満洲国ができる(1932年)よりも少し前、わが国がシベリア出兵(1918年)していたことは、皆様御存知のことと思います。
この出兵は、いまでは、第一次世界大戦における勝利国である英米仏伊加と、日本が、当時ソ連に生まれた共産革命軍によって強制的に囚われたチェコ軍を救出するための共同出兵と言われています。

早々に主役となるべき帝政ロシア軍が共産党軍によって滅ぼされてしまったために、英米仏伊加軍は、もはや護る意味無しとして、あとは、いちばん近くにある日本に、よろしく頼むと、早々に退散してしまいました。
結果、日本陸軍だけがシベリアに取り残されて、シベリアの治安を護ることになりました。

一方で、第一次世界大戦後のパリ講和会議では、日本が人種の平等を高らかに主張したことで、日本は欧米諸国の、植民地に権利を持つVIPたちを敵にまわすことになりました。
日本が主張した「人種の平等」は、欧米の言論空間や世界中の有色人種たちに多大な支持を得ました。
けれど、ここが日本人にはなかなか理解できないところなのだけれど、日本以外の世界では、庶民の意向などまったく問題になりません。
問題になるのは、社会のトップ層を形成している、ごく一部の(ごく少数の)VIPたちの利権で、当時のVIPと呼べる人たちは、植民地で莫大な利権を持つ人達でした。
日本の主張は、このVIPたちの利権そのものを脅かす主張であったわけです。

こんなあたりまえともいえることが、当時もいまも、日本人にはなかなか理解できないというのは、世界の中で日本だけが「庶民文化の国」だからです。
「おかみ」と呼ばれる社会の権力層の人たちは、我が国ではすべて天皇の部下です。
そして上司である天皇は、庶民のことを「おほみたから」としています。
だから権力者の仕事は、上司である天皇の「たから」たちが、豊かに安全に安心して暮らせるようにすることが、最大の使命になるのです。

このことは、日本社会のいわゆるVIP層も同じです。
GHQは財閥解体を行いましたが、当時の財閥のトップたちもまた、「世のため人のため」を至上課題とし、従業員もその家族も、顧客も仕入先も、すべては天皇からお預かりしている大切な「たから」と認識されていたのです。

けれどこうした日本の常識は、天皇という存在あってのものでした。
つまり日本だけの常識であり、日本の常識は世界の非常識でもあったのです。

さて、こうした背景において、シベリアに残された日本は、孤軍状態におかれ、厳しい戦いを強いられることになったのですが、このすこし前、対ロシア対策を指揮していたのが、オトポールでユダヤ人たちを救った樋口季一郎陸軍中将です。
樋口中将はハバロフスクで、源氏笹の紋章に、漢文で何やら文書の書かれた特大の石碑を発見しています。

当時のシベリアには多数のイエローが住んでいましたが、その上層部にごく少数のロシア人たちがいて、シベリアを勝手に領有しようとしていました。
そして共産パルチザンが、それらロシア人たちを狙い、また有色人種のイエローの民衆たちを強襲していました。

このため樋口中将は、共産パルチザンたちに書簡を送り、シベリアの地はもともとイエローの土地であること。
そして800年前に源義経一行が、北海道から樺太を経由してシベリアに入り、蒙古(猛虎)の将官を名乗って、辺り一帯を領有していた事実があること。
そのため、実際に石碑が残されていることなどを、書き送りました。
つまり「君たちには、この土地を領有する権原がない」と、手紙にしたためて送ったわけです。

すると何が起きたかということ、その歴史的遺産である石碑に、真っ黒にコールタールが塗られてしまいました。
そこでふたたび樋口中将が抗議の手紙を送ると、今度は石碑そのものが、いつのまにか消えてしまったということが、樋口中将の回顧録に書かれています。

この当時、日本における最大の懸念は、ソ連の共産主義者たち・・・(これが実に恐ろしい存在で、何でもありの共産パルチザンです。この共産パルチザンが戦後に日本に流れてきて、日本国内で巨大な利権を握って日本社会の解体を行っていることへと歴史は続きます)・・・の南下をいかに阻止するかが、最大の課題でした。

