はじめにニュースです。
ねずブロの朗読動画が始まりました。
第一回は「ひふみのお話」です。
以後、毎週土曜日午前10時公開予定です。
皆様の応援をよろしくお願いします。

「ひふみ」のお話し - YouTube

🇯🇵『ねずさんの学ぼう日本』2022/01/17 「ひふみ」のお話し よりhttps://nezu3344.com/blog-entry-5123.html大切なことは、もとからある日本文化を取り戻し、日本人とし…

お時間のある方は、下の動画を御覧いただきたいのですが、この動画の中で、いまは亡き加瀬先生が、
「日本は昭和20年8月15日に戦いの矛をおさめたが、日本が東京裁判によって東亜諸国を侵略したとして裁かれていた、まさにそのときに、東亜の諸国は再び植民地支配しようと戻ってきた(東京裁判で日本を侵略国として裁いていた)諸国と、東亜の諸国は果敢に戦っていた。大東亜の戦いは終戦の日以降も続いていたのだ。」
との指摘をなさっておいでになります。

終戦記念日特別番組第二弾!! 日本はいかに『理想の人種平等の世界』を作ったのか?! 加瀬英明 中村功 - YouTube

終戦記念日特別番組第二弾!!日本の八月を明るく!! 史実を学ぼう!!~日本はいかに『理想の人種平等の世界』を作ったのか?! ~アジア諸国の植民地支配からの独立と日本の関係…

先の大戦について、大東亜戦争という日本政府が閣議で決定していた呼称を禁じ、太平洋戦争(The Pacific War)と呼ぶことを強制したのはGHQ(General Headquarters)です。
なるほど米国では「The War in the Pacific」と呼ばれています。
けれど先の大戦で日本が戦っていた場所は、太平洋だけではありません。
日本は東亜諸国の植民地を開放するため、東アジア全域を戦場として戦っていたのです。
ですから同じく戦争当事国のひとつとして日本と戦った英国は、先の大戦を「極東戦争」と呼んでいます。

英国の歴史家であるクリストファー・ソーン(Christopher Thorne)やA・J・P.・テーラー(Alan John P. Taylor)たちは、
「先の大戦は、
 日米間で使用されている『太平洋戦争』では、
 戦争の地理的・地政学的側面の性格づけが、
 とくにその広範囲にわたる影響に関しては
 ほとんどなされていない。
 日本はアジアにおける
 英国の勢力を駆逐するために
 戦争を始めたのであり、
 結果として英国は植民地を失い
 敗北したのだから、
 極東戦争、
 あるいは日本が用いている
 大東亜戦争と称することが適切である」
と指摘しています。

また日本においても、国際政治学者の柳沢英二郎氏や、加藤正男氏などは、
「日米戦争は西太平洋の覇権をめぐる闘いとしての戦争であり、
 日本にとっては東南アジアにおける
 勢力圏確立のための手段であったのだから、
 『アジア・太平洋戦争』と呼ぶべきである」
と指摘しています。

そもそも戦争というのは、単一の目的によって行なわれるものではありません。
さまざまな事象が折り重なって、外交上の最後の手段として行われるものです。
このことは、現在眼の前にある台湾有事を考える上においても同じで、なにかひとつの理由や目的でドンパチが始まるというものではありません。
歴史に学ぶということは、そういうことをしっかりと考える力を養うということです。

先の大戦の開戦当時の日本は、有色人種として唯一と言って良い独立国家であり(タイも独立を保っていたとはいえ、ほぼ完全に英国の指揮下にありましたから、すでに完全な独立国とは言い難い)、かつ国際政治上、きわめて大きな勢力を持つ国でした。

そんな日本が欧米諸国から追い詰められるようになった原因のひとつが第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議(1919年・大正8年)で、このとき日本が国際連盟憲章に
「人種の平等を入れるべし」
との案を正式に国際舞台に出したことです。

これは人道的には正しい主張です。
唯一の有色人種国である日本としては当然の主張であったともいえます。
しかしこの主張は、植民地支配によって富を得ていて政治的な影響力が大きい欧米諸国の経済人すべてを敵に回すことになりました。
それまで世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係を結んでいた日本は、これによって欧米諸国(の大金持ちたち)にとっての明確な「敵」となりました。

一方で有色の諸民族からは、日本は期待の星となりました。
それは期待の星というより、日本の国旗は太陽ですから、期待の太陽ともいえるほど強い期待でした。

これも上の動画のなかで加瀬先生が述べられていますが、昭和5年(1930年)当時、独立を守ろうとしていたエチオピアの王子が、日本の華族出身の黒田雅子さんと婚約に至ったことがありました。
それほどまでに、日本に対する期待は高いものであったのです。

