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西洋では十九世紀に成立した国民国家の運動によって、軍隊が正式に国有化されるようになりました。
それまでは王たちが行う戦争の担い手は常に傭兵(ようへい)ででした。
傭兵というのは、戦うことを職業にする人たちです。
採用されるときは、どれだけ強うそうかが、採用条件です。
けれど、本当に強いからといって戦いの場で勇敢に戦うと、どんな強い兵であっても怪我をしたり、死に至ります。
擦り傷程度であれば良いけれど、大怪我をしたり死んだりすれば、次からの稼ぎが失くなります。
だから、敵の前でさんざん強がって、本当に敵が攻めてきたらすぐに逃げる。
それが傭兵の生き方となりました。

王の周囲には、もちろん正規軍もありました。
その典型が近衛兵です。
近衛兵は特別に美しい鎧(よろい)をまとった規律正しい素敵な王の側近兵ですが、彼らは王の部下である貴族たちの跡継ぎ息子です。
つまり、父親が他国との戦いの遠征に出たとき、万一裏切ったら息子を殺すために人質として王の手元に置かれていました。

支配するというのはそういうことです。
相手の急所を握り、裏切れないようにして言うことをきかせる。
アメとムチの使い分けです。
世間でもっとも優美な国王の直轄軍とされる近衛兵ですらそのようなものであったというのが、世界の現実の姿です。

西洋では少なくとも18世紀までは絶対王朝の時代でした。
その後市民革命によって王権が否定され、次いでナポレオンが、国民こそ主役という「国民国家」という概念を打ち出してヨーロッパ最強の軍隊を持つに至ります。
ナポレオンの軍隊の強さに対抗するために生まれたのが、立憲君主制です。
国家は「王のもの」ではなく「国民のもの」であり、王の地位は法によって定まるとしたのです。
これが、その後には、議会制民主主義を成立させています。
つまり西洋における民主主義は、まだ二百年余の短い歴史しかもっていないわけです。

その前の時代までは、王が各地を割拠して支配していました。
王の権力が及ぶ範囲が王国の版図です。
王国は、王がいる王城と、その周辺にすぎず、王城から離れた隣国との境目のあたりになると、その辺り一帯は、A国、B国、どちらの王様の領土なのか曖昧です。
曖昧で境界がはっきりしないから、そこは度々紛争地帯となり、戦争となりました。
紛争が起きると、そこで王は互いに兵を出して戦をしました。
このときに王たちが用いたのが傭兵です。

傭兵となる人たちがどのような人たちだったかというと、
「戦いでしか生きることができない地上のあらゆる国からやってきた堕落した野蛮人」です。
その「堕落した野蛮人」がどういう連中かといえば、零落した者、さすらい人、犯罪者たちです。
そしてこの野蛮人たちが戦いに突き動かされる動機は、常に掠奪です。
ですから彼らの欲望のはけ口としての掠奪暴行強姦は、彼らの給料の中に含まれていました。
法的に、制度的に、慣習的に是認されていたのです。

そんな中で、ドイツで昔「三十年戦争」という長い戦争がありました。
時代は、日本で言ったら江戸時代のはじめ頃にあたる1618年から1648年です。
この戦争をテーマとした本に、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』(岩波文庫)があります。
戦災孤児となった主人公の半生を描いた小説です。
その中に、まさに三十年戦争の時代の傭兵たちの様子が詳細に描かれています。

すこし引用してみます。

 *

それからはどの兵隊もそれぞれとんちんかんなことをやり始めたが、そのどれもが落花狼藉といった感じを与えた。
これからはすばらしい酒宴を始めるかと思われるほど何頭もの家畜を刺し殺し、それを煮たり焼いたりする兵隊があるかと思うと、1階から2階を風のように駆けめぐって、便所のなかまで探しまわり、コルキスの金羊皮でも捜し出そうとするような兵隊もあった。

一部の兵隊は布地や衣類やさまざまな家具を包みこんで大きな包みをつくり、どこかで古物市でもひらこうとするつもりに見えた。
失敬して行くほどのものでないと考えたものは、たたき壊し、ばらばらにした。

一部の兵隊は敷布団から羽根をふるい出し、そのあとへベーコンをつめこんだりしたが、そのほうが羽根布団で寝るよりも寝心地がよいとでもいうようだった。
また、これからは常夏がつづくとでもいうように、ストーブと窓をたたき壊す兵隊もあった。
銅の器物や銀の器物を打ち砕いて、折れ曲がった器物を包み込む者もあった。
寝台やテーブルや椅子やベンチを燃やす者もあった。
とにかく最後には鍋と皿が一つのこらず割られてしまった。

私たちの下婢(かひ)のアンは厩でさんざんな目にあい、厩から出る気力もないほどであった。
それをここで語ることさえ恥ずかしいほどである。
下男は手足を縛られて地面にころがされ、口へ木片を立てられて口をふさがらなくされ、臭い水肥(みずごえ)を乳搾りの桶から口へ注ぎこまれた。
兵隊たちはそれをスウェーデン・ビールと称したが、下男にとってはありがたくないビールであったらしく、百面相をしてもがいた。

それから兵隊どもは短銃の撃鉄から燧石(ひうちいし)を取り外し、そこへ百姓たちの手の拇指をはさんで締めつけ、憐れな百姓たちを魔女でも焼き殺すかのように責めたて、捕えてきた百姓の一人などは、まだなんにも白状しないうちからパン焼き竃の中へ放りこまれ、火をつけられようとしていた。
他のひとりの百姓は頭のまわりに綱を巻きつけられ、その綱を棒切れで絞られ、口や鼻や耳から血が流れ出た。
要するにどの兵隊もそれぞれ新工夫の手段で百姓を痛めつけ、どの百姓もそれぞれお抱えの拷問者に傷めつけられた。

