伊五十八潜水艦のことを書いておこうと思います。
原爆を日本に運んだ米国の重巡洋艦インダナポリスを撃沈した潜水艦です。
伊号第五十八潜水艦は、昭和一九年九月に乙型二九隻の最終艦として竣工された潜水艦です。
最新鋭のレーダー装備を完備し(レーダーは米軍だけの専売特許ではありません。そもそもレーダーの開発者は日本人の八木秀次博士です)、人間魚雷回天を搭載した新鋭艦です。
ちなみに回天は、昭和二十年八月十五日の終戦の日、米政府から日本政府に対して、「回天特攻中止」を特別に申し入れています。それだけ回天による米軍の被害が甚大だったのです。
昭和二十年七月十八日のことです。
「回天多聞隊」六基を搭載し、山口県の平生基地を出撃した伊五十八潜水艦は、出撃十日目に、レーダーで敵、大型タンカーと駆逐艦を発見し、回天二基を発進させました。
そして駆逐艦だけを撃沈しています。
次いで伊五十八潜は、東カロリン諸島に向かいました。
艦内はまるで蒸し風呂でした。
七月二九日午後十一時、月の昇る時刻に合わせて、潜望鏡深度に浮上した伊五十八潜は、月明かりで洋上を視察しました。
続いてレーダーで上空の敵機を探りました。
反応なしです。
「浮上する、メインタンク・ブロ~」
橋本以行(はしもともちつら)艦長の令に静かに浮上した艦橋に、航海長、信号長、見張員が駆けのぼり、素早く九七式口径十二センチの双眼望で、洋上を探りました。
当時のレーダーは、捕捉距離が一万二千メートル、つまり十二キロメートルです。
けれど、十二キロというのは、洋上では、間近な距離でしかありません。
これが何を意味するかというと、視界があれば目視の方が、遠くまで見渡せたということです。
私などは学生時代に教師から、
「米軍はレーダーを多用したのに、日本軍はレーダーがあっても目視に頼っていた。馬鹿な軍隊だった」と教わりましたが、これは当時の技術力の限界を無視した暴論というべきものです。
「左前方に何か発見!」
見張り員が叫びました。
航海長もそっちの方角を探りました。
月明りの水平線上に、点のような艦影が一つありました。
橋本艦長は、直ちに「潜航」を命じました。
潜行しながらも橋本艦長は黒点をしっかりとらえていました。
黒点は次第にハッキリしてきて艦影を現しました。
敵艦です。
薄暗い月明りの中で、なんと一万二千メートル以上の距離で、敵のレーダーより先に敵艦を発見し捕捉したのです。
どれだけ日本の見張員が優秀だったかということです。
艦影から、米国の重巡洋艦であることがわかりました。
艦長が静かに命じました。
「魚雷戦用意」
続いて「回天用意」の号令もかかりました。
敵艦はまだ、まったく気づいていません。
対潜警戒のジグザグ航行もしていません。
こっちに真っ直ぐ進んできます。
周りに護衛艦もいない。
そのうち艦橋が確認できる距離にまで近づきました。
この暗さです。
潜望鏡しかない回天では命中は厳しい。
橋本艦長は、この時点で、通常魚雷による攻撃を決断しました。
距離、約四千メートル。
敵は、進路を少し変えました。
これなら敵艦に真上を突っ切られる恐れはありません。
むしろ好射点です。
艦長は潜望鏡で標準を合わせながら命じました。
「魚雷発射管六、発射始め」
それぞれの乗組員は、敵艦の速度、方位、距離を測定し、諸元を調整しました。
距離千五百メートルになりました。
射程圏内です。
「魚雷発射よーい。
てっ~!!」
艦長の号令のもと、六本の魚雷が二秒間隔で発射されました。
魚雷は扇型に開きながら敵艦めがけて進みました。
静寂が続きました。
そして潜望鏡を覗く橋本艦長の声が響きました。
「命中!」
一発目は一番砲塔の真下に命中。
二発目は二番砲塔に命中。
三発目は艦橋付近に命中。
光景を第二潜望鏡(夜間航海用)で視認した艦長は、他の乗員にも潜望鏡を覗かせて確認しました。
しばらくすると、三発の衝撃波が届きました。
次に発射する魚雷装填のために、伊五八は、ふたたび潜航しました。
装填を終えて、潜望鏡深度に浮上しました。
敵艦の姿は既に洋上にありませんでした。
この間、わずか十二分のできごとでした。
橋本艦長は、艦隊司令部に打電を命じました。
「ワレ伊五八潜、
ヤップ島北西方
北緯十二度二分東経百三十四度四十八分ニオイテ、
アイダホ型戦艦ヲ撃沈ス」
伊号潜水艦が撃沈したのは、米国の重巡洋艦インディアナポリスでした。
そしてこの艦は、日本に投下された二発の原爆を米国から運んだ艦でした。
大東亜戦争で、日本が撃沈した米軍艦船は、三百五十隻以上にのぼります。
