7月19日は、元治元年(1864年)に禁門の変があった日です。
すこしややこしいですが、旧暦で元治元年7月19日、新暦ですと1864年8月20日になります。
この禁門の変は、京都で起きた武力衝突事件で、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれています。

ちなみに「変」というのは、本能寺の変、桜田門外の変というように、政権に対する武力行使で、警察力で対応できない陰謀や襲撃のことをいいます。
警察力で対応できるものは「騒動」です。

ですから、60年安保とか70年安保などが、もし自衛隊が出動するような事態であれば、江戸時代なら60年騒動とか70年騒動と呼ばれていたかもしれません。
あるいは最近の森友学園や、加計学園問題などは、一昔前なら森友騒動、加計騒動です。

もっともこのように言葉の使い分けを厳格にすると、騒動の当事者は処罰されてあたりまえ、という気風が日本社会には色濃く残っていますから、国壊議員さんや国壊メディアにとっては、いささか使いにくいことでしょう。
そこで「○○問題」と称して、曖昧な言葉を使っているのかもしれませんね。

さて、禁門の変ですが、禁門というのは天皇の御在所である京都御所にある門のことをいいます。
京都御所は、簡単にいうと、御所の周囲を京都御苑が囲む・・・つまり京都御苑という広い庭園の中に京都御所がある、というつくりになっています。
外側の御苑にある門が9つ、内側にある御所の門が6つです。
それらすべてを総称して「禁門」といいます。
ひとことでいえば、禁裏の門という意味です。

内側の御所の門には、それぞれ建礼門とか建春門院などの名前が付けられています。
外側にある御苑の門には、それぞれ蛤御門(はまぐりごもん)、堺町御門、寺町御門などの名前があります。
禁門の変は、その外側の方にある蛤御門付近で長州と会津・桑名が衝突した事件です。
そのため別名が「蛤御門の変」というわけです。

実はこの戦いは、たへんな戦いでした。
まず畿内における大名勢力同士の交戦は、大坂夏の陣(1615年)以来249年ぶりのことでした。
次にこの変で京都市中の民家が戦火で約3万戸も焼失しました。
京の都が乱によって焼失したのは、応仁の乱の際の大内政弘の入京の1467年から、397年ぶりの出来事です。
まさに「変」だったわけです。

この禁門の変は、一般に、
「京都を追放されていた長州藩勢力が、  会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、  京都市中において市街戦を繰り広げた事件」
と説明されています。
ところが実は、会津藩や桑名藩にしてみれば、この変は、たいへんに、たいへんに、たいへんに迷惑なものでした。

といいますのは、そもそも御所の各門の警備というのは、江戸時代には各藩が持ち回りで行っていましたが、そのための経費、つまり会津藩なら福島県の会津若松市から京の都まで、警備の藩士たちを連れての旅費交通費、移動途中および京の都内での宿泊費、食費、出張旅費その他一切の経費は、朝廷や幕府から1円の手当も出ない、100%大名の自己負担です。

すこし考えたらわかることですが、これはたいへんな経費です。
けれども、武士たちにとって、あるいは大名にとって、宮中の門番をやらせていただけるということは、先祖伝来の最高の名誉と考えられていました。

このことは、江戸時代を通じてずっとそうでしたし、もっと古い時代、平安時代後期に、台頭した武士たちである源氏や平氏が禁門の警備をしましたが、それらも経費の一切は、源氏や平氏の負担でした。
では武士たちが台頭する前の時代(天皇の歴史は武士よりはるかに古い)の禁門の警備は誰がやっていたかというと、いまでいう皇居勤労奉仕にやってきた庶民が、これを行っていました。

禁裏の門の警護をやらせていただけるということは、ご先祖に誇れる素晴らしく名誉なことと考えられていましたから、一般の庶民、つまり平素お百姓さんをしている方々でも、皇居にやってきて、そこで女性なら皇居のお掃除、元気の良い男性なら皇居の警備を受け持ちました。
それは生涯の記念になるというだけでなく、代々のご先祖に誇れる素晴らしい経験であったのです。

御存知の通り、我が国の皇居は、諸外国の城塞都市にあるような王城と異なり、守城のための装備がまったくありません。
天皇は、城の警護の必要がまったくない、民衆との良好な関係にあったからです。
民衆の側からすれば、天皇という存在が、権力者よりも上位にあり、その上位にある天皇によって民衆が「おほみたから」とされているから、自分たちは「権力者からの自由」を得ているのです。
つまり、民衆にとっての権力からの自由は、天皇という存在のありがたさによって保証されているのだと考えられてきました。

ですから天皇の存在は民衆の自由の象徴でしたし、民衆が権力の横暴から逃れていることができるのも、これまた天皇のご威光のおかげであったわけです。
もちろんその時代に自由とか民主主義などといった言葉はありません。
けれど、権力よりも偉い天子様がおわし、その天子様から「おほみたから(大御宝)」とされているのだという自覚は間違いなくあったし、農家にしても、これを百姓と呼ぶのはわしらの姓は天子様から与えられたものだという自覚と誇りは、一般の農家の人々の胸にもしっかりと息づいていたのです。