当時大評判になったこの婚約は、残念なことに欧米諸国の猛烈な反対によって破談になりました。
なかでもイタリアのムッソリーニは、強硬に反対を唱えていたのですが、なんとそのムッソリーニは、破談の5年後の1935年(昭和10年)にエチオビアに侵攻しています。
このときムッソリーニは、国際条約で使ってはいけないとされている毒ガスを用いてエチオピア軍を壊滅させました。
こうしてエチオピアは、イタリアの植民地になりました。

こうして欧米列強による理不尽が次々と行われる中、日本は大東亜共栄圏構想を打ち上げ、東亜諸国の独立と発展を標榜しました。
500年続いた植民地支配を守ろうとする欧米諸国。
植民地の解放して人種の平等を目指す日本。
両者の溝は深まりました。

一方で、日本が統治や統治協力をした台湾、半島、満州、チャイナは、荒れ果てた土地がいつのまにか広大な農地に変わり、街は整備され、人々の生活は豊かになり、教育もちゃんと行われるようになって行きました。
つまり、欧米諸国にとって、植民地として支配する魅力が増して行きました。

昭和14年にナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、またたくまにフランスは制圧され、英国本土も空襲を受けるようになりました。
英仏ともに、ドイツを打ち破るには、どうしても米国に参戦して貰う必要がありました。
けれど当時の米国大統領であったルーズベルトは「絶対に米国民を戦争に巻き込まない」ことを公約として三度目の大統領選を戦い勝利した大統領です。
そのままでは米国がヨーロッパ戦線に参戦することはありえない。

そこで国際政治上で日本を追い詰め、日本に米国への攻撃と開戦をさせる。
米国は日本と戦争になると、日本と同盟関係にあったドイツとも戦争当事国の関係になります。
つまり米国は、ヨーロッパ戦線に参戦することになる。
形勢不利な英国チャーチルにとって、日米を開戦させることは、どうしても不可欠の政治的要素となったのです。

そして昭和16年、ついに戦争になる。

戦争は、日本国中が焼け野原になって、昭和20年8月15日に日本は自主的に戦闘を終結させました。
けれど、それで大東亜の戦いが終わったわけではありません。
東亜諸国は、日本が敗れたあと、再び自国を植民地支配しようと戻ってきた欧米諸国と果敢に戦い、ついにそれぞれの国が独立を手にしています。

並べてみると以下のとおりです。

昭和20年年8月17日 インド、パキスタン、インドネシアの独立記念日
昭和20年9月2日   ベトナムの独立
昭和21年7月4日   フィリピン独立記念日
昭和23年1月4日   ビルマの独立記念日
昭和23年2月4日   スリランカの独立記念日
昭和23年8月15日  韓国の独立記念日
昭和23年9月9日   北朝鮮の独立記念日
昭和24年12月7日  台湾の独立記念日
昭和28年11月9日  カンボジアの独立記念日
昭和29年7月19日  ラオスの独立記念日
昭和29年10月1日  中共の独立記念日
昭和38年9月16日  マレーシアの独立記念日
昭和40年8月9日   シンガポールの独立記念日
昭和46年3月26日  バングラディッシュの独立記念日

これら諸国は、日本の終戦以後、再び舞い戻ってきた欧米諸国とそれぞれ独立記念日以後も果敢に戦い、勝利し、そしてようやく独立を果たしました。

たとえばインドネシアでは、独立宣言は日本が戦いを終了した翌々日です。
しかしオランダはこれを認めず、インドネシアを再植民地化しようとして英国の協力を得て軍事侵攻しています。
この戦いは、昭和24年(1949年)12月のオランダ-インドネシア円卓会議によるオランダからの無条件での独立承認の日まで、まる4年間も続きました。

この戦いで、インドネシアに残留した日本軍人3千人のうち、およそ千人が命を失ないました。
ちなみにこのときインドネシアにいた華僑は、オランダ側に加担してインドネシア人に銃を向けています。

ただし、国家というものは軍事的な戦いによって独立を勝ち得たとしても、それだけで国ができあがるわけではありません。
国家が国家として成立するためには、国を営むための行政機構の整備や法整備、経済的繁栄を支えるための経済、財政政策などが必要です。
これはたとえていえば、生まれたての赤ちゃんに、母親がいないと子が生き残れないのと同じです。

ひとあし早く戦争を終結させていた日本は、まさに東亜諸国の母となって、各国の支援を行い、それぞれの国の法整備、行政機構の整備、企業誘致、観光資源開発などに、莫大な援助を行ないました。
そしてその行動は、まさに母と同じく、無償の、ただ一方的な愛情によるものでした。

