小園安名(こそのやすな)氏は、元大日本帝国海軍航空隊の大佐で、本土防衛にあたって帝都上空を守る日本海軍史上最強最精鋭の航空部隊であった海軍厚木三〇二航空隊の司令です。
昭和20(1945)年8月15日の正午に玉音放送が流された後、小園安名司令は総員集合を命じました。
このときの小園司令の訓示です。

「降伏の勅命は、真の勅命ではない。  ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。  日本政府はポツダム宣言を受諾した。  ゆらい皇軍には必勝の信念があって、  降伏の文字はない。  よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、  皇軍とみなすことはできない。  日本の軍隊は解体したものと認める。  ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、  徹底抗戦の火蓋を切る。  今後は各自の自由な意志によって、  国土を防衛する  新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。  ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも  諸君の自由である。  小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。  しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。  私は必勝を信じて最後まで戦う。」

そして小園司令は、全員に向かって、
「帰郷せんとする者、離れてよしっ!」
と声をかけました。

全員に自己の判断で行動しなさいと言ったわけです。
そして戦いの継続を望まない者は、その場を離れなさいと、命じたのです。
けれど、誰一人その場を立ち去る隊員はいませんでした。

翌、8月16日、小園司令は厚木航空部隊の独立宣言を、海軍の各部隊宛に緊急電報で発信し、陸軍や国民に向けて檄文のビラを用意しました。
そのビラの文章です。

「国民諸子に告ぐ。  神州不滅、終戦放送は偽勅、  だまされるな。  いまや敵撃滅の好機、  われら厚木航空隊は健在なり。  必勝国体を護持せん。  勤皇護国。  皇軍なくして皇国の護持なし。  国民諸君、  皇軍厳として此処にあり。  重臣の世迷言に迷わざることなく  吾等と共に戦へ。  之真の忠なり。  之必勝なり。」

このビラは、零戦が首都圏に散布し、月光が関東東北に、彩雲が中部に、銀河が北海道・中四国に散布しました。

同日、厚木の小園司令のもとには、米内海軍大臣から翻意をうながす意向が伝えられました。
小園司令はこれを拒絶しました。

米内海軍大臣は、横須賀鎮守府三航艦司令長官である寺岡謹平海軍中将に小園司令の説得を命じました。
寺岡中将は、厚木基地に向かいました。
寺岡中将と小園司令は、30分ほど会見しました。
そして会見は「決裂」しました。

8月17日、小園司令の問題は、深刻な事態となりました。
米国から「マッカーサーが8月30日に厚木基地に降り立つ」と連絡があったからです。

ところが厚木基地には、小園司令らが徹底抗戦を主張して立て籠っているわけです。
武装も解いていません。
いまだ戦時体制のままです。

やむをえず海軍上層部は、陛下にこれを上奏し、陛下に直々に「隠忍自重の勅語」を発していただくことにしました。
同時に米内海相は、横須賀鎮守府に厚木基地の「強硬鎮圧」を命じました。

命じられた横須賀鎮守府の寺岡中将は、断固としてこれに抵抗しました。
寺岡中将の心は、むしろ小園司令とともにあったからです。

しかしこの時点で、日本に原爆が落とされています。
米国は、無辜の市民の虐殺に走りました。
すでにこれはルールのある国際戦争ではなく、ただの場外乱闘へと変化しています。
そして陛下の大御心も、国民の心も、亡くなられた英霊の心も、場外乱闘を望むものではありません。

気持ちは小園司令と同じです。
断固戦えば、最後には確実に勝利できることは、後のベトナム戦争がこれを証明しています。
しかも、あと2ヶ月持ちこたえれば、日本の空を襲ったB-29は、ただの的(まと)になるのです。

しかし、それまでの間、原爆という名の場外乱闘によって無辜の国民が受ける被害は甚大です。
だからこそ陛下は、終戦の御聖断を下されたのです。

8月18日、小園司令は、突然40度もの高熱を出してしまいます。
南方戦線在任中に感染したマラリアが再発したのです。
しかし高熱を発していても帝国軍人です。
彼は床に伏せたりしませんでした。

