このブログでは、度々「日本では昔は世帯が最小単位だった」ということを書かせていただいています。
そのことが、戸籍における「本籍」という中で、現代でも生きています。
これを理解しないと、日本の国柄もわからないし、日本の文化の形成もわかりません。

そもそも、ただ奪うだけの文化なら、男優先の個人単位社会で良いのです。
男は、欲しい物があったら奪う生き物です。
奪うことは、武器があればひとりでもできるし、それが集団化して王になれば、人を使って奪わせることも可能です。

すると社会は、男性優先社会になります。
さらに女性は、単なる戦利品となります。
ギリシャ以来の西洋の思想やチャイナの思想がこれです。
この方が、闘争が常態化した世の中において、はるかに生き残りやすいのです。

それが大陸の文化です。
別な言い方をすれば、陸上型文化です。
大陸では(陸続きのため)、暴力から逃げ切ることはできません。
裏切れば、どこまでも追いかけてくるし、身内親族一同が全員殺されてしまうのです。
だから権力はより強固なものになります。

けれど日本はもともと、万年の昔から海洋国です。
縄文時代の遺跡に貝塚があることが、これを証明しています。
貝は水辺に住む生き物です。

さらに3万8千年前に始まる日本の新石器文明においても、黒曜石が全国に分散している様子から、舟を用いて外洋航海が行われていたことが判明しています。
そもそも、日本の古い地名が
「葦原の中つ国」であり、
「豊葦原の瑞穂の国」です。
なぜ葦原であることが重要だったのかといえば、葦は葦船の材料になったからです。

そして海洋文化では、いくら上の人(支配者)が威張っても、下の人たちの暮らしは海にあるわけですから、支配が十分に行き届くことはありません。
あたりまえです。
偉い人から理不尽な命令があれば、下の人たちは、舟に乗って逃げてしまうのです。
そうであれば、上に立つ人は、ちゃんと皆に納得してもらわなければならないし、
皆が納得できるための社会的仕組みをちゃんと構築しなければなりません。
ここに日本文化の特徴があります。

さらに海洋族の場合、同じ船に乗る人達は、必ず強い結束を持ち、有機的に結ばれます。
なにしろ、船長の言うことを聞かない船員は、海に放り出されるし、嵐が来れば、日頃仲が悪いとか言ってられないからです。
たとえ日頃中が悪かったとしても、乗組員全員が、いざというときには一致協力、それぞれがそれぞれのポジションで、自分にできる最善を尽くさなければ、船もろとも沈んでしまうのです。

実はこの文化は、かつての帝国陸軍においても常識化していたことです。
陸軍というのは、若い男性の集まりで、血の気の多い若者たちですから、ときに大喧嘩が起きるのです。
そんなときは、思い切り取っ組み合いの喧嘩をします。
(ちなみに殴り合いの喧嘩は奨励されません。顔を殴れば腫れ上がるし、鼻の軟骨は折れやすいし、顎が砕かれれば兵隊として使い物にならなくなります。取っ組み合いなら、相手を投げ飛ばした方が勝ちだし、それでも抵抗するなら寝技で落としてしまう(気絶させてしまう)ことができたし、実は怪我も少なくて済むからです。)

いくら喧嘩をしても良い。
だが、翌日になったら、綺麗さっぱり、恨みっこなしで、一致協力して作業にあたる。
それが日本男児とされました。

こうした文化は、やはり海が育ててくれた文化といえます。
いまでも漁師は気が荒いと言われます。
けれど、どんなに気が荒い男たちであっても、舟は、数名から数十名が一緒に乗り合わせるのです。
喧嘩をしても、ひとたび海が時化(しけ)れば、全員が一致協力して互いの役割をまっとうしなければ、嵐を乗り切ることができないのです。

ちなみにこうした文化は、日本において、まだ青銅器も鉄器もなかった万年の昔から熟成された文化でもあります。
まだ刀剣などなかった時代が万年の単位で続いたのです。
だから戦いは、素手であったり、せいぜい銛(もり)や棒しか用いられません。
そしてこれが万年の単位で熟成された文化のひとつが、空手であり、合気術であったとされます。

