8月1日に始まったのが、日露戦争における旅順要塞戦です。
この戦いは、およそ4ヶ月半続き、日本陸軍15400名、ロシア陸軍16000名の尊い命が犠牲となりました。

我が国では、この戦いにおける戦死者が多かったことから、旅順戦は無謀な戦いであったとか、乃木希典大将は無能だったとか、いまでも様々な酷評があります。
けれど、たいせつなことは、評価にあるのではありませんし、戦場にいるわけでもない現代人が、過去の戦いに評釈や評点を付けたところで、何の足しにもなりません。

たいせつなことは、そこから何を学ぶか。
何を私達自身の生命に刻むかであり、そうやって戦い、世界から植民地を駆逐する先駆けをなされた方々に何よりまず感謝の心を持つことではないかと思います。

それに、要塞戦というのは、たいへんに過酷なものです。
ロシアとヨーロッパの連合軍が衝突した黒海のセヴァストポリ要塞戦では、陥落までの1年の間に、攻撃側に12万8千人の死者が出ています。
この要塞をもっと強化した第二次セヴァストポリ要塞戦では、攻撃側のドイツは10万人の兵の生命を失い、守るロシアも10万人の将兵の生命を失っています。
防御力に徹した要塞戦というのは、かくも険しいものなのです。

そしてそのセヴァストポリ要塞の6倍の防御力を持ち、絶対に落ちることがないとロシアが豪語していた要塞が、旅順要塞でした。
その絶対難攻不落の要塞を、世界の戦史ではありえないような短期間で、しかも10分の1の兵力の損耗で陥落させた日本陸軍の将兵と、総指揮を執った乃木大将の英断は、いまなお世界では、陸戦史に残る偉業として讃えられているものです。

そうでありながら、我々日本人が、これをまったく知らない、あるいは見下して見るような真似は、個人的に、人間として、そして知識として、最低の振る舞いであり、あってはならないことであると思います。

さらにいうと、この戦いにおける白たすき隊の偉業についても、近年の日本では、白たすき隊は、あたかも無謀な戦いをした、あるいは、わざわざ敵からみて目立つ白いタスキを胸に付けて特攻することは、あまりに無謀、あまりに馬鹿げた戦い方法であり、これは乃木大将以下、当時の日本の指揮官らが、いかに人の命を軽く見ていたかの証拠である、のようなことがいわれています。

「馬鹿者だ」と言わせていただきたいと思います。
あまりにも、物事を知らなさすぎるし、あまりに上から目線です。
そのようなことを、しゃあしゃあと述べることができるのは、きっと日本人ではなく、反日に凝り固まったどこか別の国の言論としか言いようがないと思います。

人間というのは、心臓を撃ち抜かれても、脳が生きている限り、15秒は生きて活動できるものなのです。
そして15秒あれば、背囊を背負い、銃を構え、あるいは軍刀を手にしたまま、足の早いものなら100メートルほど前まで進むことができます。

要塞戦は、要塞本体を叩く前に、要塞の周囲に張り巡らされたトーチカを、ひとつひとつ潰していかなければなりません。
そのトーチカには機関銃が設置してあり、近づく日本兵は、狙い撃ちにされます。
そのままではまったく近づくことはできないし、いまのようなミサイルがまだない時代ですから、近づかなければ榴弾砲を要塞に届かせることもできない。

ですから、要塞の前にあるトーチカを、ひとつひとつ潰していかなければならないのです。
そしてそのためには、要塞に近づいて、戦線の前線を少しでも前に持っていかなければならない。
そしてひとりが撃たれたあとに100メートル進んでくれれば、次の者は110メートルのラインまで、その次の者は120メートルのラインまで、前線を前に進めることができるのです。

白たすき隊は、まさにこれを行った人たちであったのです。

ですから、白たすき隊の隊員になるということは、そのまま死を意味します。
そして、死ぬとわかって、前線を前に進める役を担う。
これは、勇気という言葉だけでは語りきれない覚悟そのものです。