8月の酷暑の中を、軍服をしっかりと着たまま、床にも伏せず満々とした闘志を揺るがせませんでした。
これだけでも常人には真似のできないことです。
いかに小園司令が気迫の人であったかがわかります。

8月20日、海軍兵学校で、小園司令の一期後輩であった高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう)海軍大佐、 第三航艦参謀長山澄忠三郎大佐らが厚木基地にやってこられました。
小園司令を説得するためです。
そして小園以下、厚木基地に立て篭もる隊員たち全員を集め、「陛下の大御心」を伝え、抗戦体制を終結するよう説得しました。

厚木基地の隊員たちはどうしたでしょうか。

誰も説得に応じなかったのです。
彼らは猛暑の中を正装して滑走路に整然と整列し、親王殿下と参謀長の話に聞き入ったうえで、誰ひとり、その闘志を迷わせることはなかったのです。

8月21日、さしもの豪傑の小園司令も、高熱のために意識が混濁していました。
このままでは司令の命が危ないと、山澄参謀長らは、軍医長の少佐に命じて、小園司令に解熱のための鎮静剤を打つことにしました。
けれど、小園司令は、これを拒みました。
みんなで小園司令を押さえ込んで、注射しようとするのだけれど、そうすると小園司令は、暴れるのです。
ようやく全員で取り押さえて注射をしました。
ただでさえ40度を超える高熱です。
そこに鎮静剤を打たれたら、普通はぐったりして身動きさえとれません。
ところが小園司令は、注射後も軍刀を抜いて抵抗しています。
その気迫、まさに鬼気迫るものがあります。

やむなく付近にいた全員で小園司令を取り押さえ、革手錠まではめて、海軍病院に搬送しました。
基地にいた誰もが、司令の療養のためと思いました。

ところが小園司令が搬送された先は、野比にある海軍の精神病院(現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)でした。
しかも収容先は、精神科病棟です。

司令が連れ去られた厚着基地では、三〇二空の航空隊員たちが、一部の仲間たちの制止を振り切って、零戦・彗星・彩雲など32機に分乗し、基地から脱出しました。
このうち零戦18機は陸軍狭山飛行場へ、彗星など13機は、陸軍児玉飛行場へ降り立っています。

残る一機は、消息不明となりました。
おそらく単機、敵艦船を求めて太平洋をさまよい、ひとり太平洋に散って行かれたのだと思います。
その心情を思うと、私などは泣けて泣けて・・・。

小園司令がいなくなり、航空兵が飛び立ったあとの厚木基地は、8月22日、軍の命令によって、残る士官全員が、強制退去させられました。

8月23日、厚木基地に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会が入り、飛行場の片付けと整頓が行われました。
こうして8月26日、米軍先遣隊の輸送機13機が厚木に着陸し、8月30日連合軍最高司令官マッカーサーが厚木に降り立っています。

以上が、終戦直後の厚木事件の顛末です。
小園司令はその後どうなったのでしょうか。

司令はそのとき、精神病棟にいました。
病院内での小園司令に対する処置は、それは酷くて苛烈なものだったそうです。
なお闘志をあきらめない小園に、最重要危険人物に対するもっとも峻烈な後ろ手を十字に組ませた手錠をかけ、食事さえも与えられませんでした。
というより、小園司令は、病院が用意する食事を拒否したのです。

司令は病院が与える水さえも拒否しました。
けれど猛暑です。
小園司令は、喉の渇きを潤すために、床を転げて自分の小便をすすられたそうです。

10月15日、巣鴨拘置所で厚木航空隊騒擾事件の横須賀鎮守府臨時軍法会議が開かれました。
軍法会議出席のため、小園司令は巣鴨に移送されました。
そこは、つい二ヵ月前までは、鎮守府参謀として執務した、懐かしい司令部の建物です。
この日、小園司令の目には、感慨めいた光が宿っていたと伝えられています。

