戦後の日本は、GHQによって大日本帝国が解体されて、日本国となり、この変化の中で利益や地位を得たいわゆる敗戦利得者たちによって、いいように蹂躙され、日本人は腰抜けになった・・・と、よくいわれています。
果たして本当にそうなのでしょうか。
まず「大日本帝国が解体されて、日本国となった」という部分について、ここから「8月革命説」なんていうものが提唱されたことがあります。
元法政大学教授で、東京大学名誉教授となった憲法学者の高橋和之教授によって提唱された説で、日本が1945年8月にポツダム宣言を受諾したとき天皇主権は否定され、その瞬間に法的には「革命」が生じたという理解を背景とした説です。
この見解は、一部は正しく、根底において間違っています。
多くの人が誤解していることですが、日本語でいう「国」という概念は、実は英語でいうところの「ネイション(Nation)」と、「ステイト(State)」という概念に分けて考えなければならないものだからです。
ネイションというのは、文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団としての国のことで、たとえば縄文以来続く日本ですとか、神武創業以来の日本といったものがこれにあたります。
ステイトは、国家、政府、行政組織などの政治的組織のことで、日本の歴史でいえば、織豊政府、徳川政府、明治新政府、戦後政府といったものがこれにあたります。
従って、8月革命説なるものは、政治組織としてのステイトが、大日本帝国から日本国へと移行したという面においては正しいといえますが、だからといって縄文以来1万7千年、新石器時代からでいうならばおよそ4万年という途方もなく古くて長い歴史を持つ日本というネイションの歴史伝統文化が失われたわけではない。
高橋教授は、憲法学者ですから、あくまで憲法という限定された範囲の思考をしているのであって、日本そのものを理解しているとはいえない。
その意味で、8月革命説は、部分的に正しい部分もあるけれど、根底において誤解を生みやすく、その意味で間違った説ということができるのではないかと思います。
さて、ものごとを巨視的に観ると、これまでとは違った大きな「動き」のようなものが見えてくることがあります。
それは、言ってみれば「神々の目線」ともいえるもので、そういう目線で日本や世界の歴史を俯瞰すると、いろいろなものが見えてくることがあります。
たとえば大航海時代といえば、15世紀から16世紀にかけて展開され17世紀の中頃まで続く、ヨーロッパ諸国による新航路や新大陸が発見された時代であり、さらにそこから有色人種を民族ごと支配する植民地時代へと繋がっています。
植民地時代は、世界の有色人種国が次々と征服され植民地化され奴隷化された時代で、その一方では、植民地利権を巡って白人諸国もまた繰り返し武力衝突をしていた時代でもあります。
そんな世界にあって、日本は東洋のはずれに残された世界唯一の有色人種の独立国となっていたわけです。
その日本は嘉永6年の黒船来航以降大混乱が続き、数多(あまた)の流血事件の後、ようやく明治新政府ができあがりました。
けれどこの時点で日本は、国内で保有していた金(Gold)のほとんどを海外に流出させ、新政府の出発時点では、国の独立はかろうじて保ったものの、政府には資金がなく、暦まで変えてようやく資金繰りをしなければならないほどの超貧乏政府としての出発をしています。
ところがその貧乏政府は、殖産興業による富国強兵政策によって、またたくまに富裕国となり、日清戦争に打ち勝つと、明治35年(1902)年には世界最大の版図を持つ大英帝国と対等な同盟関係を結び、明治38年(1905)には大国ロシアを打ち破って、有色人種国としては世界でただひとつ、文字通り欧米列強に並ぶ世界の超大国の仲間入りを果たし、ついに明治44年(1911)年には、幕末からの懸案だった不平等条約を全廃しています。
そして第一次世界大戦終結後のパリ講和会議(1919年)で、日本は世界に向けて「人種の平等」を高らかに宣言するに至るわけです。
ところがその時代の西欧諸国は、植民地からの収奪によって国富を得ていました。
ですから、人種は平等だ!植民地をなくせ!という日本の主張は、当時の世界にあって、正しい主張ではあるけれど、西欧諸国の、とくに支配層にある人々には、決して受け入れることのできない主張でもあったわけです。
世界を支配していた国・・というより、植民地支配をしていた人々、つまり植民地経営によって巨富を得ていた、西欧の影響力のある人たちにとって、日本の主張は「500年続いた家族の繁栄の源泉となる財産のすべてを放棄せよ」というに等しい主張であったのです。
で、どうなったのかというと、日本が人種の平等を高らかにうたいあげたその瞬間から、日本は世界の列強諸国の敵になりました。
