日本は、初代神武天皇によって長期備蓄のできるお米を使って、全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように互いに助け合って生きる国として建国された国です。
そして第十代崇神天皇によって疫病が克服され、誰もが安心して暮らせる国の基本が築かれ、第十六代仁徳天皇によって大規模な土地の造成が行われて豊かな国となり、古代において東亜の超大国となった国です。
そんな日本は、世界の東の果てにある蓬莱山、扶桑の国と呼ばれ、神仙でなければたどり着くことのできない理想の国とされました。

そんな蓬莱の国に、仁徳天皇のひとつ前の応神天皇の時代にやってきたのが、漢王朝最期の皇帝の孝献帝の直系の一族です。
孝献帝という名は、孝献帝の死後に贈られた諡号(しごう)で、生前の名を「劉協(りゅうきょう)」と言いました。
漢の大帝国を建国した劉邦の末裔で、後漢の最期の皇帝です。

『三国志』をお好きな方ならご存知のことですが、後漢の末期に、董卓が劉協を皇帝に擁立しました。
董卓の死後、劉協を保護したのが魏の曹操です。
曹操は、後漢の皇帝を王に担ぐことで、魏による中華統一の正統性の証としたのです。

ところが曹操の死後、曹操の息子の曹丕(そうひ)は、劉協が40歳のときに皇帝の座から引きずり下ろし、自分が魏の皇帝になってしまいます。
このときに用いられた皇位継承の形は「禅譲(ぜんじょう)」と呼ばれ、以後、中華における王朝交代の手本とされるようになりました。

さて、こうしてついに漢王朝の幕が降りたのですが、どっこい劉協は生き残ります。
曹丕によって西安近くの山里である山陽に封じられ、そこで54歳の生涯を終えるのです。

息子が早逝していたため、孫の劉康(りゅうこう)が跡を継いで山陽公となり、その子の劉瑾(りゅうきん)、劉秋(りゅうしゅう)と山陽公が受け継がれるのですが、その劉秋は、チャイナの史書によれば、309年の永嘉の乱のときに、匈奴の汲桑(きゅうそう)将軍によって殺害された・・・ことになっています。

ところがどっこい、劉の一族はしぶとい。
一説によれば、争いの最中に劉秋は一族を連れて山陽を脱出し、朝鮮半島を経由して、東の海の向こうにある扶桑国(ふそうのくに)と呼ばれる理想郷に向かったとされます。
その扶桑国が日本のことで、それが第15代応神天皇の御世のことです。

このときのことについて日本書紀は、
「倭漢直の祖の阿智使主(あちしのぬし)、其の子の都加使主(ちゅうがしのぬし)は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」
と記しています。

劉協の「協」は、チャイナ語で「jing」と発音されますが、日本人が聞くと「ち」に聞こえます。だから「阿智(あち)」。
劉秋の「秋」は、チャイナ語で「qiu」で、日本人が聞くと「ちゅう」に聞こえます。だから「ちゅう」が使いとともにやってきたという意味で都加使主と表記されています。

そしてこの一族は、日本において応神天皇の庇護のもと、近江の坂本の地で帰化し、一族の名を、劉協の「協」の字から、「三つの力を合わせる」三津首(みつのおびと)の一族を名乗るようになります。
(「首(おびと)」は、古代における有力者への尊称です。)

そしてこの三津首氏の直系の子孫から誕生したのが、三津首百枝(みつのおびとももえ)で、この人が後の平安時代のはじめに比叡山を開いた伝教大師最澄です。
そしてその伝教大師の門下生から、法然や親鸞、栄西や道元、日蓮などの高僧が誕生したことは、皆様御存知の通りです。

学校の教科書では、「日本は遣隋使や遣唐使を出して、高い文化を持ったチャイナから様々なことを学んだ」としています。
要するに、チャイナは進んでいて、日本はオクレていた、というわけです。

ところがどっこい。
実際には、日本からチャイナに渡った人よりも、チャイナから日本にやってきた人の方がはるかに多いし、その人たちのほとんどすべてが日本に帰化しています。
帰化というのは、「帰るところを化(か)える」という意味で、外国で生まれ育ったけれど、日本人となり、日本を祖国として末代まで生きていこうとした、ということです。

