8月6日は広島に原爆が投下された日です。
そして日米の戦争が終わった日でもあります。
何故「終わった」のかというと、戦争は軍服を着た軍人さん同士が行うものだからです。
一般人への殺戮は、国際法上「戦争」とは定義されません。犯罪として定義されるものです。
我が国は、挑発を受け、やむなく戦争を行いましたが、我が国は殺戮はすることもされることも好みません。
だから我が国は自主的に戦闘行為を終結させています。
戦争の対語は殺戮です。

8月 6日 広島に原爆が投下された日 8月 9日 長崎に落された日 8月15日 終戦の日 7月29日 通州事件の日

この4つの日は、日本人が絶対に忘れてはならない日です。

なかでも広島と長崎への原爆投下は、その残虐性、大量殺戮性、無辜の市民に対する暴力行為のはなはだしさとして、人類史上、最悪の出来事として記憶されるべきものです。
広島だけで20万人の市民が殺されました。
長崎では14万9000人の市民が殺されました。
ただ死んだだけでなく、原爆の熱戦を浴びて、その何倍もの多くの人が、苦しみ続けています。
大きな被害が起きた事件です。
しかもそれは、地震などの自然災害でなく、人為によって起こされた大厄災です。

そして、どうにも納得できないのは、広島と長崎に落された原爆の「種類」がそれぞれ違っていたという事実が、まるで語られていないことです。

8月6日に広島上空に投下された
 通称「リトルボーイ」は、「ウラン235型原爆」です。
8月9日に長崎に投下された
 通称「Fat Man」は、「プルトニウム型原爆」です。
二つは種類のまったく異なる爆弾です。

技術的には、ウラン型はプルトニウム型とくらべて数が作れず値段が高い。
プルトニウム型は、ウランより値段が安く量産しやすいが、放射能が強くて取り扱いが難しいという違いがあります。けれど問題なのはそういうことではありません。

この2つの爆弾の「種類が違っていた」という事実そのものに、実はたいへんに大きな意味があります。
なぜなら広島長崎に原爆が投下されたあと、米国で原爆開発のマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所は、二つの原爆投下について、次のように公式に述べているからです。

「我々は、史上二度の『原爆実験』に成功した」

「実験に成功した」です。
あの二度にわたる原爆が「実験」だというのです。
「実験」だからこそ広島と長崎には、それぞれ種類の異なる原爆が投下されたというのです。
その「実験」は、わたしたち日本人に対して行われたものです。

彼らは、人間への被害発生を承知で、この「実験」をしたということになります。
それとも彼らが実験対象にしたのは人間ではないものたちだったのでしょうか。
なぜ米国は、わざわざ種類の違う原爆で「実験」したのでしょうか。

二つの原爆投下について、
「軍国主義化し、侵略国となった
 枢軸国の日本を懲らしめるために、
 米国は原爆を落した」
という説があります。

しかし、
「日本を懲らしめるための正義の雷(いかづち)」
ということと、
「実験」という言葉には、あまりにも大きな落差があります。

35万人の命を奪う「実験」など、人道上あり得ないことだからです。

では、日本への原爆投下の本当の理由はなんだったのでしょうか。
これについて歴史学者のバーンスタインが、次のように述べています。
「日本への原爆投下は  ソ連を威嚇することが根本理由であり、  ソ連の影響力が  日本、満州、China、Koreaに及ぶことを阻止するために、  いわばソ連に対する威嚇攻撃として、  日本に原爆を投下したのである。」

バーンスタイン博士は、たいへん立派な学者ですが、これもすこしおかしな点があります。
そのような意図をもって行われた原爆投下なら、「実験」という言葉と矛盾するからです。
対ソ威嚇という目的も、結果からみれば失敗しています。
なぜなら米国による原爆投下の3日後には、ソ連は一方的に日ソ中立条約を破棄して、対日戦線に参加しているからです。

米国トルーマン大統領は、広島への原爆投下のあと、次の公式声明を出しました。
 ***
President Harry S.Truman Address to the Nation, 6 August 1945
広島への原子爆弾投下のトルーマン大統領声明
(1945年8月6日)

