この記事は、毎年この時期にアップさせていただいる記事です。

「通州事件(つうしゅうじけん)」は、とてもつらい話です。
でも知っておかなければならない歴史上の事実です。
そしてこのことは、日本人のみならず、世界が知らなければならないことです。
そこで今日明日の二回にわたり、通州事件を特集します。

ねずブロで通州事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことです。
当時この事件について知る人は、ごく限られた人たちだけであったようで、当時はありもしないねつ造を書いたとか、でっちあげだとか、差別主義者であるとか、さまざまに中傷を受けたものです。
あげく、私の人格否定論まで飛び出す始末で、その反響のすさまじさに驚きました。

けれど事実は事実です。
いまでは、様々な人や団体の活躍で、かなりの人がこの通州事件の惨劇について知るところとなりましたが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、まだまだもっと多くの人に拡散し、常識化していかなければならないことだと思います。

通州事件が起こったのは、昭和12(1937)年7月29日です。

この事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起きています。
半月前の7月7日にあったのが盧溝橋事件です。
そしてこの事件に、チャイナの共産党と国民党が深く関与していたことは、歴史における公知の事実です。

まず共産党の事情から書きます。
もともと共産主義は、世界革命を標榜しています。
それは世界をクレムリンの支配下に置くというものです。
そのために「コミンテルン(Communist International)」ができ、彼らはロシア皇帝を殺害し、ドイツのプロイセン皇帝を追い払い、ヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

ところが欧州の各国は手強い。
なぜ手強いかといえば、欧州各国は巨大な富を持っているからです。
なぜ富を持っているかといえば、彼らはすでに地球上の8割を植民地として支配していたからです。

そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアを、まず共産党の支配下に置こうというのが、コミンテルンの戦略となりました。
そのためにまず混迷が続くチャイナを共産主義化する。
これは、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定した事実として知られていることです。

この決定に基づき、コミンテルンは大量の工作員をチャイナに送り込みました。
そして毛沢東率いるチャイナ共産党に巨額の経費を与え、チャイナの共産主義化の促進を図ったのです。
このことは現代を考える上においても、とても重要です。
民度が低ければ、カネだけでいくらでも人を自在に動かすことができるということを歴史が証明しているからです。
個人的にカネが儲かるなら、人を殺すこともいとわない。
民度の低い社会であれば、カネでいくらでも人を買収し、動かすことができるのです。

このことは、現代日本にそのままあてはまることでもあります。
歴史はフラクタル(相似形)です。だから歴史は繰り返すのです。
通州事件を毎年掲載するのも、そこに理由があります。
二度とこのような悲惨を繰り返してはらならない。
そのために我々は歴史の事実を知り、民度を上げていかなければならないのです。

ちなみに、民度が低くても宗教上の戒律のある国や社会では、カネだけで人を動かすことができません。
欧米がそうで、この場合は、巨額のカネによる買収と女の二つが用いられます。
宗教上の戒律を下半身は容易に破ることができるからです。

旧ソ連が、ヨーロッパや対米工作のためにとスワローと呼ばれる性的工作の集団を用いたこと、いまの中共が同様の方法で欧米の政財界の取り込みを図っていることなどが、まさにこの手法によります。
さらに悲惨なことに、この下半身には幼児売買も含まれます。

昨今の日本は、女性や幼児を使わなくても、カネだけでいくらでも買収ができるのだそうです。
ということは、いまの日本の民度は、昭和10〜12年当時の混乱していたチャイナと同じレベルの民度しかないということになります。
これではあまりに英霊となったご先祖たちに申し訳ないことです。

また、なぜ昭和初期にチャイナが選ばれたのかも重要です。
共産主義革命の基本は「対立をあおる」ことにあります。
チャイナは古来、外国人が王朝を築いた国です。
漢族が王朝を築いたのは前漢くらいなもので、それ以外は秦も隋も唐も元も明も清も全部外来の王朝です。
外来王朝であったということは、言い換えればチャイナは植民地であったということです。