その戦績は、驚異的強さを誇った初戦の時期だけでなく、ミッドウエーで敗れ、海軍力を大幅に低下させ、制海権すらなくなった中ですら、継続して戦績を挙げています。
そして、米軍の攻撃対象がもっぱら日本の輸送船だったのに対し、日本の艦船の攻撃対象は、必ず、軍船に向けられていました。
日本は、敗色濃くなった戦場ですら、国際法規を遵守して戦っていたのです。
戦後生まれのわたしたちは、旧日本軍は非科学的で非人道的であったように教えられてきました。
米国の勝利は正義と民主主義の勝利であったように語られてきました。
そして日本側の激戦に関する報告や体験談はほとんど語られず、生き抜いた元軍人たちの証言は、反日的、反国家的な偏向を持つ者のものだけが紹介され、真剣に国のために命を捧げようとした人々の話は、まるでスルーされてきました。
パラオのアンガウル島で激戦を息抜き、戦後渋谷で書店を経営された舩坂弘さんが書いた本に、次の記述があります。
「われわれとともに戦い散っていった戦友たちを思うとき、
私はこの師団に所属したことを誇りに思わないわけにはゆかない。
戦後、軍隊に対する一方的な批判や、
あたかも太平洋戦争の犠牲者を犬死となすような論がしきりになされた。
だが、それらはいずれも軍隊において
落伍者であった者のするインテリ兵の時流に乗った発言であって、
当時の私たち青年は純真素朴に
『故国のために死す』ことを本望として
敵軍に突入していったのである。」
落伍者であったインテリ兵の「時流に乗った発言」は、戦後のGHQによる宣撫工作や、まともな人の公職追放などを受け、「単なる非常識」の「腰ぬけチキン」の発言が、普通ならあり得ない市民権を得たのです。
それが戦後の日本でした。
そのため、たとえば特攻にしても、「保守」を自称している方々ですら、
「初期の頃の特攻は効果があったけれど、
後期はほとんど撃墜されて効果がなかった」
と信じている人がいたりもします。
しかし米国公文書館が時限切れで公開したウォーダイヤリー(戦闘記録)によると、特攻攻撃によって、なんと六割近くの艦船が突入被害を受けていると書かれています。
当時の米軍は、艦に被害を受けても、その場で沈まない限り「大破」と発表しています。
けれど、米軍のウォーダイヤリーによると、「大破」と発表された艦のほとんどすべてが、結果として沈没、または使用不能艦となっていることが確認されています。
ウソも隠しもない、これが事実です。
日本は、米国が原爆を完成させるより前に、原爆を完成させていました。
名前を「新型爆弾」といいました。
新型爆弾は、すでに使用できる段階まで開発が進んでいました。
軍の上層部は、この新型爆弾をもって、米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に上奏しました。
記録に残っている史実です。
そのとき陛下は、次のようにおおせられました。
「その新型爆弾によって、たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、そのために、相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、朕はご先祖に申し訳がたたない。」
陛下はそのように述べられ、原爆の製造の禁止を、その場で取り決められています。
ですから陛下も日本国政府も、原爆が投下されたとき、それが新型爆弾(原子爆弾)だとすぐにわかりました。
ですからスイスを通じて、米国政府に以下の抗議文を出しています。
*
【米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文】
今月六日、米国航空機は、広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し、瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅させました。
広島市は、何ら特殊の軍事的防衛機能や、そのための施設を施していない普通の一地方都市です。
同市全体を、ひとつの軍事目標にするような性質を持つ町ではありません。
本件爆撃に関する声明において、米国トルーマン大統領は、
「われらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊した」と言っています。
しかしこの爆弾は、落下傘を付けて投下され、空中で炸裂し、極めて広い範囲への破壊的効力を及ぼすものです。
つまり、この爆弾で、この投下方法を用いるとき、攻撃の効果を右のような特定目標に限定することは、物理的に全然不可能なことは明白です。