今から16時間前、米国の一航空機は日本陸軍の最重要基地である広島に1個の爆弾を投下した。
その爆弾は、TNT火薬2万トン以上の威力を持つものであった。
それは、戦争史上これまでに使用された爆弾の中で最も大型である英国の「グランド・スラム」の爆発力の2000倍を越えるものであった。

(原文)
Sixteen hours ago an American airplane dropped one bomb on Hiroshima, an important Japanese Army base. That bomb had more power than 20,000 tons of TNT. It had more than 2,000 times the blast power of the British "Grand Slam," which is the largest bomb ever yet used in the history of warfare.
 ***

これまたおかしな声明です。
広島を「日本の陸軍の最重要基地(=an important Japanese Army base)」と言っています。
しかし、原爆被害を受けた広島の市街地は、陸軍基地ではありません。ただの市街地です。そして広島で原爆によって亡くなられた市民は、一般人です。

戦時国際法は、一般市民の大量虐殺を「してはならない」と明確に規定しています。
すなわち、原爆投下は明らかな戦時国際法違反行為です。
米国だって馬鹿じゃありません。
広島が一般人の住むところであることくらい、承知しています。
にも関わらず、広島が「日本の陸軍の最重要基地」と公式に声明しています。
これはただの後講釈(あとこうしゃく)にもならない自己正当化声明に他ならないということです。

終戦後の昭和20年9月に日本に訪れた、米国戦略爆撃調査団が書いた「最終報告書」という資料があります。トルーマン大統領に提出された公式な報告書です。
 ***
たとえ原爆が 投下されなかったとしても、 ソ連が参戦しなかったとしても、 本土上陸作戦が行われなくても、 日本は非常に高い確率で九州上陸作戦の決行予定日である昭和20年11月1日から、12月31日までの間に、確実に降伏したであろう。
(U.S Strategic Bombing Surbey,Summary Report ( Pacific War ) ,1946、の26頁)
 ***

原爆を投下しなくても、「日本は確実に降伏したであろう」と書いてあります。
実はここに原爆投下が「実験」として行われた重大な意味が隠されているのではないか、といえます。

昭和20年6月に沖縄戦が終了しました。
この直後に、ブラッドレー米国統合参謀本部議長が提出した報告書にも、次の一文があります。
この文書は、米国大統領宛に提出されたものです。

それは、
「日本は既に事実上敗北しており、  降伏を準備している」
というものです。

つまり、昭和20年7月の時点で、日本はすでに制海権も制空権も失ない、陸軍も事実上、使える武器弾薬が乏しく、すでに戦える状態になかったことを、沖縄戦終結の時点で、米国は「知っていた」ということです。
つまり米国の軍は、あと少しすれば日本は間違いなく降伏すると考えていたのです。

日本国内には、それでも戦う、という議論はありました。
もしそうしていたなら、日本はジェット戦闘機を投下し、松ヤニから精製したガソリンを使って、米国のB29をガンガン撃ち落とし、戦争を勝利に導いた、という説もあります。

けれど、はっきりといえるのは、仮に終戦前後において、日本にある程度の戦争遂行能力があったとしても、それはあくまで本土迎撃の範囲を出ない、ということです。
すくなくともこの時点において、日本は米国本土や、フェリピンなど米国の占領地域に対して攻撃や報復を行うだけの能力を持ち合わせていません。
そのことを米国はちゃんとわかっていた、ということです。

ここで、点と線が繋がります。
つまり米国はこの時点で、
「日本に何をしても、絶対に日本から報復を受けるおそれがない」
と踏んだから、日本に対して原爆投下「実験」をしたということです。

ですから、米国が原爆投下「実験」をした最大の理由は、ただひとつです。
それは、
「その時点で日本に何をしても、
 日本からの反撃や報復攻撃を
 受ける可能性が皆無だった」
という理由です。

日本に原爆が投下された以降、世界各地で、戦争はたくさん起こりました。
けれど、いずれの戦争においても核が使われたことはありません。
なぜなら相手国に核を打ち込めば、自国がその報復を受けるからです。