逆に、日本からチャイナに渡り、向こうで帰化した人というのは、あまりいません。
阿倍仲麻呂のように、日本に帰りたいと再三、唐の皇帝に申し出るのだけれど、仲麻呂があまりに優秀だからとそれが許されず、結果、唐に骨をうずめた人もいますけれど、ごく限られた少数です。
一方、日本にやってきたチャイナ人は、多くがそのまま日本に帰化しました。

日本の別称には、蓬莱山、扶桑の国の他、東瀛(とうえい)、方壷(ほうこ)といった名称もあります。
蓬莱山、東瀛、方壷の三つを合わせて「東方の三神山」といいます。
いずれも日本を指す言葉です。
日本は、平和で豊かで誰もが安全に安心して住める、まるで極楽浄土のような国であったのです。

現実問題として古代における世界は、洋の東西を問わず支配層が絶対的権力を握り、一般の民衆は尻に肉が付いていれば強制的に使役されるという、奴隷状態に置かれていました。
奴隷に人権はありません。
死んでも、ネズミの死骸と同じ、ゴミとしてしか扱われない。
そんな世界にあって、日本だけが「民衆をおほみたから」とし、民の幸せこそが天下の幸せとしていたのです。
誰がどう考えても、日本は蓬莱山、東瀛、方壷と呼ばれる神仙の国としか思えない。
それが日本だったのです。

ですから世界中から多くの貴人が来日し、日本に住むようになっています。
9世紀に書かれた当時書かれた『新撰姓氏録』によると、なんと当時の畿内の人口の3分の1が外国からの帰化人です。
いまで言ったら、およそ4千万人が外国人であるようなものです。
ご近所を見渡せば、3件に1軒が外国からの帰化人だというわけです。

ところがそんな状況にあってなお、日本は平安中期には、紫式部や清少納言が活躍する、平和で豊かで安定した国柄を実現しています。
なぜそのようなことができたのかといえば、答えは明確です。
平安時代に至る前、飛鳥時代から奈良時代にかけて、我が国が日本書紀を編纂しました。
日本書紀により、日本は、神話の昔からの日本人の理想や考え方を明確にし、これを国民教育に活かして行ったのです。
つまり日本は、教育によって、本物の理想国家を実現しようと努力を重ね続けてきたし、政治もまた民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会の実現のために最大限の努力を重ねていたのです。

現代はどうでしょう。
外国のものばかりをありがたがり、本来あるべき自分たちの国を誰もが豊かに安全に安心して暮らせる国にしていこうとする気概も忘れられています。
日本はダサく、外国はかっこいい。
憲法前文には、なんと日本より外国を信頼すると書かれています。
そんな現代日本人の姿を、我々のご先祖が見たら、どのように思うでしょうか。

伝教大師・最澄が開祖の比叡山に、「伝教大師童形像」という像があります。
根本中堂の正面脇に建っています。トップの写真の向かって左側の立像です。

この像は、全国の小学生がひとり1円ずつ(建立は昭和12年で、当時の1銭ずつ)を出し合ったお金で建てられたものです。
子供のたった1円が、立派な銅像になっているのです。
ひとりの力は小さくとも、みんなが集まれば、それは時代を変える大きな、そして偉大な力になるのです。

昨今、日ユ同祖論が盛んです。
日本にユダヤ人がやってきたことは事実です。
証拠は各所に遺っています。
証拠がある以上、これを否定することはおかしなことです。

けれど大切なことは、やってきたユダヤ人たちによって、日本文明が滅ぼされたわけではないことです。
なるほど、たとえば祇園祭には、数ある山車の中に、どうみてもユダヤ系としか思えないような山車があります。
それらは、迫害を逃れてはるばる日本にまでやってきたユダヤの人々が、日本で豊かに安全に安心して生きることを認められたその報恩感謝のためにと出された山車と考えれば、歴史の辻褄が合うのです。

事実をもとに再現可能性がMAXになるように過去をストーリー化するのが歴史学です。
ですから歴史学は、論理的思考や、未来への創造力を養います。
だから歴史は、大事なのです。

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