以下のお話は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!」の第二巻で「玉砕前の結婚式」としてご紹介したお話です。

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1 五十倍の敵に包囲された拉孟守備隊▼

昭和19(1944)年6月から9月にかけて、ビルマ(現、ミャンマー)と中国の国境付近で壮絶な戦いがありました。
拉孟の戦いと呼ばれています。
この地を守る日本軍は最後の一兵まで戦い抜き、120日間という長期戦の末に玉砕しました。

守備隊1280名のうち、三百名はほとんど体の動かない傷病兵でした。
そのなかには、15名の女性もいました。襲いかかった敵は5万の大軍です。是が非でも援蔣ルートを確保したい蔣介石は、国民党最強といわれる雲南遠征軍を拉孟に差し向けたのです。
それはアメリカのジョセフ・スティルウェル陸軍大将が直接訓練を施した、最新鋭装備の軍でした。

戦いの末期に、偵察機三機で拉孟守備隊に弾薬を届けた小林中尉の手記があります。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。
 上半身裸体の皮膚は赤土色。
 T型布板を敷くため一生懸命に動いている。
 スコールのあとでもあり、
 ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、
 私は手を合わせ拝みたい気持にかられた。

 ……印象に深く残ったものにモンペ姿の
 女性がまじって白い布地を張っていた姿であった。
 思うに慰安婦としてともに従軍していった者であろうか。
 やりきれない哀しさが胸を塞いだ」

上空からは、拉孟を死守する守備隊の周辺を、敵の大軍がびっしり取り囲んでいる様子がよく見えました。
小林機は高度を30メートルにまで下げ、50キロの落下傘つき弾薬筒を二個投下しました。
これに応えて守備隊の兵や女性たちが、ちぎれんばかりに手を振りました。

小林中尉はこの何分か何十分後かに戦死しているかもしれない彼たち、彼女たちの顔を心に刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにして目を凝らしました。
けれど溢れる涙で目がかすみ、はっきり見えなかったそうです。

「空中補給終了次第、ただちに戦場を離脱せよ」との命令だったのですが、熱い思いにかられた小林機は、敵の弾幕をくぐりながら、あらんかぎりの銃弾を敵陣に叩き込みました。
愛機を敵弾が貫きました。
体を弾がかすめました。
それでも弾倉が空になるまで、撃ち続けたそうです。
痛いほど、その気持ちが分かる気がします。

守備隊に交じっていた女性たちは軍人ではなく、軍とともに移動してきた慰安婦たちでした。
慰安婦といえば聞こえはいいですが、要するに売春婦の女性たちです。
いまどきの倫理観ですと異質に感じるかもしれませんが、昔は金貸しと売春は人類最古の職業といわれるくらいで、東西の文学にも、パリのオルセー美術館の名作にも、それは登場しています。

軍隊というのは健康な青年の集団です。
世界中どこの国の軍隊にもそれは付随していました。
まったくないのは日本の自衛隊くらいなものではないでしょうか。
決して陰惨な存在ではなく、前線近い日本の兵隊がいかに彼女たちを大切にし、彼女たちも誠心それに応えたかは、歴戦の下士官であった作家の伊藤桂一氏の著作にも、たくさん活写されています。

拉孟でも、彼女たちは戦いが始まるずっと前に、「ここは戦場になる。危ないから帰りなさい」と勧められていました。
けれど彼女たちは帰りませんでした。

拉孟にいたら生きて帰ることはできないかもしれません。
しかし彼女たちは、兵士たちと家族のように親しくしていました。
男と女の情が通っていたのです。
そこを離れるということは、彼女たちにとって、肉体が生きていても、心が死ぬことを意味しました。
ですから無理に帰そうとすれば、女たちは薄情だと怨みます。

彼女たちは、自分たちも守備隊の一員と考えていたのです。
こうして二十名いた女性たちのうち、朝鮮人女性五名だけが先に拉孟を離れ、日本人の十五
名が戦場に残りました。