小園司令が巣鴨に到着したとき、遠巻きに小園を取り囲んだ輪の中から「小園参謀!」と声をかけた者がいました。
それは若い、情報係の山梨少尉でした。
山梨少尉は、8月11日の朝、日本がポツダム宣言を受諾したとの海外放送を、小園司令に伝えた男でした。

山梨の方を見た小園の口元に、かすかな微笑みが浮かび上がりかけ、消えました。
一瞬のことでした。
小園司令は、MPにせかされて、建物の中に姿を消して行かれました。

山梨少尉は、拘束衣に縛られ、見る影もなく痩せた小園司令の姿に、「あの参謀長が・・・」と絶句し、涙がとまらなかったそうです。

小園司令は、かって横須賀鎮守府の名参謀として知略をふるい、戸塚長官や幕僚たちまで震え上がらせた猛将です。
厚木基地では、敵戦闘機や爆撃機をなんと120機も撃墜。
そのうち80余機は、あの空の要塞B29の撃墜です。
若い士官たちは、小園司令を心から尊敬していたのです。
その小園司令のあまりにも変わり果てた姿に、山梨少尉は、青年らしい怒りと、同時にその理不尽な姿に、悲憤の涙を流したのです。

小園司令に対する裁判は、その日のうちに判決が出されました。
判決は、「党与抗命罪」です。
司令は失官し、無期禁固刑が言い渡されました。

それから7年が経過しました。
昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効しました。
小園司令はどうなったでしょうか。
司令が刑務所から出所となったのは、昭和28(1953)年のことです。
日本政府は、主権回復後も、まる1年、米国に気を遣って小園司令を拘置したままにしたのです。

出所した小園司令は、生まれ故郷の鹿児島県加世田(かせだ)市に帰りました。
そこで農業をしながら、静かに余生を過ごされています。
そして昭和35(1960)年11月4日、家族にみとられながら、57歳の生涯を閉じられました。

中田整一さんが書いた「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」という本があります。
いまは講談社文庫にもなっています。
その本の中に、淵田美津雄氏が戦後、小園司令に会われたときのことが書いてあります。
戦後のことですが、小園元司令は、
「あの時降伏などするのではなかった」
と、ひとこと、明るく笑って答えたそうです。

小園司令には確かな勝算があったのです。
当時、日本の空を悩まし、原爆まで投下したのは、B-29です。
それは、超空の要塞と呼ばれる、当時は世界最強の空の要塞でした。
B-29は、高度8000メートルで飛来します。
零戦などのプロペラ機は、どんなに頑張っても高度6000メートルがやっとです。
まるで勝負にならなかったのです。

ところが小園司令は、作戦をもってB-29の高度を下げさせ、さらに飛行機の銃頭を斜め上に向けることによって無理矢理弾を届かせるように工夫し、B-29を撃墜していたのです。
そして同じ頃、日本の長崎の工廟では、ジェットエンジンの開発が行われていました。
燃料は麻油です。

ちなみに麻油は、ほぼ無尽蔵に製造が可能であり、しかも石油のような公害を発生させません。
ある意味、究極のエコ燃料であり、この分野での研究は、戦中までは日本が世界の最先端を走っていました。
戦後、GHQは、日本のこの研究成果をすべて米国に持ち帰りましたが、石油資本のビジネスのため、麻は結果として麻薬の一部のような扱いにされることになっています。

また、当時世界最強だったB29は、朝鮮戦争(1950〜1953)の際にも大量に導入されましたが、その戦争中に一斉に軍の第一線から姿を消しています。
なぜかというと、1951年に、北朝鮮に味方した中共軍がソ連から貸与されたジェット戦闘機の「MIG(ミグ)-15」を導入したからです。
速度が早く、上昇高度の高いジェット戦闘機の強力な37mm機関砲の前に、B-29は、空に浮かぶ速度の遅い、ただの巨大な的(まと)でしかなくなったのです。