チャイナには、もともと大きく分けて二つの種族があります。
漢人と南人です。
このふたつは、古くは黄河文明をもとにした漢人と、長江文明を発祥とする南人に別れます。
この二つの根深い対立があるところに加え、疫病と飛蝗(ひこう)と呼ばれるバッタの大軍の発生によって、人口の8割を失う大量死が訪れ、生き残った漢人が北の遊牧民が暮らす地へと大量に流出することから遊牧民との対立が生まれ、困った遊牧民が中原に入って王朝を興して直接漢人や南人を統治するようになったのが、各時代の王朝です。
チャイナの歴代王朝が、実は外来王朝であるという事実も、近年ようやく広がったものです。ここまでくるのに10年かかりました。

要するにチャイナは、歴史を通じて他民族によって支配され続けた国であり、しかも当時は清王朝ですが、女真族(満州族)の国家である清王朝が欧米諸国の蚕食によって疲弊し、国内が混乱のルツボにありました。
しかも人が人を殺すことを何とも思わないという国柄です。
欧州の列強各国も、まだ完全にはチャイナを支配下においていない。
悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかったわけです。

この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士であるチャイナ国民党でした。
なかでも蒋介石は、チャイナを自国の支配下に置こうとしているソ連以外の他の欧米諸国が、自分たちの領土に共産主義がはびこることを利用し、他の欧米諸国であるドイツ、フランス、英国、米国などから軍事資金と軍事物資の援助を得て、チャイナ国内で共産党員狩りを行っていました。
もともと蒋介石と、共産主義の毛沢東などは、同じ学校の同門の出であり、チャイナの特定少数民族の出です。
そして両者とも、○○主義を標榜して、自国内の敵対勢力(共産党からみた国民党、国民党から見た共産党)員をできるだけ派手に弾圧していれば、欧米諸国からお金をもらえたのです。
簡単にいえば、自国民を理由を付けて殺せば殺すほど、より多くの個人的富を得ることができたわけです。

日本人の場合、何かに命をかけて取り組むということは、それこそ損得抜きの生き様に通じるということで、これまでこの蒋介石と毛沢東の対立も、思想的な対立と見られることが多かったのですが、どこの国のどの民族も、同じ思考で走ると思ったら大きな間違いです。
チャイナでは(あるいは世界ではと言い換えたほうが良いかもしれませんが)昔から個人的な利益のために、人の命が平気で蹂躙されてきたという歴史が続けられてきました。
もっとも近年では日本人も、個人的利益が思想に優先する人が増えてきたと言われていますが。

さて、こうして共産党員をできるだけ派手に殺せば、欧米諸国からカネをもらえるというレールに乗った蒋介石は、国民党を率い、共産主義者とわかれば片端から銃殺にしていきました。
近年、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときのものです。

ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。
日本軍の蛮行として使われた有名な映像写真も、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。この映像の一部だけが切り取られて、あたかも日本軍が蛮行を働いたかのように宣伝されてきたのですが、映像の全体を見れば、国民党の兵士が共産党員を射殺していることが明らかです。

さて、国民党による共産党の大弾圧によって、毛沢東率いるチャイナ共産党は、勢力を落とし追いつめられました。
ついに毛沢東は、チャイナの奥地の延安にまで落ち、あと一歩で完全壊滅という情況にまで至りました。
中国共産党史では、この逃避行を毛沢東の「東征」などと勇ましい言葉で飾っていますが、とんでもない。ただ逃げ落ちていただけです。
ちなみに延安に逃げ落ちるのは、誰がどうみても西の内陸部向かっての西行なのですが、これを「東征」と呼ぶのは、日本の「神武東征」から言葉を得たものといわれています。
要するに昭和初期のチャイナの知識人たちにとって、日本はまさに理想の国であったわけです。
ただ我々日本人からしますと、神武東征というのは、東に向かって正しきを行ったということです。
ただ西に向かって逃げ落ちただけの毛沢東と、悪いけれど一緒にされたくない。