このように申し上げると、空手はもともと琉球空手が元であり、琉球空手は薩摩藩によって琉球民が刀剣を持つことが禁じられたために発達したものだ、と反論される方もおいでかと思います。

違います。

琉球という用語は、そもそも、ものすごく新しい用語です。
どういうことかというと、14世紀後半の明の時代に、明国が、琉球三山時代に沖縄にあった3つの王朝(琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王)の冊封を認めたときに、明への冊封国の証として、もともと「氵」で「流求」と書かれていた地名に、「王偏」が与えられて「琉球」となったものです。

では、それまでチャイナの史書に書かれた「流求」はどこからきたのかというと、この字の初出が『隋書巻81列伝第46東夷伝』で、ここに「流求國」と書かれています。
けれど、チャイナというのは、周辺国には「ろくでもない漢字」を当てることが常識でした。
つまり、音が同じで、ろくでもない漢字にして貶めるというのが、チャイナの常態であったわけです。
そして「流求」は、その音(よみ)は、誰がどうみても「りゅうぐう」です。
そうです。
琉球というのは、もともとは「竜宮」であったのです。

その竜宮には、飛鳥、奈良、平安の昔も、鎌倉時代以降も、そこに国司が置かれることはありませんでした。
同様に国司が置かれなかった国に、大隅国があります。
大隅国は、後に薩摩に編入されて、いまでは鹿児島県の一部になっていますが、もともとは薩摩とは別な国です。
そして、その大隅国は、初代神武天皇の出身地でもあります。

いまでも700年もさかのぼれば、日本人は全員親戚になりますが、神武天皇の時代から飛鳥時代までは千年の歳月があります。
つまり大隅国にいる人々は、全員が神武天皇の血を引く人々である、ということです。
みなさん。初代天皇の親戚ばかりが住む国に、みなさんなら国司として赴任するでしょうか。
恐れ多くて、無理!といえるのではないでしょうか。

だから、大隅国には国司が置かれなかったのです。
そこは神武天皇ゆかりの地として、原初のままに据え置かれていたのです。

このような思考は、我が国の歴史の随所に観ることができます。
たとえば、伊勢神宮の内宮に、大正天皇お手植えの松があります。
天皇お手植えの松ですから、剪定ができません。
ですから、近くにある松は、すべて枝がきれいに選定されて美しい形が保たれているのに対し、お手植えの松だけは、一度もハサミが入ることなく、自然のままの常態で述べています。

あるいは近いところでも、家康公が三方原の戦いで武田信玄に敗れて逃走したときに、しんがりを努めて家臣64名ともども全員討ち死にした一族があるのですが、その一族が討ち死にした場所は、江戸時代の終わりまで聖地とされ、草木一本手入れをしてはいけない場所とされていました。

このようなことは、我が国の随所に観られますが、これと同じことが竜宮(琉球)にもあったのです。
そこが竜宮だということは、そこに住む人々は、全員「わたつみのおおかみ(綿津見大神、海大神)」の親戚であり末裔です。
果たしてそのような貴重な人々を統治できる国司などいるでしょうか。

このことが、沖縄に国司が置かれなかった理由です。

そもそも沖縄は、いまでこそ小さな島が点在する諸島ですが、もともとは九州から台湾まで陸が続く列島を形成していたのです。
そしてその西側には、浅くてお魚が豊富で、波の穏やかな内海があったのです。
内海は漁がしやすい場所です。
そして標高の低い列島は、平地が多い、タカラの原です。
だからその場所を「タカラの原」、それがなまって「たかまがはら」となったとも言われています。
また沖縄の神話では、天照大御神も、天の岩戸も、沖縄にあったとされています。

地名にも、古い都という意味の「宮古島」、都の石垣があったであろう「石垣島」とあります。

そうしたタカラの原が、海面の上昇で海に沈んだのが、およそ6千年前です。
このときに多くの人々が、新天地を求めて、沖縄から九州に移動してきた・・・これが天孫降臨であると考えると、歴史の辻褄が合ってきます。