 *

2 来世での幸せを誓い合って▼

守備隊のなかに、戸山という伍長がいました。
戸山伍長は戦いが始まる前、折に触れては、昭子という女性につらく当たっていました。
昭子さんは美人でした。
ある日のこと、戸山伍長は昭子さんに、「おまえは道具じゃないか」と罵ったそうです。
腹をたてた昭子さんは、以後、戸山伍長がいくら金を払うと言っても、一切そばへも寄せ付けませんでした。

戦いが始まりました。
戸山伍長は爆風で両目の視力を失ってしまいました。
看護をしたのは昭子さんです。
二人は結婚を約束しました。
昭子さんは、戸山伍長が、ほんとうは昭子さんのことが好きだから、つらく当たっていたことを女の直感でちゃんと知っていたし、男っ気の強い戸山伍長に、昭子さんも惚れていたのです。

二人は戦いの中で、仲間たちに祝福されて三三九度をかわしました。
戦場です。
結婚したとろで幸せな家庭も、可愛い赤ちゃんも、望むべくもありません。
「けれど」と二人は言いました。
「もし来世があるのなら、その来世で心も体も真実の夫婦となりたい」

婚儀の数日後、戦場に戸山伍長と、そばに寄り添う妻昭子さんの姿がありました。
昭子さんは、全盲の戸山伍長の目になって、手榴弾を投げる方向と距離を目測し、伝えていました。
その日の第三波の敵が襲ってきました。

敵の甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子さんに聞きました。
そして手榴弾の信管を抜こうとした手を一瞬止めました。

砲弾が唸る中、昭子さんは「十五、六の少年兵ですよ!」と叫びました。
敵兵とはいえ、相手は年端もいかぬ子供です。
昭子さんも躊躇しました。

そのとき敵の少年兵が投げた手榴弾が、二人の足元に転がってきて、轟音とともに炸裂しました。
戸山伍長と昭子さんご夫妻は、ともに壮烈な戦死を遂げました。
戦場で死を待つばかりで子を持つことも叶わない二人は、たとえ敵兵といえども、少年を殺すことがはばかられたのでしょう。

最後の突撃の日、先頭にはその時点で指揮官となっていた真鍋大尉が立ち、その後ろに連隊旗手として黒川中尉、そのまた後ろを、かろうじて動ける兵たちが一塊になりました。
突撃の前に、自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えました。
意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺しました。

生き残っていた女性たちは、先立った昭子さんを除いた14名です。
彼女たちは、何より大切にしていた晴れ着の和服に着替えました。
戦場のススで汚れた顔に口紅をひき、次々に青酸カリをあおりました。
この日まで、喜びも悲しみも辛さも苦しさも分け合ってきた男たちの運命に殉じて、彼女たちも、「共に戦死した」のです。

3 蔣介石の逆感状▼

この物語には、後日談があります。
玉砕の当日、報告行の命令を受けた木下中尉が、奇跡としか言いようのない生還を果たしました。
木下中尉は包囲網の隙を突いて脱出し、第五六師団の前線に辿り着いたのです。
そして、拉孟の戦いの様相を克明に報告しました。

重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有り様、空中投下された手榴弾に手を合わせ必中を祈願する場面、尽きた武器弾薬を敵陣に盗みに行く者、そして15名の慰安婦たちが臨時の看護婦となって傷病兵の看護をしたり、炊事、弾運びと健気に働いた姿などです。
語る木下中尉も、報告を受けた五六師団の面々も、涙溢れるばかりだったといいます。

この戦いの最中、敵の総大将である蔣介石が、次のような督戦状を発しました。
「騰越および拉孟においては、我が優秀近代化の国軍をもってしても、日本軍はなお孤塁を死守している。
(中略)ミートキーナ・拉孟・騰越を死守している日本の軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを範として我が国軍の名誉を失墜させるべからず」

この督戦状は蔣介石が、自軍を激励して戦わせるために出したものです。
けれど、逆に日本陸軍の優秀さ、強さを讃える内容になっていることから、後に「蔣介石の逆感状」と呼ばれました。

拉孟ばかりではありません。
遠く離れた異国の地で、最後まで死力を尽くした男たちがいました。女たちがいました。
過酷な戦場に咲いた一輪の花のような恋もありました。
こうした一つ一つの小さな物語の中に、決して忘れてはいけない私たち日本人の心があります。

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