ところが、この、彼らの言う「東征」で、皮肉なことが二つ起こりました。
ひとつはソ連のコミンテルンから支給されていた共産主義革命のための費用です。
共産党が追いつめられて勢力を落とすことによって、毛沢東は逆に予算面で余裕がでてきたのです。
当然です。共産党軍の兵士たちや、革命のための工作員たちは、共産党から給料をもらっています。
ところが共産党員が弾圧され、その多くが殺されれば、逆に人件費予算には余裕が出るのです。

もうひとつは、チャイナ共産党狩りをする蒋介石にとっても、チャイナ共産党がチャイナから完全消滅することは、自らの利益(欧米からの補助金)を得られなくなるという事態を招いたことです。

昭和11年(1936年)の時点で、チャイナ共産党は国民党の盛大な働きによって追い詰められ、チャイナの延安に毛沢東以下のごく少数が立てこもるだけの状況になっていました。
ここに登場するのが満州から欧州に逃げていた張学良です。
張学良は、親父の張作霖が築いた富と、数十名の美女を連れて欧州に逃げ、そこで親父の富である美術品などを欧州のVIPにばらまきながら、チャイナ共産党壊滅のための蒋介石への資金援助工作活動を行っていました。
これにより、たとえば英国が100億円を出そうということになると、張学良は自分の取り分を引いて、残りを蒋介石に渡していました。

ところがチャイナから共産党がいなくなると、もはや欧州各国から資金を得ることができなくなります。
そこで張学良は、蒋介石を延安のすぐ近くの西安に呼び出し、そこで蒋介石を拉致したことにして、毛沢東、蒋介石、張学良の三者会談を実現しています。
これが西安事件です。

もともと蒋介石と、毛沢東や周恩来は、かつて孫文が大正13(1924)年に設立した黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)において、蒋介石が初代校長、そのときの学校の政治部副主任が周恩来、生徒の受験面接官が毛沢東という、いわば上司と部下の関係でした。
互いに顔見知りだし、出身も同じチャイナの少数民族です。

両者は西安において、互いに手を握りました。
共産党が壊滅すれば、欧米列強諸国は、問題が解決されたとして、もはや蒋介石が用済みなのです。
つまり、以後はお金が出なくなる。
そうであれば、次のターゲットが必要になります。
そして彼らが次のターゲットとして選んだのが、日本だったのです。

もともとチャイナには、1901年の北京議定書に基づいて日本を含む欧米11カ国が、治安維持軍を駐屯させていました。
ところが1918年から1920年にかけて、世界的にスペイン風邪が流行します。
この風邪は、当時の世界の人口が20億人ですが、そのうちの5億人が感染し、1億人が死亡するというたいへんな影響力を持った風邪でした。
スペイン風邪という名称は、たまたまこの風邪にスペイン王室の王子が感染したことがニュースになったことに由来するのですが、発生源はチャイナの武漢です。
つまり当時のチャイナでは、この風邪の流行がたいへん危険な状況にあったわけで、このため欧米各国は衛生状態の悪いチャイナから軍の大部分を撤収させています。
ところがこのときに、ほとんど感染者が出なかったのがチャイナにいた日本軍で、結果として欧州各国は、
「あとは日本さん、よろしくタノム」ということなり、結果チャイナ国内の治安は、もっぱら日本が矢面に立たされるハメになってしまっていたのです。

いまにして思えば、日本もこのときにサッサと軍を撤収していればよかったのです。
何も他所の国の治安にまで日本が責任を持つ必要はない。
けれども日本人は真面目なのですよね。
何の野心もなく、ただ平和維持活動のために残された軍として、真面目にお勤めを果たしていたのです。