上に、心臓を撃ち抜かれても15秒ということを書きましたが、頭を吹き飛ばされて、首から上がなくなったときも、首から下は、やはり数秒間は生きていて動きます。
けれど、数秒では、肉薄することができない。
だから、敵に胸を狙わせる。
胸なら、心臓を撃ち抜かれても、15秒生きられるからです。

こうして文字通り「決死」の白たすき隊(正確には白襷抜刀隊)3,113名が選抜されました。
そして彼らは、敵に「俺の胸を狙え」とばかり、胸に大きな×印の白いたすきを付けました。
こうすることで、敵の銃撃手の視線は、自然と胸に集中するし、集中すれば、15秒を稼げるからです。

この白たすきについて、「夜間の敵味方の識別を目的とした」と書いている先生もおいでになりますが、当時の資料にそのように書いてあったとしても、当時は武士がまだ生き残っていた時代ですし、武道を学ぶものなら、15秒の生存を誰もが知っていた時代です。
記録というものは、単に言葉の上辺だけを読んでも、それは読んだことにはならないものです。

そしてこの白たすき隊の活躍については、ロシア側に、その恐怖体験を綴った文が遺されています。
そのなかから、岡田幹彦著『乃木希典』という本のなかにあるロシア側の記録を、以前、西村眞悟先生がブログで紹介されていたので、その文を転載したいと思います。

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ロシア側記録 (岡田幹彦著、「乃木希典」より)

余ら、旅順籠城の守兵は、
一兵一卒の末に至るまで、
各一砦一穴は全露西亜国なりとの観念を深くの脳裏に刻して、
血につぐに骨をもってし、
骨につぐに直ちに魂をもって死守したるなり。

しかも日本軍の驍勇堅忍なるや
分を得れば寸、寸を得れば尺と
営々倦まざること
即ちこれをや日本軍の精気なりと言わん。

実に、この精気に強き日本軍が精気の弱き露西亜軍を屈服せしめたるなり。

余は敢えて屈服という。
されど一九〇五年一月一日の旅順開城をさすにあらざるなり。その前年の暮れ、即ち十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、
まことに余らをして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。

この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことは
もはや従来の露西亜文学には
その適当なる修飾語を発見するを得ず。

数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。
総員こぞって密集隊
白襷を血染めにして抜刀の姿、
余らは顔色を変えざるをえざるなりき。

余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。
曰く、屈服。

********

白たすき隊の行動の前に、ロシア側は、まず精神が「屈服」したのだと、書いているのです。

そして、こうした先人たちのおかげで、いまの日本があります。

もし、日本が日露戦争で旅順要塞を落とすことができなければ、ロシアは旅順艦隊を温存できました。
この艦隊が、バルチック艦隊と合流すれば、日本海軍はまったく歯が立たずに壊滅したことでしょう。
そしてそうなれば、大陸にある日本陸軍は武器弾薬食料の補給を断たれ、大陸に孤立し、ロシア軍に全滅させられていたことでしょう。
そしてそうなれば、その後の日本はロシアに占領され、その後ロシアが赤化して共産主義政権になることで、日本は共産主義国であるソ連の一部とされたことでしょう。

当時の日本人の人口は、およそ4000万人です。
そして植民地化された国では、生き残ることができるのは、良くて1割り程度です。
つまり9割の人口が失われていました。
つまり、日本人は400万人程度しか生き残ることができず、ということは、いまを生きる我々の命も、まず「なかった」ということになります。
そして生き残ったとしても、万年の単位で続いた日本文明は、完膚なきまでに壊されていたことでしょう。

逆に言えば、それだけ後世に大きな影響を及ぼす偉業を、白たすき隊の3,113名は、行ってくれたということです。

その偉業を、その勇気を、そのやさしさを、語り継がなければならないのは、いったい誰でしょうか。
日本人が日本人の偉業を語り継がずに、いったいどこの国の人が、語り継いでくれるというのでしょうか。

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