暴力集団である共産パルチザンの南下を防ぐためには、少数の日本陸軍だけが直接の戦いをするとしても、そこには限界があります。
現地に、共産パルチザンの南下を歓迎しない政権が必要なのです。
当時の朝鮮半島は日本の領土でしたし、満洲もまた日本の影響下にありました。
その満洲や朝鮮半島を共産パルチザンから守るためには、その障壁として、内陸部にはモンゴル族によるモンゴル帝国を、そしてシベリア側にはシベリア人たちによる「極東共和国」をつくる必要がありました。
そしてこのことは、日本陸軍の関東軍によって、進められていました。

繰り返しになりますが、日本の陸軍兵力だけで共産パルチザンの南下を防ぐには、誰がどう考えても兵力が足りません。
そうであれば、やはり地元のことは地元の人たちでしっかりと守ってもらった方が良いのです。
なんのためかといえば、それこそ、地元の庶民たちが、平和で安心して安全に暮らせるようにするためです。
そのためには、地元の人たちで国を築いてもらうことがいちばん良いのです。

民族にはそれぞれ文化があります。
その文化をひとつにする人たちで、自分たちの国をつくる。
そのことを日本が援助する。

東南アジア諸国において、民族の自主独立のために日本が貢献したことは、皆様御存知の通りです。
それと同じことを、実は当時の日本は極東北部でも行おうとしていたのです。

「極東共和国」構想というのは、領地を、満洲北部のバイカル湖から、北極海に注ぐ大河であるレナ川以東とするもので、シベリアに住むイエロー達による自治国構想です。
つまり、モスクワを中心とする共産主義の日本への南下を防ぎ、同時に東亜の平和を実現するために、
 シベリアに「極東共和国」
 満洲に「満洲国」
 モンゴルに「モンゴル共和国」
を、それぞれ地元の人たちによる自治国を、日本の支援によって築こうとしていたのです。

さらに当時の日本陸軍の考え方は、朝鮮半島もまた緩衝地帯とするため、半島はコリアンたちによる自治国としていこうというのが、基本構想です。
自分たちの国を共産パルチザンから守るのは、日本に依存することではなく、自分たちでしっかりと守ってもらう。
現実にこれをしなければ、日本の兵力だけでパルチザンの南下を阻止することは、きわめてむつかしかったのです。

また、それぞれの自治国は、それぞれの国の特産品が交易品となります。
彼らはそうした特産品を用いて日本と交易をすることによって、彼ら自信が富を築ことができ、人々の繁栄を期することができるのです。

この構想には、実は先例があります。
それは2〜3世紀ごろのことです。
当時のチャイナは、三国時代で、まさに戦乱に明け暮れていました。
戦乱に明け暮れ、命がいくつあっても足りないチャイナからは、敗残兵や脱走兵などが、半島を経由して倭国にまでやってきて悪行三昧を働きました。

そこで倭国は、いまの北朝鮮のあたりに高句麗、韓国の慶尚北道のあたりに新羅、忠清道のあたりに百済という三国を築きました。
これらは実は、倭国の肝いりで自治国家として形成したものです。
新羅は、シンラとも読みますが、「羅」という漢字は、鳥を捕らえる網の会意象形文字です。
つまり、新たに何かを捕らえようとしたのです。
その何かとは何でしょうか。
また大和言葉で「ラ」というのは「場」のことです。
新たに悪者を阻止する場として、築かれたから「新羅」なのです。
そして新羅の初期の頃の王は、倭人であったことが『新羅本紀』に記されています。

また百済は、こう書いて「百(もも)が済(な)る」と読みます。
イザナギが黄泉の国から逃げてくる際に、これを助けた意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)が拓いた国が百済です。
「済」という漢字は、もともと「助ける」という意味の漢字です。
桃で助けたから、百済なのです。

さらに高句麗は、いまでこそ高句麗と書きますが、もともとは高国です。
ここには鴨緑江と呼ばれる巨大河川がありますが、その流域に当時5つの盗賊団がしのぎを削っていたのだそうです。
そのなかのひとつに倭人が鉄の武器を与え、他の4つを制圧させてまとめあげることで成立した、もっとも北の高い位置にある国が高国(高句麗)です。

要するに、朝鮮半島の大陸からの入口にひとつ、その内側に2つ、都合3つの自主政府を築くことで、当時の倭国は日本への大陸の敗残兵の流入を防ごうとしたのです。

さらに半島南部の慶尚南道、全羅道のあたりには、「伽耶国」が置かれました。
ここは倭国の直轄地です。
そしてここには、中世まで日本側の軍事拠点としての日本府が置かれていました。