けれども世界は腹黒い。
このスペイン風邪のさなかに行われた第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議(1919年)において、日本は、よせばいいのに、世界に向けて「人種の平等」を高らかに宣言したのです。
もちろん日本の主張は正しいことです。
けれども、よせばいいのにというのは、当時の欧米諸国の経済的利益の源泉が、まさにその人種の不平等による植民地支配に基づいていたからです。
ここもまた誤解している人が多いので補足しますが、500年続いた植民地支配というのは、有色人種を同じ人間とみなさないことによって行われていたものです。
欧米では、神様と契約しているのが人間です。
だから人間は、人間以外の動物を食べることができます。
つまり神様と契約のない有色人種は、人間ではない、ただの動物であったわけです。

それが500年続く世界の常識であった時代に、日本が人種の平等を言い出すということは、その人種差別によって経済的利益を受けているすべての欧米の大金持ちを敵に回すということです。
つまり、1920年の段階では、日本は完全に欧米列強諸国にとっての敵国、もっというなら、彼らの経済的利益を脅かす最大のサタンとなったのです。

そうした世界の趨勢にあって、蒋介石と毛沢東が争いを続けていたとしても、毛沢東が敗れたあと、蒋介石の利益の保証などなにもなく、また、毛沢東が死んでしまってチャイナ共産党が滅びれば、チャイナにお金を渡す国もなくなってしまう。
それよりも、普通に誰がどう考えても、蒋介石と毛沢東が手を結び、欧米列強のために日本の軍事力を削ぎ落とすために一役買う方が、はるかに得策になるし、そのためなら西欧各国がチャイナにカネを出してくれると踏んだのです。

こうして毛沢東と蒋介石が手を結びました。
これが昭和11(1936)年12月の西安事件(せいあんじけん)です。

もっとも最初から、これだけの話がうまく成立したわけではありません。
この頃「西安」には、地方軍閥である楊虎城(ようこじょう)がいたのですが、この男は、蒋介石も毛沢東もどちらも嫌いで、あくまで自分たちは西安で独自の軍閥でいようと粘っていました。
この時点で「延安」に立て篭る八路軍(チャイナ共産党軍)は、この時点の兵力がわずか7万です。
国民党は兵力210万。その中の20個師団と100機を越える航空機を投入すれば、あっという間に延安を殲滅できる。
蒋介石には、さあ最後の大戦(おおいくさ)だという状況でした。

ところが、そのための軍の進出地となる「西安」の楊虎城が、協力を拒みました。「ヤダ」というのです。
しかも楊虎城は、共産軍と相互不可侵協定まで結んでしまいます。
せっかく延安にまで共産党を追いつめたのに、最後の最後で、拠点の確保ができない。
そこで蒋介石は、わずかな供回りだけを連れて、12月4日に「西安」の楊虎城に会いに行った・・・と、こういう演出のもとに、張学良が蒋介石を12月12日に銃撃戦をして蒋介石を拉致したことになっています。

これが演出された拉致演技であったことは、蒋介石の妻である宋美齢と、その宋美齢が尊敬し敬愛してていた実兄の宋子文も同様に毛沢東らとの会談に参加していることでも明らかです。
そしてこのときの話し合いの結果、宋美齢と宋子文は、渡米して米国内の工作活動に従事するするのです。

西安事件によって次の8項目が合意され、蒋介石は表向きは従来通り共産主義との対立路線でいながら、水面下で毛沢東の共産党と手を握ることになりました。

【西安事件による八項目合意事項】
1 南京政府の改組、諸党派共同の救国
2 内戦の停止
3 抗日七君子の釈放
4 政治犯の釈放
5 民衆愛国運動の解禁
6 人民の政治的自由の保証
7 孫文遺嘱の遵守
8 救国会議の即時開催

これらの項目は、あくまでも表面上のものです。
チャイナでは、古来、本音は裏にある。
読み解くキーワードは、資金源です。
上の1〜8のどの項目も、お金がかかるだけで、入ってくる策がありません。
そしてお金が出ていくだけの合意というのは、チャイナではありえないのです。

つまり、国民党と共産党が共同して日本を叩く。
それによって、そのための資金を欧米諸国から得る、ということが、裏側にあったわけです。

こうしてその半年後にあたる昭和12年7月7日に起きたのが「盧溝橋事件」です。
この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件で、普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