一神教の世界では、敵対するものはすべて悪魔の手先です。
つまりこの瞬間から、西欧諸国の影響力ある人々にとって、日本は(自分たちの富を奪おうとする)悪魔の手先であり、悪の枢軸国であり、世界の正義の敵となったわけです。
そこでどうするかということになって選択されたことが、悪魔同士を戦わせること。
つまり、日本と47を戦わせ、両方が疲弊したところで、両方を完全支配下に置こうという図です。
この場合、西欧諸国立場は、47の平和のための支援活動を行うという形になります。
支援される47の国民党蒋介石は、ただ47の民衆を徴発してきて日本軍と戦わせているだけで良いのです。
そうすれば、蒋介石のフトコロには、豊富な軍資金が西欧諸国から降ってくる。
ところが日本の軍は強く、蒋介石は負けてばかりです。
このままではマズイということになって、次の手段として採られたのが、日本に対する経済封鎖です。
日本はなんとかして戦いを回避しようと努力をし続けますが、ついに昭和16年、戦争に打って出ることになりました。
この戦争は、序盤こそ日本の破竹の勝利の連続でしたが、ミッドウェーの敗戦によって形成が逆転。
日本は制海権と制空権を失い、これによって外地に派遣していた将兵への食料が絶たれることになりました。
ちなみに世界の戦役では、食料は現地で相当部分を調達するのが原則です。
場合によっては現地の人達を食べることによって、兵たちの戦闘力を維持します。
ところが日本軍の場合、現地で食料調達することを一切せず、あくまで内地からの補給のみによって糧食を賄っていました。
そんな神々の軍のような軍隊は、世界の歴史から見ても、旧日本軍くらいなものです。
他に類例がない。
結果、神々の軍は敗れ、日本は武装を解除され、軍は解散、軍事教育を受けた戦闘のプロフェショナルたちは逮捕投獄あるいは殺害され、ハイパーインフレとなって国内経済は破綻し、資金力のある財閥も解体、大家族制の源泉となっていた農地も寸断され、法体系も破壊されてしまいます。
さらに国際的には、日本と戦った諸国が「United nations(国際連合)」として組織化され、その連合によって日本は戦争終結後もいわば恒常的な「敵国」として規定されました。
ところがそこまでして徹底破壊したはずの日本は、終戦後19年、講和条約発効後としてはわずか12年で国土も経済も復興させて東京で東洋初となるオリンピックを開催します。
その20年後には世界第二位の経済大国にまで成長し、しかもその取引に(どこかの国のような)一切の不正がない、という行動をしました。
またかつて日本が領土としていた諸国がそれぞれに欧米列強の圧力を跳ね返して独立を果たすと、それら諸国に工場を進出させ、また橋梁や道路や水道や学校などの施設つくりを補助することで、それら諸国が経済的に繁栄する手助けのために惜しみない援助を与え続けました。
日本は戦後70年、一度も戦争をすることなく、しかも日本と関わったすべての国の経済的繁栄を補助し続けたのです。
ところがそんな日本の繁栄が、突然1991年に終わりを告げました。
以後30年以上にわたって、日本の経済は発展せず、日本の政治は民衆の幸せのための政治ではなく、ひたすら日本の民衆から搾取して外国に貢ぐだけの政治になりました。
そして2023年、気がつけば日本の民間部門は、もはや世界の中では、発展途上国に分類したほうが適切といえる状況にまで至っています。
少し考えたらわかることですが、国内の景気が良くなり、国民の所得が3倍になり、物価も3倍になるということは、それだけ国内における通貨の発行量が3倍になったということです。
日本を除く世界の先進諸国は、この30年で、平均すれば、おおむね通貨発行量を3倍にしています。
だから給料も物価も日本の3倍になりました。
一方日本は、通貨発行量が抑えられたままになっています。
あたりまえのことですが、国民所得も増えないし、消費も増えません。
その一方で、所得が減り、政府による様々な諸税の徴求によって、可処分所得は低くなり、さらに輸入原材料の高騰によって諸物価は値上がりしています。
発行する通貨の総量が一定なのに、所得が減り、税が増すということは、それだけ政府にお金がたくさん集まることを意味します。
それだけたくさんのお金を集めたならば、国内向けに政府が投資を行えば、国内景気に良い影響を及ぼすことは日を見るよりも明らかなのですが、それもない。
では政府が何をやっているのかといえば、ひたすら外国に日本の円をバラまいているわけです。
当然、バラまいた分、国内で流通する通貨量は減ります。
だから国民所得は減り、物価もあがる。
つまり消費が動かなくなるのです。
いったい誰のための国なのかといいたくなるような有様ですが、では神々は、なぜ日本をそこまでいたぶるのか。
