このお話は、2019年12月に拙ブログが初出で、その後2022年10月発売の拙著『奇蹟の日本史』(https://amzn.to/3eeXDco)にも、その内容を掲載したものです。
山上憶良の『貧窮問答歌』は、7世紀後半から8世紀初頭の奈良時代を生きた貴族で、大宝2年(702)に渡唐し、帰国後は、伯耆守・東宮侍講・筑前守を歴任し、太宰府の長官であった大伴家持とも親交があった人です。

この『貧窮問答歌』は、学校で「地方で過酷に税を取り立てられる民衆の姿・困窮する家族の姿を詠み込んだ歌」として、古代日本がいかに庶民に苛斂誅求の国であったかの、ひとつの証拠のように語られ、教えられている歌です。
けれど、それってホントなの?というのが、本稿のテーマです。

以下『奇蹟の日本史』の文でその文をご紹介します。

 *

【貧窮問答歌の真実】

▼歌ったのは朝鮮半島の伽倻の実情?

『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』を書いた山上憶良(やまのうえのおくら)は、筑前の国司だった人です。
つまり筑前の国の頂点にある人です。
山上憶良が生きた時代は、白村江の戦いで日本が朝鮮半島の権益の一切を手放したすぐあとの時代です。
白村江の戦いが六六三年。
山上憶良が筑前の国司に赴任したのが七二六年。
わずか六十三年後のことです。

筑前から海を隔てた対岸の朝鮮半島南部には、かつて日本の一部であった伽倻(かや)の地があります。
かつてそこには任那(みまな)日本府もおかれていました。
そしてそこは、とても豊かでした。
なにしろ百済(くだら)が勝手に伽倻を併合したとき、それが気に入らないからと、百年もの間、百済への税の支払いを拒(こば)み、日本に税を払い続けたほど、誇りある人々が暮らす地でもあったのです。

けれど山上憶良が筑前に赴任する頃には、その「豊かだった伽倻」は、すでに貧困のどん底になっていました。
『貧窮問答歌』を読むと、およそ日本の一部だった時代とはまったく異なる伽倻の情況が描かれています。
豊かで安全で安心して暮らせたはずの伽倻は、わずか六十年で貧窮のどん底暮らしになっていたのです。

では『貧窮問答歌』を読んでみます。
原文は漢文ですが、わかりやすいように、現代語に訳したものを掲げます。

現代語訳『貧窮問答歌』(山上憶良作 万葉集巻五所収)

風交(ま)じりの雨が降る夜や
雨交じりの雪が降る夜は
どうしようもなく寒いので
塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり
咳(せき)をしながら鼻をすする。

少しはえているヒゲをなでながら
自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが
寒くて仕方ないので麻の襖(ふすま)紙をひっかぶり
麻衣を重ね着しても
やっぱり夜は寒い

俺より貧しい人の父母は
腹をすかせてこごえ
妻子は泣いているだろうに
こういう時、あなたはどのように暮らしているのか。

天地は広いというけれど
私には狭い。
太陽や月は明るいというけれど
我々のためには照ってくれない

他の人もみなそうなんだろうか
それとも我々だけなのだろうか

人として生まれ
人並みに働いているのに
綿も入っていない
海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけ
つぶれかかった家
曲がった家の中に
地面に直接藁(わら)を敷いて
父母は枕の方に
妻子は足の方に
私を囲むようにして嘆き悲しんでいる

かまどには火の気がなく
米を炊く器にはクモの巣がはり
飯を炊くことも忘れてしまったようだ

ぬえ鳥のようにかぼそい声を出していると
短いものの端を切るとでも言うように
鞭(ムチ)を持った里長の声が寝床にまで聞こえる

こんなにもどうしようもないものなのか
世の中というものは
この世の中はつらく
身もやせるように
耐えられないと思うけれど
鳥ではないから
飛んで行ってしまうこともできない。

  世間(よのなか)を
  う(憂)しとやさしとおも(思)へども
  飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

