昭和二十年(1945)九月二十七日のことです。昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。
「ついに天皇をつかまえるときが来た!」
事前に連絡を受けていたマッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
この時点で陛下をどのようにするのかGHQの中でも議論が交わされていました。
 方針は大きく分けて三つありました。
一、東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
二、日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
三、Chinaに亡命させて秘密裏に殺害する。

いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。
ですからマッカーサーは陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
このため彼は傲慢不遜にマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。

このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。
当時の米国はトウモロコシが主たる産物でした。
これが小麦にとってかわるのは、日本占領後日本の農林十号と呼ばれる小麦が米国に渡ってからのことです。
ですから当時トウモロコシでできたマドロスパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴だったのです。
パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、マドロスパイプのような柄の長いパイプは長時間咥(くわ)えていれません。口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
ですからマッカーサーがマドロスパイプを咥えるということは、米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。

椅子に座って背もたれに体を預けて足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。
そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。
そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このように仰せられました。

「日本国天皇はこの私であります。
 戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
 私の命においてすべてが行なわれました限り、
 日本にはただ一人の戦犯もおりません。
 絞首刑はもちろんのこと、
 いかなる極刑に処されても、
 いつでも応ずるだけの覚悟があります。」

弱ったのは通訳です。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。
「しかしながら
 罪なき八千万の国民が
 住むに家なく、
 着るに衣なく
 食べるに食なき姿において、
 まさに深憂に耐えんものがあります。
 温かき閣下のご配慮を持ちまして、
 国民たちの衣食住の点のみに
 ご高配を賜りますように。」

マッカーサーは驚きました。
世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。
ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。

マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
続いて椅子から立ち上がりました。
そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。さらに部下に、
「陛下は興奮しておいでのようだから、
 おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ちました。
そこで直立不動の姿勢をとりました。
「天皇とはこのようなものでありましたか!
 天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は、二度、この言葉を繰り返しました。そして、

「私も、日本人に生まれたかったです。
 陛下、ご不自由でございましょう。
 私に出来ますことがあれば、
 何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

陛下も、立ち上がられました。そして涙をポロポロと流しながら、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。
 この私に何の望みがありましょうか。
 重ねて国民の衣食住の点のみに
 ご高配を賜りますように」と申されたのです。

こののちマッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
そしてあわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を百八十度変更するあらたな命令を下しています。
このことがあったあとマッカーサーは、次のように発言しています。
「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた。」

「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。
 旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
 ヒロヒトが四十歳を過ぎた猫背の小男ということを
 日本人に知らしめてやる必要がある。
 神さまじゃなくて人間だということをね。
 それが生きた民主主義の教育というものだよ」

 昭和二十一年二月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、そんな会話が交わされていたそうです。
ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約八年半かけて回られました。
行程は三万三千キロ、総日数百六十五日です。 各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことさえありませんでした。

英国の新聞は次のように驚きを述べました。
「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、
 天皇の声望はほとんど衰えていない。
 各地の巡幸で群衆は天皇に対し
 超人的な存在に対するように敬礼した。
 何もかも破壊された日本の社会では
 天皇が唯一の安定点をなしている。」

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか一ヶ月で廃位に追い込まれています。
これに対し日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていたのです。

以下のことは、先日の日本史検定講座で高森明勅先生に教えていただいたことですが、フランスに世界を代表する歴史学者のマルク・ブロックという人がいます。
そのマルク・ブロックが、ヨーロッパの歴史を書いた『封建社会』(みすず書房刊)という本があるのですが、その本の中で彼は次のように述べています。

「西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違って
 ゲルマン民族の大移動以降、
 内部で争うことはあっても、
 よそから制圧されて文化や社会が
 断絶するようなことがなかった。
 それによって内部の順調な発展があった。
 我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも
 共有することのないこの異例の特権を、
 言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の
 基本的な要素のひとつだったと
 考えても決して不当ではない。」

西ヨーロッパは歴史が断絶しなかったからこそ、中世の文化を継承し世界を征服するだけの国力をつけて十八世紀後半以降の市民革命を実現し、近代化を実現することができた。
そのことを「我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない異例の特権」とマルク・ブロックは書いているのです。
ここに書かれたゲルマン民族の大移動は、四世紀から五世紀にかけて起きた事件です。
そしてこの大移動をもって西ヨーロッパの古代の歴史は断絶し、まったく別な中世へと向かうわけです。

日本の四世紀から五世紀といえば大和朝廷の発展期です。
大和朝廷は弥生時代に倭国を築いた朝廷がそのまま大和地方に本拠を移したものに他なりません。
弥生時代は縄文時代の延長線上にあります。
弥生人は決して渡来人などではなく、縄文時代からずっと日本に住み続けた同じ日本人です。
そしてその弥生時代がまさに卑弥呼の登場する時代です。
その倭国が東上しながら古墳時代をつくり、そして奈良県の大和盆地に都を構えたのが大和時代です。

その大和朝廷は、第三回の遣隋使で
「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」
と書いた国書を持参しました。
これが日本が対外的に「天皇」を名乗った最初の出来事です。
西暦六〇八年の出来事です。

この大和朝廷が「日本」を名乗ったのが六八九年です。
つまり天皇の存在は日本という国号よりも「古い」のです。
そして万世一系、昭和天皇は第百二十四代の天皇です。
ご在位は歴代天皇の中で最長です。昭和の時代は世界恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが昭和天皇です。

その昭和天皇の辞世の御製です。

 やすらけき世を 祈りしも いまだならず  くやしくもあるか きざしみゆれど

この御製は昭和六十三年八月十五日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、
 それはいまだなっていない。
 そのことが悔しい。
 きざしはみえているけれど、
 そこに手が届かない」
という意味と拝します。

昭和天皇は崩御される直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。
どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思いに、わたしたちは日本国民として、ちゃんと答えているのでしょうか。

※この記事は2011年3月から毎年ねずブロに掲載している記事です。

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