ところが日本には、原爆が投下されました。
「実験」のためです。
なぜそれができたのか。
その時点で、「日本に反撃能力がなく、日本から報復される心配がまったくなかったから」です。
反撃される心配がないから、日本人は、実験材料としての「モルモット」にされたのです。

古来、モルモットは、さまざまな動物実験に用いられています。
なぜモルモットが使われるのか。
それは、モルモットが人間を襲う心配が100%ないからです。

広島の平和記念公園には、「安らかにお眠り下さい。過ちは二度と繰り返しませんから」と刻まれた石碑があります。
広島に原爆が投下され、長崎にも投下され、35万人もの犠牲者を出した日本の、では、いったい何が「過ち」だったのでしょうか。

モルモットは、過ちを犯したから実験材料に使われるのではありません。
人間の都合で実験材料にされているのです。
なぜなら、モルモットが人間に反撃する可能性が皆無だからです。

実験に使われたモルモットが、
「もう過ちは繰り返しません。わたしたちは二度と実験しません」と言ったところで、実験は終わりません。
モルモットは、人間の「都合」で実験材料に使われているだけだからです。
同様に日本は、米国の都合で実験材料にされたのです。反撃の畏れがないからです。

ひとつ大切なことを書いておかなければなりません。
実は日本は、広島、長崎に原爆が投下される前に、すでに日本では、原爆の開発を終えていたという事実です。
開発途上だったという人もいます。そうではなく完成段階にあったという説もあります。
はっきりしていることは、その原爆(これを日本では新型爆弾と呼びました)は、すでに使用できる段階にまで至っていたという事実です。

当時、軍の上層部は、この新型爆弾をもって米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に上奏しました。
これは記録に残っている史実です。
けれど昭和天皇は、この上奏を却下しました。

そのとき昭和天皇は、次のようにおおせであったそうです。
=========
その新型爆弾によって、 たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、 そのために、 相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、 結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、 私はご先祖に申し訳がたたない。
=========

