戻すので、売り物にならなくなる。
料理屋には、食べ物を持ち込み、注文しない。

旅館では、シャンプー、リンス、タオルから、トイレットペーパー、果は部屋に据え置きのテレビまで、残らず持ち去ってしまう。
部屋や建物を汚し、フロントやエレベーターなどの公共スペースで、平気で大小の用をたす。
部屋の中で何をするのか、便臭が激しく(日本人女性を騙して部屋に連れ込み、スカトロ行為をしているというウワサあり)、部屋に臭いが付く。
支払いの段階になってクレームをつけて値切る。

浴場施設では、湯船の中で平気で石鹸を使い、体を洗う。
日本人客が嫌がって来なくなり、廃業した温泉もある、等々。
これが近年の対馬で、実際に起こっていることです。

山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
〜〜〜〜〜〜
通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
食事に難癖をつけて、
魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、
予定外の行動を希望し、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあった。
〜〜〜〜〜〜

実は、上に紹介した金仁謙が来日したときの第11回朝鮮通信使の帰り際、ひとつの事件が起こっています。
明和元(1764)年4月6日のできごとです。

この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出したのです。
通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者が、これを咎め、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と、悪口を言いました。

このとき、朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗にこのときとばかり、
「あなたは日本人のことをそのように言うが、あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を、勝手に持ち帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返したのです。

すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然火病を起こして怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えました。

鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場です。
だからその場では、我慢しました。
けれど、下級武士とはいえ、武士は武士です。

杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首し、切腹しました。

よく、朝鮮使節をさして、「日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」と書いている教科書などがありますが、残念ながら鶏泥棒の文化や技術が、日本に伝承されたという記録はありません。
つまり、朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実は、まったくありません。

当時の朝鮮からの日本の輸入物は、半島人参と、China産の生糸と絹織物です。
他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたのです。
ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培(芋は収穫が早い)して、多くの人が助かったという話から、通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培したといいます。

鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。

ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さばかりする。
一回の通信使でやってくるのは、だいたい450人くらいの団体です。
そのうちの100人の水夫が大阪に留まり、350人が、徒歩で江戸向かっています。
釜山を出発してから、半年くらいの滞在です。
さらに、朝鮮通信使には、対馬藩から800人の護衛の武士が同行しています。

800人の警護がいてさえ、朝鮮通信使は、あちこちで問題を起こしたのです。
幕府は、この朝鮮通信使のために、毎度100万両の予算を計上しています。
それだけの接待をしたのです。

けれど、彼ら朝鮮通信使たちは、風呂にはいる習慣がないから臭い。
日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあるのに、路上で大小の用をたす。
朝になると、350人が一斉に、往来の路上で大用をたすことを考えてみてください。
どれだけ迷惑なことか。

けれど、街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、歓迎のための踊りや祭りなども企画し、実行しています。
負の面もたくさんあったけれど、それでも歓迎をする。
楽しかった思い出を、たいせつにする。
それが日本人です。

そうそう、最後にひとつ。
朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
表向きは、あくまで、無事な航海を願ってのことです。

けれど、本音は、
「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
というものであったともいわれています。

隣人と仲良くする、常に仲良くしたい、というのは、日本人の変わらぬ習性です。
けれど、まともな人たちなら、そうやって仲良く暮らすことはとても大切なことだけれど、まともでない人たちまでごっちゃにするのは、国民の生活そのものを破壊する原因となります。

冒頭に掲げた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。
幕府は、30年に一度の朝鮮通信使の行列のために、莫大な予算を計上して、通信使たちの行列を荘厳しました。
けれどそれは、あくまで30年に一度のイベント毎だったからです。
逆にいえば、それだけのおもてなしはするけれど、それ以外には「半島人は来るな!」ということなのです。

私は、ChinaやKoreaについて、限定的な鎖国を実施せよ、国内にいる在日外国人の通名を廃止せよ、という立場をとり、国政にそのはたらきかけをしていますが、これは民の生活の安全と安穏を保つための、最低限の国の使命であると思っています。

※この記事は2012年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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