実際、チャイナ共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが気って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた。全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という「俗称78通電」を公式に発しています。

ところがこの電文の内容を見ると、最初の発砲ですぐに両軍が衝突したと書かれています。
実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていました。
ということは、何を意味しているのかというと、この78電文は、事前に準備してあった計画電文だったということです。

しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。
この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、
1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること
2 将来このような事件が再発しなようにすることを声明すること。
3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること
4 抗日団体を取締ること
等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容です。
要するにチャイナ共産党の意に反して、7月11日には、現地で事件がまるく解決してしまったのです。

蒋介石にしても、毛沢東や周恩来にしても「まったく宋哲元は何を考えているのか!」と、忸怩(じくじ)たる思いであったことでしょう。
そこで、なんとかして日本とチャイナ国民党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の「廊坊事件」であり、26日の「広安門事件」であったわけです。

盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
これだけで、日本はチャイナと開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
日本には、この時点でチャイナに対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底してチャイナを撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

ところが日本はまじめです。
自分たちは平和維持のために派遣された軍隊だという自覚があります。
ですから、日本軍の側に被害が生じても、それでも戦闘を避けようとします。
日本は、明らかに開戦理由となる事件が起こっても、チャイナの兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしなかったのです。

これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
挑発をして日本が誘いに乗って軍事行動を起こしてくれれば、チャイナは「日本に侵略された」といって、欧米に資金援助を申し出る理由ができるのです。

けれども日本軍をいくら刺激しても、戦争にならない。
それなら、ということで、民間人を虐殺しようということで起きたのが、同年29日の「通州事件」であったのです。

この日の午前2時、突如、Chineseたちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
女性はほとんど強姦されて殺害されました。

=======
旅館の近水楼では入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。
帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。
女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。
カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。
南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた
(第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社)

 *

私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。
20名はほんの子供のような少女だった。
家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
空中にぶらぶらされる拷問である。

共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。
そして1日中続いた。
日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。
それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。
多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
水は彼らの血で赤く染まっていた。
何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。
古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。
この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。
しかし120人は逃げおおせた。
犯され殺された者の多くは子供であった。

この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。
中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。

(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。
彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。
他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。」
(フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 -日中戦争の真実-』)

=======

では、この通州事件のあと、日本はいったいどうしたのでしょうか。
世界中の誰がどうみても、世界史に類例のない残虐非道な事件です。
それこそ北朝鮮ではないけれど、日本は「容赦ない無慈悲かつ徹底した鉄槌を」くだしても、なんら咎められる筋合いはありません。

ところが日本がとった行動は「それでも開戦を避ける」でした。
この事件のあとの会議では、日頃意見が衝突しがちな陸軍、海軍それぞれの首脳も、当時の内閣も、全会一致で、それでも戦争を避けようという意見で一致しています。

なぜでしょう。
理由は簡単です。
当時の日本の陸軍兵力は最大で25万です。
これに対して、チャイナ国民党は210万です。
さらに南下を狙うソ連は160万の大軍を東亜攻略に準備しています。
日本が自立自尊を護り抜くには、チャイナとはむしろ仲良くし、本当の脅威であるソ連に備える必要があったのです。

加えて、日本がなぜチャイナに軍を進出させていたかといえば、それはチャイナに平和をもたらすためです。
その平和をもたらす使命をもって派遣している日本の兵が、チャイナで報復のための戦いをする、チャイナを戦乱のルツボに叩き込むというのでは、本末転倒です。

日本は、日本政府の意思として、8月4日に、Chineseたちにたいへん信頼が厚い元外交官で実業家の船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて蒋介石に、きわめて寛大な和平を働きかけました。
なぜ寛大かというと、通州事件という未曾有の厄災を受けていながら、日本はその加害者であるチャイナに対して、
「あながたのこれまでの日本に対する要望を
 すべて受け入れるから争いはやめよう」
と働きかけたのです。