陛下はそのように述べられ、原爆の製造の禁止を、現下に却下しただけでなく、その開発の中止までをも命じられたのです。

日本は、広島、長崎に原爆が投下されたとき、それが新型爆弾(原子爆弾)だとすぐにわかりました。
なぜわかったかといえば、日本でも同じ爆弾を開発していたからです。
ですから日本は、すぐに米国政府に抗議文を出しています。
その抗議文は、スイスを通じて出されました。
引用しますので、是非、ご一読いただきたいと思います。
まさに血を吐くような誠実な文章です。

~~~~~~~~~
【米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文】

今月6日、米国航空機は、広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し、瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅させました。
広島市は、何ら特殊の軍事的防衛機能や、そのための施設を施していない普通の一地方都市です。
同市全体を、ひとつの軍事目標にするような性質を持つ町ではありません。

本件爆撃に関する声明において、米国トルーマン大統領は、「われらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊した」と言っています。
しかしこの爆弾は、落下傘を付けて投下され、空中で炸裂し、極めて広い範囲への破壊的効力を及ぼすものです。

つまり、この爆弾で、この投下方法を用いるとき、攻撃の効果を右のような特定目標に限定することは、物理的に全然不可能なことは明白です。
そして本件爆弾が、どのような性能を持つものであるかは、米国側は、すでに承知しているものです。

実際の被害状況は、広範囲にわたって交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱によって無差別に殺傷されました。
その被害範囲は広く、かつ甚大であるだけでなく、個々の傷害状況を見ても、「惨虐」なるものです。

およそ交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。
不必要の苦痛を与えるような兵器、投射物その他を使用してはならないことは、戦時国際法の根本原則です。
そのことは、戦時国際法であるハーグ陸戦条約規則第22条、及び第23条(ホ)号に明定されています。

米国政府はこのたびの世界大戦勃発以来、再三にわたって、
「毒ガスその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論によって不法であり、相手国が先に使用しない限り、これを使用することはない」と声明しています。

しかし、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器よりも、はるかに凌駕するものです。

米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたって日本の大都市に対して、無差別爆撃を実施しています。
多数の老幼婦女子を殺傷しています。
神社や仏閣、学校や病院、一般の民家などを倒壊または焼失させています。

そしてさらにいま、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物とも比べ物にならない無差別性、惨虐性をもつ本件爆弾を使用したのです。
これは、人類文化に対する新たな罪悪です。

日本政府は、ここに自からの名において、かつまた、全人類、および文明の名において、米国政府を糾弾します。
そして即時、かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求します。

昭和20年8月11日

【英文】
PUBLIC INTERNATIONAL LAW - ATOMIC BOMBING OF HIROSHIMA AND NAGASAKI WAS AN ILLEGAL ACT IN VIOLATION OF INTERNATIONAL LAW.

The Japanese Government presented a letter of protest as stated below, to the Government of the United States through the Government of Switzerland on August 10, 1945.

August 10, 1945

A New-Type, Cruel Bomb Ignoring International law; Imperial Govern-ment Protest to the Government of the United States.
With regard to the attack by a new-type bomb on the city of Hiroshima by a B-29 bomber on the 6th inst. the Imperial Government filed the following protest on the 10th inst. to the Government of the United States through the Government of Switzerland, and gave instructions to the Japanese Minister to Switzerland, Kase, to make the explanation of explanation of the same effect to the Inter-national Committee of Red Cross.

Protest against the Attack of a New-Type Bomb by American Airplane:

On the 6th of this month, an airplane of the United States dropped a new-type bomb on the urban district of the city of Hiroshima, and it killed and wounded a large number of the citizens and destroyed the bulk of the city. The city of Hiroshima is an crdinary local city which is not provided with any military defensive preparations or establishments, and the whole city has not a character of a military objective. In the statement on the aerial bom-bardment in this case, the United States President “Truman” asserts that they will destroy docks, factories and transport facilities.
However, since the bomb in this case, dropped by a parachute, explodes in the air and extends the destructive effect to quite a wide sphere, it is clear to be quite impossible in technique to limit the effect of attack thereby to such specific objectives as mentioned above; and the above efficiency of the bomb in this case is already known to the United States. In the light of the actual state of damage, the damaged district covers a wide area, and those who were in the district were all killed indiscriminately by bomb-shell blast and radiant heat without dis-tinction of combatant or non-combatant or of age or sex. The damaged sphere is general and immense, and judging from the most cruel one that ever existed. It is a fundamental principle of international law in time of war that a belligerent has not an unlimited right in chosing the means of injuring the enemy, and should not use such weapons, projectiles, and other material as cause unnecessary pain; and these are each expressly stipulated in the annex of the Convention respecting the Laws and Customs of War on Land and artices 22 and 23(e) of the Regulations respecting the Laws and Customs of War on Land. Since the beginning of the present World War, the Government of the United States has declared repeatedly that the use of poison or other inhumane methods of warfare has been regarded as illegal by the pubic opin-ion in civilized countries, and that the United States would not use these methods of warfare unless the other countries used these first. However, the bomb in this case, which the United States used this time, exceeds by far the indiscriminate and cruel character of efficiency, the poison and other weapons the use of which has been prohibited hitherto because of such an efficiency. Disregarding a fundamental principle of international law and humanity, the United States has already made indiscriminate aerial bombardments on cities of the Empire in very wide areas, and it has already killed and injured a large number of old people, children, and women and collapsed or burned down shrines, temples, schools, hospital and ordinary private houses. Also, the United States has used the new bomb in this case which has indiscriminate and cruel character beyond comparison with all weapons and projectile of the past. This is a new offence against the civilization of mankind. The Imperial Government impeaches the Government of the United States in its own name and the name of all mankind and of civilization, and demands strongly that the Government of the United States give up the use of such an inhumane weapon instantly.

Note: Japan Branch of the International Law Association, Japanese Annual of International Law, 8, pp.251-2. (Tokyo: 1964)
~~~~~~~~~~~~~~~

日本国政府は、この抗議文で、原爆を「非人道的兵器」と呼び、その使用を米国政府に「放棄せよ」とまで言っています。
科学技術としての開発はともかく、それを兵器として使用することは、人道上許されないと明確に述べています。
これが日本の姿勢です。