そう思って世界のリーダーとなっていたはずの米国の様子を見ると、もはや米国自体が崩壊しようとしています。
ごく一部のグローバリストと言われる人たちだけが、巨万の富を得ている一方で、一般の、そして圧倒的多数の米国民の暮らしは急落し、強かったはずの米軍も、いまや軍としての機能さえも危ぶまれる状況に至っています。
このことは西欧諸国も同じで、一部の大金持ちが、より一層の富を得る一方で、一般の民衆の暮らしは、まるで中世なみに落下しているといわれています。
その一方で、グローバルサウスと呼ばれる47,インド、インドネシア、トルコ、南アフリカといった南半球に多いアジアやアフリカなどの新興国・途上国もまた、経済的発展がある一方で、極端な貧富の差が生じ、これが国内事情を悪化させる要因となっています。
もはや世界は崩壊しつつある、といって良い状況になっているわけです。
このことは、同時に「世界が新たなステージ入ろうとしている」ことをも意味します。
これまでの支配的な思考が限界に達し、爆発して、別なステージに入る。
こうしたことは、世界の植民地支配が、グローバル世界へと変化したといった過去の変化にもあったことといえます。
そして世界を俯瞰するとき、これまでの世界は、一部の支配層にある人達だけが富と権力をほしいままにし、他の圧倒的多数の民衆は、その支配層の前に、ただ奴隷として、ただの雑草として、あるいはただの働きアリとしてのみ生存していたとみることができます。
けれどそうした世界は、決して幸せな世界とは言えるものではありません。
では、そもそも富とは何でしょうか。
また、権力とはどのようなものでしょうか。
力には三要素があるということは、昔からよく言われることです。
それは、「力の大きさ、力の向き、力の作用点」という3つの要素です。
これを社会用語としてみるとき、
「力の大きさ」というのは、権力の大きさ。
「力の向き」とは、権力行使の方向。
「力の作用点」は、権力の中心、ということになります。
ここでいう権力というのは、「他の人々に対して影響力や支配力を行使する能力」のことを言います。
そしてその権力は、一般に「法的権力、経済的権力、社会的権力」の3つの要素によって成り立ちます。
そして権力を持てば財力を手に入れることができ、財力を得れば権力を強くすることができます。
つまり権力と財力はイコールの関係で結ばれているわけです。
ところが、ここへきて財力がなくても成り立つ、新たな影響力が生まれています。
それがネットを使った情報力です。
一般の庶民の声が、社会的に大きな力を持つようになり、それが新たな法を生み、また経済運営を左右する。
そういう時代が来ているわけです。
つまり世界は、「権力=財力」という時代から、「情報力=権力」という時代に、いま新たにシフトしようとしている、ということができます。
情報力というのは、適切な情報を収集し、妥当性を評価し、新たな知見を得て活用する能力のことを言います。
そしてこの能力は、そのまま第三の権力となります。
つまり世界はいま、まったく新たな、民衆が情報を直接取り扱い、民衆の民衆による民衆のための新たな国つくりが求められる時代に突入しているといえるわけです。
世界の多くの国々で、一部の大金持ちが、自分たちのためだけに政治権力をほしいままにし、民衆の幸せを顧みず、自分たちだけの富を追求しているという世界が、いま終わろうとしているといえるのです。
終わりということは、新たなはじまりを意味します。
そしてその新たな始まりの最先端にあるのが、実は日本です。
なぜなら日本には、世界でもっとも古くて長い歴史があるからです。
情報処理にあたって最も大事なことは、情報の評価です。
そして情報の評価には、何が正しくて何が間違っているのかという、価値観の基準が必要です。
そして価値観の基準は、古くて長い歴史の淘汰という洗礼をあびて、はじめて成り立つものです。
役に立たない、人々を不幸にする、社会を混乱させるといったものは、長い歴史の中で淘汰され、結果、正しいものだけが歴史の洗礼を浴びて生き残ります。
つまり、人類史上、もっとも大切な価値観の基準は、世界で最も古くて長い歴史を持つ、日本の中に存在しているのです。
バブル崩壊後の30年、日本経済が停滞していることは、巨視的に見れば、日本が、これまでの世界になかった、まったく新たなステージに向かうための試練の時であったと観ることができます。
つまり、日本人の覚醒こそが、世界を救うのです。
※この記事は2023年6月のねずブロ記事の再掲です。
ちょうど一年前に書いたものですが、昨年度の調査では、日本は世界の好感度ランキングで世界一になりました。
日本も世界も、いま新たなステージに入ろうとしているのは、間違いのないことだと思います。