そして本件爆弾が、どのような性能を持つものであるかは、米国側は、すでに承知しているものです。
実際の被害状況は、広範囲にわたって交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱によって無差別に殺傷されました。
その被害範囲は広く、かつ甚大であるだけでなく、個々の傷害状況を見ても、「惨虐」なるものです。
およそ交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。
不必要の苦痛を与えるような兵器、投射物その他を使用してはならないことは、戦時国際法の根本原則です。
そのことは、戦時国際法であるハーグ陸戦条約規則第二十二条、及び第二十三条(ホ)号に明定されています。
米国政府はこのたびの世界大戦勃発以来、再三にわたって、
「毒ガスその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論によって不法であり、相手国が先に使用しない限り、これを使用することはない」と声明しています。
しかし、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器よりも、はるかに凌駕するものです。
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたって日本の大都市に対して、無差別爆撃を実施しています。
多数の老幼婦女子を殺傷しています。
神社や仏閣、学校や病院、一般の民家などを倒壊または焼失させています。
そしてさらにいま、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物とも比べ物にならない無差別性、惨虐性をもつ本件爆弾を使用したのです。
これは、人類文化に対する新たな罪悪です。
日本政府は、ここに自からの名において、かつまた、全人類、および文明の名において、米国政府を糾弾します。そして即時、かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求します。
昭和二十年八月十一日
*
抗議文にあるように、「交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。」
では、戦時国際法を無視した害敵手段を行った場合は、どうなるのでしょうか。
戦争には、戦時国際法というルールがあります。
そのルールを無視したら、プロレスでいったら場外乱闘です。
実際の戦争では、それはすでに戦争の範疇を超えた、ただの国家規模の虐殺になります。
ルールがあるのが戦争です。
ルールを無視した虐殺行為は、戦争ではなく、犯罪行為です。
伊五十八潜水艦は、昭和20年11月に佐世保に回航、翌昭和21年4月1日、五島列島沖で米軍の実艦標的として海没処分になりました。
戦闘は終わりました。
けれど戦争は、実はまだ続いています。
戦争の終わりにはプロセスがあります。
それは以下の順に行われます。
1 戦闘行為の集結
2 停戦協定調印
3 平和条約締結
4 占領軍の撤収
日本は、昭和20年8月15日に戦闘行為を終わらせ、同年9月2日に停戦協定に調印をしました。
そして昭和26年にサンフランシスコ平和条約に調印し、翌昭和27年4月28日に、同条約発効によって主権を回復し独立国家への道を歩み始めました。
けれど、同日付で日米行政協定が発効し、日本にはそのまま在日米軍基地が置かれることになって現在に至っています。
他国の軍事基地が自国の領域内に置かれているということは、事実上の占領状態にあることを意味します。
その意味で、日本は法形式上は平和条約発効によって独立国となっていますが、実態上は未だ占領下にあるといえます。
かつて東ドイツには、旧ソ連軍が駐留していましたが、ドイツ経済が崩壊し、東ドイツが平成2年に西ドイツに併合されると、その半年後の翌平成3年3月からソ連軍の撤収を進め、その年の12月に旧ソ連が崩壊しました。
そしていま、日本の真の独立の日が、だんだんと近づいています。
※この記事は2022年8月のねずブロ記事のリニューアルです。
戦争にはルールがる。女性、子供がたくさん住んでいる都市にその残虐性がわかっていて、原爆を落とししたのは戦争行為ではなく、虐殺行為である。平和を目指すことは大切ですが、広島への原爆投下は虐殺行為であったことを、はっきりと発信する事が大切である。こんなことを武田邦彦先生がおっしゃっていました。その通りだと思います。