しかし当時の私の眼に誰よりも運がよいと考えられた百姓は、私のチャンであった。
他の百姓たちは痛めつけられ、ひいひいと悲鳴をあげて白状しなければならなかったが、チャンはげらげら笑いこけて白状させられたからである。
チャンがその家の主人であったので、そのように敬意を表されたのにちがいない。

兵隊どもはチャンを火のそばへ坐らせ、手も足も動かせないように縛り上げ、水でぬらした塩を足の裏へすりこみ、私たちの年取った山羊にそれを舐めさせたので、チャンはくすぐったがって、身をもがいて笑いつづけた。
私はチャンがそのように長く笑いつづけるのを見たり聞いたりするのは初めてだったので、それがとても楽しい結構なことにちがいないと考え、お相伴するつもりで、もしくはほかに知恵も浮かばなかったので、一緒にげらげら笑いつづけた。

チャンは口を割り、隠してあった虎の子を取り出してきたが、それは百姓などには身分不相応なたくさんの黄金や真珠や宝石であった。
連れてこられた女や下婢や娘がどうされたかは、兵隊どもが私にそれを見せようとしなかったから、私にもよくわからない。
しかし、あちらの隅やこちらの隅から悲鳴がきこえたことは、今もよく覚えている。

【望月市恵訳『阿呆物語』岩波文庫・上巻】

 *

同じ時代、というか、この時代よりも少し前の戦国時代においてさえも、日本では、武士は戦をするに際して民家を襲うことは著しく卑怯な振る舞いとされました。
それどころが合戦のために田畑が荒れるとわかれば、その会戦予定地に、あらかじめ両軍から使節を送り、付近の作物を高値で買い集め、近隣のお百姓さんに、戦のあとの遺体の始末や遺物の身内への送付などを依頼するまでしていました。

「民のために」戦っていた日本と、
「王のために」戦っていた西洋との違い。
それはとても大きな違いといえるものです。

傭兵の制度は、19世紀の国民国家の成立時期から姿を消しはじめました。
戦いが始まると逃げてしまう傭兵より、国のために戦う正規兵の方が、はるかに働きが良くて強いということがわかったからです。

きっかけとなったのはナポレオンです。
ナポレオンはフランスの人ですが、フランス革命でパリの市民が王を倒したとき、パリ市民は王の財産をパリ市民で分け合おうとしたのです。
これにNOを突きつけたのがナポレオンで、フランス王は、フランス全土の王なのだから、その財産は、フランス全土の民で分け合うべき、としてパリ市民に対して軍を起こしたのです。

ナポレオンは勝利し、さらに周辺国を平らげていきました。
ここはすこし補足説明が必要です。

当時のヨーロッパにおける王や貴族の領土というのは、実はその国の内側にあるだけではなくて、ヨーロッパ中に飛び地があるというものでした。
ですからフランスの王であれば、パリに王宮があるというだけで、その領地はフランス国外、言い換えればヨーロッパ中にあったのです。
王が倒れたあと、そこは当然にフランス国民の土地と考えられましたら、ナポレオンはその土地の摂取に向かいました。
けれど、そのあたり一帯を治める他国の王にしてみれば、それはナポレオンが軍を率いて自国の領土に侵入するという事態を意味したのです。
当然に周辺の国王は、ナポレオンの軍隊と戦いました。

ところが、ナポレオンの軍隊は、フランス国民がフランスのために戦っています。
ですから、どこまでも戦う、いつまでも戦う。怪我しても戦う。勝つまで戦う。
周辺国の国王が用いているのは昔ながらの傭兵です。
勝ちそうなときだけ戦う。少し不利になったら逃げ出す。
これでは勝敗は自明の理です。
そこでヨーロッパ諸国は、王政をやめて、立憲君主制を採用することになりました。
国民は、王の民ではなくて、はじめて国の民となったのです。
このことが、ヨーロッパをして、世界最強の軍隊を築くもととなりました。
19世紀以降、ヨーロッパ諸国が世界を支配するに至ったのも、ヨーロッパ諸国が世界に先駆けて国民国家を形成したからです。

ところが東洋の一部の国では、いまでも正規兵によって、阿呆物語に描写されているのと同様な掠奪や拷問、強姦、殺人が続けられています。
いまも昔も変わらないのです。
チャイナもコリアも、軍とヤクザと暴徒は、今も昔も同じものです。
ひとくちに東洋とはいっても、日本人と周辺国では、国情が違うのです。

日本の自衛隊や、オトモダチ作戦の米軍、その他親日国の兵隊さんたちは東日本大震災において、瓦礫の中で夜を徹して人命救助を行ってくれました。
けれど日本の近くにある某国では、その国の奥地で起きた巨大地震で、救助に行ったはずのその国の正規軍の兵士たちが、被災者たちから略奪や強姦を行いました。

歴史を学ぶことは、よりよい未来を迎えるためです。
戦争ほど悲惨なものはない。
掠奪ほど凄惨なものはない。
そのような悲劇を、絶対に繰り返さない、繰り返させない。
そして、本当の意味で、民衆が豊かに安全に安心して暮らせる未来を招く。
歴史は、そのための石杖です。

【参考文献】
『初期近代ヨーロッパにおける掠奪とその法理』山内進著
『国民の歴史』西尾幹二著

※この記事は2022年10月のねずブロ記事のリニューアル再掲です。

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