知行地を持つ武士は、俸禄を支給される武士よりも、より位が高いとされました。
なぜなら知行地を持つということは「知らすを行う武士」であることの証であり、知行地に住む人々の生活一切に責任を持つことであったからです。
そのための知行地なのです。
なぜそのようになるのかといえば、知行地に住む人々は、すべて天子様の「おほみたから」です。
それは、天子様(天皇)の「御宝」をお預かりする、ということです。
たいへんなお役目なのです。
そしてそうしたご皇室を最高権威とするという思考のもとに、いまなお続く「皇居勤労奉仕」が行われていたのです。

その勤労奉仕の中でも、禁門の警備を任せられることは、まさしく家門の名誉でしたし、ご先祖様への最大の供養でもありました。
ですから警備を命ぜられた者たちは、一晩中、不寝番で篝火(かがりび)を絶やさなかったし、日中は篝火は消すけれど、雨が降ろうが雪が降ろうが槍(やり)や弓矢が飛んでこようが、まるで彫像のように、一切、不動の姿勢を崩さなかったのです。これが我が国の歴史であり伝統です。

そういう歴史的経緯のもとにありますから、禁門の変のときも、門を護る会津や桑名の武士たちは、銃や鉄砲を持った長州が攻めて来ても不動の姿勢を崩すことができません。
石像のように立っていることが任務なのですが、そこに長州が矢や鉄砲を射掛けたり撃ったりしてくるわけです。
動かないのですから、当然、弾が体に当たります。
それでも仁王立ちでいるのですが、死んで倒れると、次の輪番の武士が、門番に立って不動の姿勢を取ります。
当然、弾があたり、矢が刺さる。
それでもそのまま立っていた。
そしてついに倒れると、今度は別な武士が、そこに立つ。

まるで連続自殺のようですが、たとえ不条理であったとしても、約束は守り抜くのが武士です。
しかし突然攻められた会津や桑名の藩士たちにとって、禁門の警護場所を攻められるということが、どれだけ迷惑なことであったのかご想像いただけますでしょうか。

当時の長州藩士たちを責めたり、悪く言ったりするのではありません。
禁門の変のおよそ1年前には、八月十八日の政変によって、長州藩は、名誉ある堺町御門の警備を免ぜられているのです。
先祖伝来の最高の名誉ある禁門警備を「免ぜられる」ということが、当時の長州藩士たちにとって、どれだけ屈辱であったのか、どれだけ恥ずべきことであり、ご先祖に申し訳ないことであったのか。
それは、死罪を仰せつかるよりも、もっとはるかに不名誉なことであったのです。
このことを考えれば、追い詰められた長州藩士たちが、禁門警備を免じた会津や桑名藩に対して、どれだけ戦意をつのらせたか、ご理解いただけようと思います。

歴史は、このように、当時の気分というか、当時の常識というか、そのようなものをきちんと踏まえなければ、ちゃんとしたものが見えてきません。
この日「禁門の変があった」ということは史実ですが、史実と歴史は異なります。
歴史は、なぜその事件が起こり、どのような経緯があり、その結果何が起こったのかを合理的に再現性を持って説明するのが歴史です。
当然その時代の人となって事態を把握しなければ、見えるべきものが見えてきません。

早い話、日本を取り戻すという昨今の保守運動にしても、それが国壊主義(左翼)と国護主義(右翼)の思想上の対立の演出というだけでは、我が国では、武力衝突は絶対に起こりません。
そこに人々の魂を動かすだけの誇りや名誉への毀損が加わったとき、衝突は感情の暴発となります。

このことが何を意味しているかと言うと、日本人が「どこまでも平和を愛する民族である」ということです。
日本人が本来どこまでも平和を尊ぶ民族であることは、近畿での武力衝突が大坂夏の陣(1615年)以来249年ぶりのことであったことでも証明されています。

歴史は、単に起きた事実の羅列を学ぶことではありません。起きた事件を通底するものが何であるかを合理的に説明するものです。
そしてそれが合理的であるとき、はじめて歴史は再現性を持つことになり、そこからはじめていまを生きる、あるいは現状を打開する知恵となります。
逆に合理的な説明がつかない、あるいは再現性のないものは、歴史を再構築できませんから、歴史の名に値しません。

あたりまえのことですが、禁門の変を、マルクス史観の階級闘争史観で説明しようとしても無駄なことです。
会津藩も長州藩も、どちらも等しく藩であり、誇り高い武士であったからです。
尊王攘夷派と佐幕派の対立と闘争で説明することも不可能です。
なぜなら長州藩も会津藩も、どちらも尊王であったからです。

※この記事は2017年7月のねずブロ記事の再掲です。

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