ソ連のMIGジェット戦闘機は、ソ連がドイツに勝利したことによって、ドイツのBMWから奪った技術を用いたものでした。
日本では、中島飛行機が独自技術でジェット戦闘機を開発していました。
理由は簡単で、実はプロペラ機のエンジンよりも、噴進機関、タービンロケットを装備したジェットエンジンの方が、構成部品が少ないために、製造が簡易であったことによります。
このエンジンを搭載した戦闘機や爆撃機が登場していたら、おそらく戦況は一変していたことでしょう。

けれど陛下の大御心は、戦争の終結を望まれました。
なぜなら、日本が戦況を一変させる前に、もうあと2〜3発の原爆を日本は投下された危険があったからです。
そうなれば、何十万の無辜の民が死ぬ。
陛下は、戦いに勝つことよりも、無辜の民の命を守ることを選択されたのです。
そのおかげで、私達は生きている。
そのご恩を、やはり私達は、しっかりと感じ取る必要があるのではないかと思います。

それともうひとつ。
日本の社会では、実績があり誰からも慕われる偉人が、必ずしも幸運な晩年をすごすわけではない、ということです。

小園司令は、数々の武勲をたてた空の勇者であり、大東亜戦争末期には帝都上空を守る最精鋭航空隊の司令に任ぜられるという優秀さに加え、部下からもたいへんに慕われる、まさに「立派な帝国軍人」でした。
にもかかわらず小園司令は、戦争が終わると、こんどは逆に精神病患者という扱いを受け、拘束着を着せられ、刑務所に入れられ、日本がサンフランシスコ講和で独立を回復してもなお1年、刑務所から出してもらえず、晩年は細々と農業を営み、静かにこの世を去っていかれました。

歴史をたどれば、土佐藩の改革に見事な実績を残した野中兼山、治水事業で実績を残した水戸藩の松波勘十郎、関宿藩の船橋随庵も同様に、さみしい晩年を迎えています。
これはどういうことでしょうか。

人は魂が、より偉大な魂となる訓練のためにこの世に肉体を持って生まれてくるものだというのが、縄文以来の日本人の考え方です。
最近は、その考え方が、実は本当なのだということが、最先端の理論物理学の世界で、シミュレーション仮説として、有力になりつつあります。

そうであるとするならば、この世での名聞冥利が問題なのではなくて、いかに生きたか、どう生きたかにこそ、魂としての価値が有ることになります。
肉体に宿る魂は不滅なのです。

小園司令について、戦後は賛否両論、というより否定論の方が強かったし、昨今では、小園司令の名さえも、消された歴史になろうとしています。
けれど私は、小園安名という司令がこの日本にいて、国土防衛の柱として、見事その人生を捧げられたことに、最大の敬意と感謝を捧げたいと思うし、日本人として誇りに思います。

もちろん先日の「終戦の詔勅」の記事でご紹介しましたように、陛下のご決断と、そこに至る経緯は最も大切なことです。
その意味では、小園司令の行動は、必ずしも褒めた話ではないと思われる方もおいでのことと思います。
けれど、褒める褒めないは、評価です。
その時代の人々にとっては、それぞれが真剣に人生を生きたのであって、それを我々後世の者が、あれこれと論評することは、傲慢というべきものです。
そうではなく、そこから何を学ぶか、こそが大切なのだと思います。

そもそも、命をかけるわけでもない、当事者でもない、その時代を生きてもいない、その後の歴史の結果も承知している者が、弾も飛んでこないはるか未来から、あれこれと論評すること自体が、腰抜けのすることです。卑怯卑劣なことです。

評価ではなく、学ぶこと。
かつての日本人が大切にしていた頑固一徹。
日本男児の徹底した敢闘精神。
そこをしっかりと学ばせていただきたいと思うのです。

もちろん令和と昭和では、同じ頑固一徹や敢闘精神といっても、その表現は異なることでしょう。
現代なら、頑固一徹は、表面柔和でありながら信念を曲げないこととなるでしょうし、
敢闘精神もまた、温和でありながら、好きなことに一途に打ち込み結果を出すこととなろうかと思います。
いずれも、他人がどうみるかではありません。

※この記事は2012年8月の記事のリニューアルです。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。