原爆を投下によって無差別大量殺人をしていながら、大統領声明で「広島は軍事基地だ」と強弁した米国政府、それが自国の原爆開発をむしろ積極的に放棄した日本国政府と、理はどちらにあるのでしょうか。

亡くなられた広島や長崎の一般市民が「過ち」をおかしたわけではないことは、疑いのない事実です。
では、日本という国家が、過ちを犯したのでしょうか。何が日本の「過ち」だったのでしょうか。
戦争をしたことでしょうか。

その戦争によって、東南アジアはもとより、世界中の植民地となっていた民族が、国家を築き、独立を勝ち得ています。
もし大東亜戦争がなかったら、500年続いた欧米列強による有色人種への植民地支配は、21世紀となった今日でも、なお続いていたことでしょう。
世界でただ一国、たったひとりになっても、正義のためには武器を持って戦う。その武士道の国が、世界の有色民族を、独立へと導いています。
そしてその日本は、戦争の末期、敗色が濃くなった厳しい状況下にあっても、なお、自ら開発した原爆を製造中止にし、その使用をやめています。

一方、同時期に原爆の開発をしていた米国は、報復のおそれのない日本に対し、「実験」と称して広島長崎に原爆を投下しました。
人類史上、「過ち」を犯したのは、果たして誰なのでしょうか。

日本はなぜ実験に使われたのか。
その答えは、「日本に報復能力がなかったから」です。
私たちは、そこから大切なことを学ぶ必要があると思います。

正義には常に「報復能力」が必要だ、ということです。
「報復能力」がなければ、人の命も道徳も正義も、すべて踏みにじられてしまうのです。
それが世界の現実だということです。

もうひとつたいせつなことは、昭和天皇が、世界が核競争になることを未然に防ぐため、技術レベルでは原爆を開発することができ、それを米国に撃ち込むことさえできたにもかかわらず、それを人類のためにと、却下されたということです。

このことは、終戦の詔勅にも明確に述べられています。
========
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ

(口語訳)
敵国は新たに残虐なる爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
========

世界中、どこの国でも、すべてに優先するのが国益です。どの国も、自国の利益のためだけに思考し行動します。
けれど、昭和天皇は、「人類文明そのもの」と述べられています。人類史上、人類の福祉と幸福のために、身を切る覚悟とその実行をしてきたのは、昭和天皇のご意思です。
私たち日本人はそういう国の民です。

しかしだからといって、どこかの国のように、いつまでも恨みを忘れないなどというのは論外です。
なぜなら歴史は、良いとか悪いとかの批判するものではないからです。
善悪で思考停止してはいけないのです。

実際に起きた事実は事実です。
そのことをきちんと知った上で、二度と同じことが起こらないように努力をしていくことが、人の道です。

相手は変わらないのです。
文句を言おうが、恨もうが、国も個人も、相手は相手の人生を生きているのですし、相手には相手の都合があるのです。
昨今の日中韓の問題も同じです。
チャイナやコリアが何を言おうが、彼らが変わることは金輪際、ありません。

なぜなら「正しいこと」についての根本概念が異なるからです。
日本人にとって「正しいこと」は、公(おほやけ)、つまり多くの人々にとっての幸せです。
そのために自分の持っているすべてを用いて人々に尽くすし、人に迷惑をかけない。
それが日本人にとって「正しいこと」です。

けれど彼らにとって「正しいこと」は、自分が上に立ち、自分の利益をあげ、自分がいま、贅沢な暮らしをすることです。
いまふうに言うなら、それは「いまだけ、カネだけ、自分だけ」です。
近年では日本人もこれを真似するようになってきたといわれていますが、もともとそのような文化がないところに、形だけ真似をしても、その分野で何千年もの歴史を持つ彼らに敵うはずもないのです。

日本は戦争をしました。
日清戦争においても、日露戦争においても、第一次大戦、第二次大戦においても、軍人同士が衝突する、国際法上も適法な戦争をしました。
けれど日本以外の諸国は、最初のうちは戦争をしていたものの、途中からは武器を手にした軍人によって、武器を持たない民間人を殺戮する虐殺に変化しています。