こうした古代の取り組みの成功が、現代に至るまで、日本は一度もチャイナによって征服されることがなかったことにつながります。
何もしなければ征服されていたのです。

そして、これと同じ戦略を、極東共和国、満洲国、モンゴル共和国、そして朝鮮半島に朝鮮自治国を築くことで、今度は西からの共産主義の南下を防ごうとしたわけです。

もし、この陸軍案が成功していれば、世界の歴史は大きく変わったといえます。
というより、いまからでも遅くないから、シベリアのバイカル湖からレナ川より東の一帯を、独立国とすべきではないかと思います。
なぜなら、シベリアというのは、21世紀となった現代に残る最後にして最大面積の植民地だからです。

このこともまた、ほとんどの日本人はちゃんとした認識をしていません。
多くの日本人は、シベリアはロシアの領土と思っています。
違うのです。

ロシアという国は、西から順に、
 ロシア
 ウラル連邦管区
 シベリア連邦管区
 極東連邦管区
という4つの領土で形成されています。

このうち、もともとのロシアといえるところは、モスクワを中心とするロシアだけで、ウラル、シベリア、極東地域は、いまも残る植民地なのです。
ウラルもシベリアも極東も、それぞれ悠々と自立できるだけの資源を持っています。
また、住んでいる人々の種族も違います。
そしてロシアの人々と比べ、ウラル、シベリア、極東に住む人々の暮らしはとても貧しい。

それら植民地が、それぞれ独立国となったとき、世界の様相は大きく変わります。

それにしても戦前の日本人は、すごいことを考えたものです。
ちなみに、この構想は、もともと大アジア主義思想に基づきます。

最後にひとつ、少し厄介なことを書いておきます。
戦略のことです。

今回お話した防共ラインとしての日本陸軍の極東共和国構想は、結果、実現しませんでした。
陸軍は、しっかりとした情報を持ち、その情報に基づいて大戦略を構築していたわけです。
にもかかわらずそれが実現できなかったのは、日本の政治の腐敗でした。
二大政党制のもと、完全に党利党略だけの衆愚政治に陥っていた日本の政治は、すでに何も決められない、何もできない政府になってしまっていたのです。

国家戦略の大切さは、おそらく誰も否定する人はいないと思います。
企業でもそうです。
企業には勝ち残り、生き残るための戦略は不可欠であり、そのためには戦略が必要です。

実は、戦略には「戦理、戦略、戦術」の三段階があります。
上に述べた、防共ラインとしての国家建設構想などは、戦理です。
そして具体的に極東共和国などの建設を図るためのプランが戦略です。
そしてこれを実現するための個々のプランが戦術です。

戦理については、ご理解いただけたものと思います。
一方、戦略については、誤解があります。
というのは、戦略というものは、ある意味、たいへんに汚いものでもあります。
たとえば防共戦略であれば、場合によっては狂さん主義者たちを寄せ付けないどころか、彼らの命を奪わなければならない事態も想定内にしなければならないのです。
けれど、平時に於いて、それを認めることができる人は、まずいません。
世の中は、その意味では綺麗事でお化粧されているのが実態なのです。

従って、戦略家というのは、ともすれば組織から除外されがちです。
敬遠される、といったほうがわかりやすいかもしれません。

けれど、現実には戦略家がいなければ、戦いに勝利することはできません。

たとえば、諸葛孔明といえば、有名な戦略家です。
しかし諸葛孔明の作戦は、敵をひとり残らず殲滅します。
それは万単位で人の命を奪うものです。
通常の神経の多くの人達からみたら、彼の考えは、いわば狂人です。

ですから諸葛孔明を用いるためには、彼に全幅の信頼をおき、彼を信じぬき、彼を疑わず、果敢に諸葛孔明の作戦を受け入れ、なおかつ絶対に生涯諸葛孔明を裏切らないだけの胆力を備えた上司が必要になります。
つまり、戦略家には、その戦略家を引き上げてくれる戦理を持った上司が、必ず必要なのです。

戦略家自身がトップになればよいのではとお考えになられる方もおいでかと思いますが、これは不可能です。
戦略家の持つエゲツナサに付いてこられる部下というのも、そうそうはいないからです。