東亜諸国のこうした独立への動きは、そのままアフリカの黒人諸国や、中東諸国にも伝播していきました。
1900年のパリ・オリンピックの参加国は、世界24カ国です。
これは参加しなかった国が多かったのではなくて、世界に「それしか国がなかった」からです。
たとえば、いまのインドネシアからベトナム、ラオス、などのあたりは、フランス領インドシナという名の、フランスの一部の地方であり、インドは英国領のなかのインド地方でした。

ところが2020年開催の東京五輪では、参加国数が205カ国です。
これは、世界中のそれぞれの有色人種諸国が独立を果たした結果です。
そしてその独立の背後には、日本による無償の、また無私の努力と、日本の激しい戦いがあったのです。

年表学という学問分野があります。
それは、年表に掲載するその年における最大のエポック(出来事)をひとつ決める学問分野です。
では20世紀における最大の出来事とは何でしょう。
それは、
「500年続いた植民地支配の終焉」
です。

そしてこれを実現したのは、間違いなく日本です。
もし、日本の戦いがなければ、おそらく21世紀となったいまでも、世界は欧米列強による植民地支配のままに置かれていたことでしょう。
いまなお白人の贅沢のためだけに存在する、私権の認められないただの家畜、それが有色人種に与えられた地位となっていたことでしょう。

日本は世界の良心ともいえる国です。
その日本人が、どこかの国の真似をして、アコギな道に進んだとしても、日本にはそのような歴史も伝統も有りませんから、アコギな道では、おそらく日本は世界に敵いません。

日本は、個人であっても国であっても、どこまでも良心と誠意の善の道を進む。
清らかであたたかかくて、明るい、それが日本書紀に書かれた「清陽(すみてあきらか)」の心です。
そして日本男児は、いくつになっても、そのような国柄を守る清潔で正義感あふれる男であらねばなりません。
それが日本男児の「ますらをの道」です。
「ますらを」とは、りっぱで勇気があってやさしい男を意味する大和言葉です。

最後にひとつ。
2万年前、まだ海面が低かった時代、日本列島から小笠原諸島、グアム島、パラオ、西パプア、フィリピン、台湾、琉球諸島、日本列島まで、向こうに見えている島伝いにぐるりと一周することができました。
島伝いに船で進むと、何ヶ月もかかって、元の島にまで戻ってくるのです。
もしかすると、わ(輪・環)のクニという言葉は、そこから来たているのかもしれません。

ちなみに「ムー大陸」という言葉がありますが、古語で「む」は広大なを意味します。
いま太平洋の海底を調べてみると、どこにもかつて大陸があったことを示す場所が存在しませんが、上に述べた環状の島々のことを、古代の人達が、「広大な環」という意味で「ムー」と呼んでいたことは、十分にありえることと思います。

我々はこれまで、日本が農耕民族だと教えられてきましたが、農耕民族というのならチャイナもコリアも農耕民族です。
けれど、どうみても、どこからみても、チャイニーズやコリアンと日本人とでは気質がまるで違います。

理由は簡単です。
もともと万年の単位で、わじん(倭人・環人)たちは、海洋で暮らす海洋民族であったのです。
このことが日本人の精神性に深く関わっています。

陸上に住む人々よりも、葦で造った帆船を操作して暮らすわじん(倭人・環人)たちの行動範囲は、ものすごく広いものとなります。
そしてアカホヤの破局噴火のときに、そんなわじん(倭人・環人)たちが、まさに世界に散り、世界に文明文化を伝えてきたのではないか。

また、モンゴルの大帝国を築いたのも、日本の黄金と、源義経のますらをぶりです。
そのモンゴルが崩壊した後に起きたオスマン・トルコの興隆も、日本の黄金が影響を与え、幕末に日本から流出した黄金は、その後の欧米の動乱の原因となっています。
そして先の大戦で、日本は世界から植民地を駆逐しています。

その大戦で国土を焼土と化した日本は、またたくまに国土と経済を復興させ、日本が独立に導いた東亜諸国に経済的活力を与え、いままさに大東亜は繁栄を謳歌しています。
そして豊かになった世界では、欧米も東亜諸国も、南米も中東やアフリカでも、日本アニメは大人気です。
またMADE IN JAPAN製品は、世界で最も安全で安心で品質の良い製品に与えられたブランドとなっています。

さまざまな意味において、日本は、歴史を通じて世界に良い影響を与え続けた国柄を持ちます。
希望は、現実に根ざしたところから生まれます。
陽(日、霊(ひ))はまた昇ります。

この記事は2020年8月のねずブロ記事のリニューアルです。

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