これが「船津工作」です。
骨子は次の通りです。

(1) 塘沽(たんくう)停戦協定、梅津・何応欽(かおうきん)協定、土肥原・秦徳純協定など、日本に有利な北チャイナに対する軍事協定をすべて解消する。
(2) 非武装地帯を作る。
(3) 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。
(4) 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

この4項目が何を意味するかというと、その時点でチャイナ国民党が日本に対して希望していたすべての条件を丸呑みする、というものです。
通州事件のみならず、盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。
223名の邦人が大虐殺されるという被害に遭いながら、いっさいの賠償請求もせず、日本は、逆にチャイナの希望要求を、全部飲むという条件を提示したのです。

全部飲むのです。
そうなれば、もはや、チャイナが日本を敵視し攻撃する理由など、何もなくなります。
そうなれば、当然に、チャイナと日本との軍事的衝突も回避され、亡くなられた方々にはお辛いかもしれないけれど、結果としてその命が、両国の平和、それ以上に、チャイナの未来永劫の平和な社会建設のために役立つなら、それがいちばん良い解決の道だ、日本はそう判断したのです。

そしてこの船津工作は、8月9日は、上海市内で、日本と国民党双方の代表団が集い、相互に調印を図る段取りとなりました。

ところが、その当日に、上海で大山中尉虐殺事件が起こります。
海軍の上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後大尉に昇進)が、斉藤要蔵一等水兵の運転する車で移動中に、チャイナ国民党の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて死亡したのです。

自動車のわきにあった大山中尉の遺体は、多数の機関銃弾を受けていただけでなく、ご丁寧に頭を青竜刀で割られていました。
斉藤一等水兵は運転台で多数の銃弾を受けて死んでいます。

この事件の発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になりました。
そしてこの1週間後に起きたのが、第二次上海事変です。

蒋介石が、この通州事件の成功によって欧米から得た利益です。
英国は1939年に1000万ポンド(現2500億円)、1940年に1000万ポンドを蒋介石に貸与しました。
フランスは1938年に1億5000万フランを貸与、1939年に9600万フランを蒋介石に無償援助しました。
ソ連は1937年に航空機900、戦車200,トラック1500,銃15万、砲弾12万発、銃弾6000万発を蒋介石に提供し、1939年には1億5000万ドルを援助(現6400億円)し、さらにソ連空軍が密かに参戦しています。おそらく毛沢東にもそれ以外にかなりの額の援助をしていたことでしょう。
米国は1927〜41年に4億2000万ドルを無償援助、1940年に50機の新鋭戦闘機、装備、武器、弾丸150万発を援助、1941年に100機の戦闘機を援助、259名の米空軍パイロットを義勇兵の名目で中国空軍に参戦(フライング・タイガース)させ、さらにトラック300台と5000万ドル分の軍事物資を供与して、米軍事顧問団を派遣、また、500機のB-17爆撃機を援助しています。

要するに、チャイナ全土から兵を徴集して銃を持たせ、日本と戦っているフリさえしていれば、これだけ多額の、兆の桁の資金を、蒋介石は得ることができたのです。
もちろん毛沢東も同様であったことでしょう。

「日本がチャイナを侵略した」という人がいます。
けれど歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチでチャイナに軍を派遣していたのです。
それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。

通州事件などの一連の事実を振り返る時、つくづく「世界は大金持ちの個人の利害得失で動く」ことを思い知らされます。
ごく一部の人の金儲けと贅沢のために、一般の民衆が国籍を問わず、財を奪われ、虐殺される。
民衆は人でなく、ただの家畜でしかなく、実際そのように屠殺までされる。
だからこそいま、日本のシラスという概念が世界に必要とされてきているのです。

※この記事は2014年7月の記事にかなりの手を加えて書き直したものです。
これまで通州事件は、チャイナの共産党が裏で糸をひいたといわれてきましたが、この投稿では、すべてはカネ目当てであったのだという説を取っています。いろいろな本を読ませていただき、いまは、この「カネ目当て説」がもっとも真実の歴史に近いと思っています。

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