簡単に言えば、戦略家と狂人は、いわば紙一重です。
戦略というのは、そういう性格を持ちます。

古代において、我が国が大戦略を打ち立て、それを実現することができたのは、それができるだけの国家体制があったからです。
戦前においてできなかったのは、その国家体制が、なまじ遅れた西洋の体制を模倣したために、日本的思考と西洋型組織が日本国内で正面衝突していたためです。
要するに政治が機能不全に陥っているのです。
これでは安定して戦略家が戦略立案することも、それを実現することも不可能です。
できることは、せいぜい、局面における戦術止まりになります。

ひるがえって現代日本はどうでしょうか。
戦略家の必要は誰もが疑いません。
けれど、その戦略家を懐刀として、安定的に用いる政治は、あるのでしょうか。
つまり政治に戦理がないのです。

国際的にコ○ナ騒動を仕掛けている人たちがいます。
あるいはLGBTや露ウ戦争なども同じです。
これらの問題は、一定の国際戦略のもとで行われ、日本国内にもその仕掛けが行われることで、表面化しているものです。
世の中には、政治や社会の裏の裏の裏の裏まで読み切って時代を動かしている人たちがいるのです。
そうしたものに対して、現代日本は、あまりに無防備です。

一方、戦前には、たとえば日本陸軍は優秀なシンクタンクをつくり、大東亜の戦い必勝の作戦計画を練っていました。
もしその通りに実行されていれば、おそらく日本は第二次世界大戦を勝ち抜いたことと思います。
しかしこれは実現しませんでした。
政治の力が働いたためです。
結果として日本は、戦争に米国を招き入れ、このことが戦局を厳しいものにしてしまいました。
どんなに優れた戦略家がいても、それを活用できる上がいなければ、戦略は水泡に帰すのです。

一方、戦略家を実に有効に活用したのが、蒋介石です。
彼は、青山 和夫という日本人の戦略家を深く信頼していました。
その青山和夫は、生まれが1907年で、お亡くなりになったのが1997年ですから、戦後も堂々と生き抜いた人です。
この人は、戦前、戦中の共産主義者、無政府主義者、政治運動家で、本名は黒田 善次(くろだ ぜんじ)と言います。
ペンネームには他に、佐久達雄、根津君夫、根津哲夫、佐久達雄、服部智治、林秀夫などがあります。

この人がどういう人かというと、蒋介石の重慶政府国際宣伝処の対日工作顧問でです。
コミンテルンの指令で対日工作に従事したといわれていますが、この人が日本の政情を分析し、いかにして日本を戦争に巻き込むか、その日本が10万の兵力をチャイナに送っても、初戦で優秀な将兵を失わせれば、あとは戦争を泥沼化するだけで、追加の将兵は二流三流の兵でしかない。
それでも日本の将兵は真面目だからチャイナの民衆を助けようとするけれど、その苦労を日本本国の政府はまったく評価せず、国内の政争に明け暮れるであろうから、日本兵に対していくら残酷なことをしても、それによって日本国政府が本気を示すことはない。
また戦いは、海岸線から始め、次第に内陸部に誘い込むようにすれば、日本の戦線は必ず泥沼化する等々の戦略を蒋介石に授けた人です。
蒋介石は、まったくこの青山和夫の、いわば言いなりに動くことで、見事、最終的には勝者の側に立っています。

この青山和夫のために、どれだけ多くの日本の将兵が犠牲になったのかを考えると、はなはだ許せない所業ですが、これが戦略家の恐ろしさです。
たったひとりの戦略家によって、大局が左右されるのです。

日本はこれから、戦略家を育成する必要があります。
そして同時に、戦略家をちゃんと使うことができる国体を築く必要があります。
これは言い方を変えると、日本としての戦理を持つということです。

よく「保守同士の対立がよくない」という人は多いです。
けれど戦略家の発想は、対立があるなら、それをうまく利用し活用することで時代を動かすという発想になります。

世界は石油の時代から、すでに電力の時代に入っています。
そうした大局の中にあって、日本を豊かに安全に安心して過ごせる国にしていく。
国際政治の場においても、日本の国富をしっかりと守ることができる国にしていく。
米国との関係も、支配関係ではなく、これを対等な関係に持っていく。

そのためには、これを実現するための戦略家が必要です。
そしてそ戦略家を使いこなせる戦理を持った政治家が必要です。
そしてその両方とも、いま私たちは、新たに育てなければならないときに来ています。

※この記事は2021年7月のねずブロ記事に大幅に加筆したものです。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。