つまり何を言いたいのかというと、沖縄は、まだ鉄器も青銅器もなかった時代から、人々が万年の単位で暮らしていた場所である、ということです。
刀剣を武器を武器にして戦うことができるようになるのは、鉄器や青銅器で武器が作られるようになってからのことです。
それ以前の、もっとはるかに古い時代から文明を形成してきた人々にとって、戦いに鉄や青銅器など必要なかったとしても、実は何ら不思議はないのです。

さて、日本では、もともと男たちは海で魚を獲ってくるのが仕事です。
女たちは陸にいて、田畑を営み、また山菜を採り、料理をし、子を育てるのが役割でした。
また男女とも、歳をとって老人になると、村にいて子どもたちの教育を行うようになりました。

日本が、海洋族から、陸上族へと国の形を変えたのは、唐の国に責められそうになった7世紀のことです。
それまでの日本は、広大な太平洋を駆ける海洋族として、東は北米、南米大陸から、西はインド、アフリカにまで自在に進出していました。
ところが唐の脅威の前に、国をひとつにまとめなければならなくなったときに、日本は国防のために、日本の範囲を、本州、四国、九州と、これに近い諸島に絞る必要が生じ、この範囲において、戸籍をつくって国の形をはっきりさせるということを行うようになりました。
そしてこのことが、日本の領域を確定することになっています。

けれど、そうした中にあっても、日本が万年の単位で培ってきた文化性は失われず、夫が外で稼ぎ、妻が陸にいてすべての家計の面倒を見るという国の形はそのままに維持されました。

多くの人が誤解していることですが、日本では、もともと所得は「世帯」が単位となっていました。
このことは武士の時代も同様で、俸禄は、城で働く武士個人に支払われるのではなく、その武士が、たとえば佐藤家の出であれば、俸禄は、佐藤家に支払われていました。

このことは仕事を受ける場合も同じで、たとえば父さんが命令を受けても、その実行は息子が行うといったことも普通に行われました。
なぜなら、命令は家にくだされたものであり、父子の別なく、それは世帯全員が負う連帯債務になったからです。

そしてこの世帯の財産管理をしたのが、奥方、つまり奥様である女性でした。
つまり旦那は、城勤めをしていていても、小遣いや経費は妻からもらっていたわけです。

たいていの家では、旦那が40歳の半ばにもなると、家督をセガレに譲って、旦那は隠居していました。
そのセガレが結婚すると、家督の管理、つまり世帯の財産管理も、セガレの嫁に全権が移りました。
住まいも、母屋はセガレ夫妻に明け渡し、隠居した両親は離れに住むようにもなりました。

このとき、セガレの嫁がとんでもない女性で、家の財産を役者かなんかに入れ込んで遣ってしまったようなときは、(そのようなことはめったにありませんが)、嫁の実家がその損害賠償の責任を被ることになりました。
ですから、婚姻は家格の釣り合いのとれる先でなければ認められなかったし、結婚すれば両家が親戚づきあいになるというのも、こうした嫁の保証人という意味を考えれば、当然のこととなったわけです。

考えてみれば、人間にとっていちばん大切なことは、人類を生存させること。
つまり、子を生み育てることといえます。
このことは、戦(いくさ)などより、もっと大事なことです。
なにしろ戦は、人を殺して奪うだけですが、産み育てることは、未来を築くことに繋がるからです。
そして子を産むことができるのは、女性だけですから、その女性を大事にしない社会など、まったく考えられなかったのが、日本の社会の仕組みであったわけです。

そもそも、男も女も、強くなければ生きていくことができなかったのです。
その強さを、現代日本人も持ちたい。
理不尽な暴力には反対ですが、強さはいつの時代にも必要です。

現代日本人もまた、夫婦で強くなるべきときがきています。
そうでなければ、ここまで荒れた日本を取り戻すことなどできないのです。

※この記事は2022年7月のねずブロ記事のリニューアルです。

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