旧約聖書の創成期にあるのが、アダムとイブによる人類の「原罪」の物語です。
アダムとイブはエデンの園で禁断のリンゴの実を食べることで、互いが裸であることに気付き、腰巻きを付けたところを神に見とがめられてしまいます。

神の問いにアダムは、
「神が創られたイブに勧められたのです」と、神と女に責任転嫁し、
イブは
「蛇に騙された」と、これまた蛇に責任転嫁します。

残念に思われた神は、
 イブに「産みの苦しみと夫からの支配」を
 アダムに「一生苦しんで地から食物を取ることと土にかえる」ことを命じました。
ここでアダムとイブに与えられた罰が、人類の男女に与えられた「原罪」と呼ばれるものです。

気になるのは女性に与えられた原罪のひとつである「夫からの支配」です。
これは英文では
「Your desire will be for your husband,
 and he will rule over you.」
と書かれているところです。

文中に「ルール(rule)」という単語がありますが、これは、日本語では一般に「規則やきまり」と訳される事が多いものです。
けれども語源は「ライト(right)」と同じ、真っ直ぐなもの、正しいものを意味する言葉で、「ルーラー(ruler)」と言えば「支配者」のことですから、この文も「支配」と訳させていただきました。

欧米人がよく口にする、
「これがルールなのだ」
という言葉は、実はこの旧約聖書の物語から来ているわけで、意味合いとしては、日本語的な、ただ単なる「ゲームのルール」といったものではなく、語感としては「これが俺がお前を支配するための決まりなのだ」といった感じになると言えます。

ですから聖書の「he will rule over you.」も、直訳すれば
「彼(夫)は、あなたにとっての支配者となるであろう」
となるわけで、ここから欧米では、
「妻は夫に支配されるもの」
という概念に至るわけです。

けれどようの東西と問わず、人の心はそうそう変わるものではありません。
女性にしてみれば、
「冗談じゃないわよ。
 どうしてあたしがあんたに支配されなきゃなんないのさ」
ということになって、ここから女性の「夫の支配からの離脱」という運動が生まれ、これが発展して「ウーマンリブ運動」に至るわけです。
まことにご苦労なことですが、彼らにしてみれば、これが宗教的道徳の原点であるわけですから、ある意味深刻です。

ところが日本では、最初の男女であるイザナギ、イザナミは、どちらも神様であって、最初から対等な存在です。
対等ではあっても、違いはある。
なかでも、子を産むことができるのは女性だけの特権ですから、生命をつなぐためには、どうしても女性は大切な存在です。

けれども不思議なことに、女性だけでは妊娠することができない。
古代の人は、そこに男性の価値を見出します。
それが、男性は女性の胎内にある子に「霊(ひ)」を授ける役目がある、とするものです。

だからその霊(ひ)を作る器官のことをタマ(魂)と言います。
男性はタマで、魂(たま)をつくり、その魂を女性の胎内に注ぎ込むことで、赤ちゃんができるというわけです。

従って、天照大御神からの直系の霊(ひ)を持つ者だけが、霊(ひ)を受け継ぐ者となるわけで、これが万世一系の天皇が男系でなければならないことの意味になります。
つまり「男系天皇論」というのは、実は、
「男女が対等な存在であることの証(あかし)」であるのです。

もし仮に、女性が男性による支配物であるという概念に立つならば、支配される側にある女性が、どこかの誰かとの間で産んだ子が、次の皇位を継承したとしても、女性は単なる被支配物の動産でしかないわけですから、次に誰に皇位を継承させるかは、男性の現職の王に全ての決定権が委ねられます。
ということは、前の王が指名しさえすれば王になることができるわけですから、男系でも女系でも、どちらでも構わないことになります。

つまり女系天皇(女系王)というのは、女性が被支配物であるという前提に立つ理論ということになります。
もっというなら、女系天皇論(もしくは女系天皇容認論)というのは、実は「女性蔑視、女性差別」の論を原点にしていることになるのです。

男女に限らず、人は物ではありません。
人は、人であることによる尊厳を、男女を問わず認められるべきものです。
もちろん様々な宗教の信仰を否定するものではありません。
旧約聖書も、世の中の秩序を定めるという意味において、人類史に果たした役割は偉大なものです。
そしてルールは人類が社会共同生活を行ううえにおいて、とても重要なことです。

「親しき仲にも礼儀あり」と言います。
我々は、他国の持つ文化の偉大さを理解するだけでなく、我々が日本人であること、そして日本に奥行きの深い文化があることも、同時にしっかりと学び、生き、後世に伝えていく必要があります。
そしてそのことは、我々が日本人としてのアイデンティティを確立するうえで、とても大切なことです。

アイデンティティというのは、よく自己同一性などと訳されますが、それだと意味がよくわかりません。
日本語で最もニュアンスが近いのは、むしろ「国体」であり「らしさ」です。
日本人のひとりひとりが、胸に日本の国体を刻み、日本人らしく生きようとすることが常識化する。
このことこそ、日本の未来を、そして世界の未来を拓く鍵となります。

このようなことを申し上げると、すぐに右翼だ、日本は世界征服を狙っているのだなどと囃し立てられますが、そうではありません。
そもそも右とか左とか、物事を「ゼロ」か「イチ」かで捉えようとすること自体が誤りです。それは共産主義的な考え方です。
世の中には、ゼロとイチ以外に、ニもあればサンもあるのです。

また世界征服でもありません。
日本はそもそも庶民文化の国です。
普通の庶民が、豊かに安全に安心して暮らすことができる、よろこびあふれる楽しい国を歴史を通じて希求してきた国です。
そしてこのことは、万国共通の人の世の幸せであろうと思います。

こうした発想が必要なことは、もし47が世界制覇を実現したら、もし5リアが世界制覇を実現したらと考えたら、すぐにわかることです。

日本人は、支配されることを嫌います。
一寸の虫にも五分の魂があるからです。

吉田松陰の言葉の中に、大好きな言葉があります。
それは、
 みだりに人の師となるべからず。
 みだりに人を師とすべからず。
です。

学び、問うから学問といいます。
師匠の教えをただ覚えるだけなら、それは学びではあっても、学問ではない。
そんなものは勉強しても、なんのタシにもなりません。
先人に問い、師に問い、自分に問い、それらを自らの人生の肥やし(肥料)にするから学問です。

※この記事は2020年8月のねずブロ記事のリニューアルです。

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