先の大戦でいうならば、昭和19年秋から日本本土への空襲が行われるようになりましたが、これにより戦争は、戦争ではなくなりました。
それでも日本は、日本を護ろうと軍人による戦争を継続しましたが、昭和20年8月の原爆投下により、日本は自主的に戦争を終わらせています。

このことを「日本が戦争に敗れた」という方がいますが、違います。
日本は、戦争はしたけれど、虐殺に加担はしなかったのです。
これが、誇りある日本の姿勢というものです。

負け惜しみに聞こえるかもしれません。

けれど、似たことが、初代神武天皇の時代にもあったのです。

神武天皇が畿内に入られたとき、そこでいきなり襲撃を受けます。
神武天皇はやむなく撤退し、このとき「これは神々のご意思なのだ、あらためて天神地祇をお祀りして、また来よう」と述べています。
これもまた近年の一部の研究者が「負け惜しみだ」などと述べたりしていますが、違います。
どんなに辛い選択であったとしても、それが神々のご意思であるなら、それに従う。
それが日本人の生き方であることが述べられている、これは重要な箇所なのです。

どういうことかというと、神武天皇はこのとき、紀伊半島をめぐって、生尾人と呼ばれる食べ物を奪われてガリガリにやせ細った多くの人々に食べ物を与え、栄養を回復させて味方としています。
このときに与えた食べ物は、瀬戸内で神武天皇たちの稲作指導によってもたらされた備蓄食料です。
そしてその後の戦いにおいても、この備蓄食料の供給が奏功し、この成功体験から神武天皇は橿原に御屋倉(みやこ)を築いて、全国から少しづつ米を集めて、これを被災地に供給するという事業を始められるのです。

いまから2680年前のこの出来事によって、その後の日本は幾度もたいへんな大災害に襲われるけれど、とにもかくにも災害時に生き残りさえすれば、あとの食料は必ず国やお上が面倒を見てくれる、そういう社会体制が出来上がります。
そして、こうして生まれた米の備蓄と被災地救済によって、いまを生きている私たちの命があります。

終戦後の日本は、米国の属国のようになり、多くの人々が「アメリカかっこいい!」という文化意識を共有してきました。
けれど、現代のアメリカは、不正がまかりとおる最高にかっこ悪い国になってしまっているし、日本もまた「このままではいけない」と、日本の自立を望む人が増えてきているといえます。

原爆についても、近隣国が原爆を持つなら、日本もまた原爆を持たなければならないのではと考える人もいました。
けれど多くの日本人は、広島長崎の悲惨の経験から、日本が核武装することに猛烈な拒否意識を持っているといわれています。
そんな意見の違いのせめぎあいが戦後ずっと続いていたのですが、その原爆も、B-29に積んで空から落とすという時代は、すでに昔語りとなり、いまでは無線誘導式ミサイルで攻撃をする仕様に代わってきています。

ところが昨今の日本の技術は、その誘導電波を乗っ取り、原爆が発射されたら、その原爆がUターンして、発射したところに落ちる。
そんな技術が開発されています。

似たようなものとして、コンピューターウイルスの問題がありますが、このウイルスも、他人のコンピューターにウイルスを送り付けたら、送り付けた人のコンピューターが破壊されるという「しっぺ返しアプリ」が開発されています。

なぜ日本においてそのような技術が開発されるかといえば、日本に、民間人の命を奪うような戦いは、絶対にごめんこうむりたいという明確な意識があるからです。
これが日本的文化意識です。

いかなる国の民であれ、一般の民間人が大量に殺戮されるようなことは、これからの人類史において、絶対にあってはならないことです。
そのために必要なことは、日本は堂々とかつ粛々と進めていくべきです。
それが人類史上、唯一の被爆国となった日本の行うべき道です。

広島でも長崎でも、亡くなられた方々の御霊は、自分たちが殺されたから復讐してほしいなどと、おそらく誰も望まない。ことでしょう。
むしろ、
「二度と俺たちと同じ目に
 遭わないようにしてくれよ。
 そのために思考停止などにならず、
 必要な努力をしてくれよ」
と望んでおいでなのではないでしょうか。

今日は、午前8時15分に黙祷を捧げさせていただきます。

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