梅雨の季節といえばアジサイです。
アジサイは、梅雨の間に七色に色を変えます。
後に季節の風物詩になりますが、万葉の時代には、あちこちで咲いていたにも関わらず、アジサイを詠んだ歌は二首しかありません。
そのひとつをご紹介してみたいと思います。

そのひとつが、大伴家持の次の歌です。

【万葉集4巻773】
こととはぬ   (事不問
きもあじさいの (木尚味狭藍
もろとらの   (諸苐等之
ねりのむらとに (練乃村戸二
あざむききたる (所詐来

一般の訓読は、
「事(こと)とはぬ、木(き)すら紫陽花(あじさゐ)諸苐(もろと)らし、練(ねり)の村戸(むらと)に詐(あざむ)かえけり」
というもので、訳は、
「物事を問わない木や、色が七色に変わるアジサイの花のように、  諸々(もろもろ)の弟たちが練り上げた策略に  騙(だま)されてしまいましたよ」といった意味の歌だとされます。

これですと、あたかもアジサイの花が七色に花色を変えることから、
「うまいことを言われて、すっかり騙されてしまったぜ」と詠んでいるかのようなイメージになります。
けれどこの歌は、もともと「恋の結果」ではなく、これから始まる恋への「恋文」として詠まれた歌です。

どういうことかというと、後に従三位中納言に栄達する大伴家持(おほとものやかもち)がまだ若い頃のことです。
後に妻に迎えることになる大伴坂上大嬢(おほとものさかのうえのおほひめ)に、家持は恋文として和歌を5首贈りました。
この歌は、そのなかの一首です。

しかし果たして、これから女性を口説こうというときに、果たして「私はあんたに騙された。女なんて詐欺師みたいなものだ」なんて歌を贈るでしょうか。

ものごとには常識というものがあります。
ちょっと頭を働かせて考えたら、上の解釈がおかしいことは、誰にだってわかることです。

歌の原文をもういちど御覧ください。
大伴家持は「諸苐等(もろとら)」と書いています。
「弟」ではなく、
竹カンムリの「苐」です。

「苐」という字は、弟(おとうと)を意味する字ではなくて、草木の「新芽」を意味する漢字です。
そうであれば「諸苐等」は、「もろもろの新芽たち」といった意味になります。

また「練乃村戸二( ねりのむらとに)」の「練」という字は、「良いものを選び出す(引き出す)」という意味を持つ漢字です。
そうであれば「練乃村戸二」は、「村の戸から、最高に良いものを選びました」といった意味になります。

問題は最後の句の「所詐来(あざむききたる )」で、「詐」という字は、作った言葉を意味する漢字で、そこから「言葉を作って来た→言葉をつくした」という意味になります。

こうして歌に使われている漢字をもとに、歌を再解釈すると、この歌の意味は次のようになります。

******
古代において、我が皇軍の最高司令官であった大伴家持が、最愛の女性を妻に迎えようとして詠んだ歌。  様々な種類の木々や、  七色に花色を変えるアジサイの新芽。  その中から私は  最高に良い女(ひと)を選びました。  だからいま、  言葉をつくして歌をお贈りします」
大伴家持は、こうして想いを歌に託し、見事、意中の女性を射止めて、妻に迎えました。
******

歌の解釈は、様々あって良いと思います。
けれど、詞書(ことばがき)に、意中の女性にプロポーズのために贈った歌なのだと、ちゃんと書いてあるのですから、それはそのようにちゃんと解釈すべきと思います。

万葉集の歌は、すべて漢字で記されています。
それらの歌は、漢字を単に万葉仮名として用いているものもあれば、大和言葉に漢字の持つ意味を重ねることで、重層的に複雑な思いを表現しようとした文化の香り高い文字の使い方をしている歌もあります。

そしてこした官製和歌集を編纂することで、わが国は、わが国を殺し合いによる権力闘争の国ではなく、教育と文化の国にしていこう、という明確な強い意志のもとに万葉集を世に出しています。

なぜそのようなことを言うのかって?
当然です。
書かれたものには、すべて書いた目的があるからです。

さて、紫陽花(あじさい)は、花の色が梅雨の間に七色に変わります。
様々な色合いを見せる。
とりわけ花の新芽は、上の写真にもあるように、さまざまな色合いを私達にみせてくれます。

古代の大伴氏といえば、天皇側近の豪族の中の大豪族です。
その跡取り息子であった若き日の大伴家持は、常に最高を求める人であったそうです。
そしてその大伴家持が、わが国の古代における軍の最高司令長官となり、我が皇軍は当時の世界にあって、世界最高の装備と、世界最高の教練を受けた、世界最強の防人(さきもり)となました。

歌の解釈もいろいろあります。
「いろいろある」ということ自体は、とても良いことです。
なぜなら、100人いれば100人とも金太郎飴のようにみんな同じ解釈しかしないというのは、全体主義でありファシズムであるからです。

極左から極右まで、様々な思想が許容される。
それはとても良いことです。

しかし、それらは、すべて、紫陽花の新芽と同じです。
咲いてみれば、ひとつの幹から出た、同じ株の花なのです。
だから、本当は全部でひとつです。
ひとつひとつもひとつであり、全部合わさったものもひとつなのです。
つまりこの世の全部はつながっている。
情緒として、あるいは情感として、それを理解できるかどうかが、実は日本人かどうかの境目なのだそうです。
わからない人のことを、外人と言います。
外人とは、単に言葉や肌の色が違うとか、国籍が違うとかいうことだけではないのです。
日本人としての情感を持つかどうかが、日本人かどうかの境目なのです。
そして日本人なら、全部でひとつ、ということが、いつの日か必ず腑に落ちるものです。

体の細胞と同じです。
ひとつひとつの細胞は、ほんのちょっとずつの役割しか果たすことができないけれど、でも、みんなでまとまることで、皮膚になったり、内臓になったり、さざまな大きな働きをすることができる。
細胞のひとつにだって、もしかしたら、様々な考え方をもっているかもしれない。
けれど、つねに、みんなで一緒になって自分の役割を遂げて、一生を終わっていきます。

ひとりひとりの人間には、小さなことしかできないかもしれない。
けれど、みんなが力を合わせることによって、人は、大きな働きをすることができます。
それが、二宮尊徳の言う「積小為大」です。

みんなが集まって大輪の紫陽花を咲かせるのです。
なぜならわたしたちは日本人だからです。

※この記事は2021年7月のねずブロ記事を大幅にリニューアルしたものです。

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