原文は次のような漢文です。

風雜 雨布流欲乃雨雜 雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎取都豆之呂比 糟湯酒宇知須々呂比弖 之叵夫可比 鼻毘之毘之尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曾倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞弖泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流 天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 囲居而 憂吟 可麻度柔播 火気布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻弖 来立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道
 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆

▼「筑前の民衆を描いたもの」という従来説のおかしさ

あまりに悲惨な民衆の暮らしが描かれています。
従来説では、これは「筑前の民衆の生活を描いたものだ」としています。

しかし山上憶良は、筑前の国司です。
つまり筑前の民衆の生活について全責任を担った筑前の長です。
その筑前守が、
「俺の国の民衆は、こんなに貧窮しているのだ」
という内容の歌を自慢気に遺すでしょうか。
そう考えれば、おのずと、この歌が描いた民衆が、どこの人々のことを詠(よ)んでいるのか明らかになります。

歌の中に、
「つぶれかかった家、曲がった家の中に、地面に直接藁(わら)を敷いて」
という描写が出てきます。(原文は「布勢伊保能 麻宜伊保 乃内尓 直土尓 藁解敷而」)

ワラがあるということは、稲作はしているわけです(稲作がなければ、ワラもありません)。
稲作をするなら、普通、家屋は高床式です。
なぜなら水田は水を引くため、地面に穴を掘る竪穴式住居では、床に水が染み出してしまうからです。
高床式にすることで、縁の下に風を通し、ジメジメから解放されるのです。
ところがここの人々は、地面に直接ワラを敷いて寝るというのです。
それはさぞかし寝苦しいことでしょう。
どうしてそのような寝方をするのでしょうか。

不思議はまだあります。
「つぶれかかった家、曲がった家」とありますが、日本は地震が頻発(ひんぱつ)する国です。
「つぶれかかった家、曲がった家」では、生活できません。
とりわけ高床式住居では、柱や梁(はり)が、しっかりしていないと、地震のときに家屋が簡単に倒壊してしまいます。
ですから古来、日本の家屋は、たいへんしっかりした造りをするのがならわしです。
そして「しっかりした家屋」は、各家族では建てるのも維持するのも大変だから、古民家も大家族で住むように設計され、建造されてきたのです。これが災害列島で住む人々の知恵です。
《注》現代日本は核家族化が進み、家屋は核家族用で、その多くは安普請(やすぶしん)です。だから巨大地震が起きると、ほとんどの戸建てが倒壊の危険にあります。

「いや、そんなことはない。
 これは筑前の都市部の民衆の話だ。
 都市部ならつぶれかかった家、曲がった家もあり得るだろう」
という方がいるかもしれません。
けれど我が国は、仁徳天皇が「民のカマドの煙」を見て、税の免除をされるような国柄なのです。
民衆がカマドの煙どころか、「米を炊く器にはクモの巣がはり」というような状況を、国司が招いたとするならば、それこそ責任問題です。

加えて『貧窮問答歌』に出てくる人物は、どうやら庶民ではないらしい。
なぜならその人は、
「ヒゲをなでながら
 自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれ、
 俺より貧しい人がいる」人であるわけです。つ
まり最下層の人ではなく、貴族階級の人のようです。
ところがそんな貴族であっても、竪穴式のつぶれかかって曲がった家に住んでいるわけです。

山上憶良の時代のすぐ前には、半島で百済救援の戦いがあり、また白村江(はくすきのえ)で日本人の若い兵隊さんたちが大量に殺されるという事件もありました。
そしてこの歌が詠まれた時代の、わずか六十年前には、高句麗(こうくり)が滅亡し、半島は新羅(しらぎ)によって統一されています。

筑前には、ご承知の通り大宰府(だざいふ)があります。
大宰府という名称は、「おおいに辛い(厳しい)府」という名前です。
この時代の日本は、渤海国(ぼっかいこく)との日本海交易も盛んに行っていますが、渤海国との交易のための港には大宰府など設置されていません。
単に国司のいる国府が、その交易管理にあたっていただけです。

それがどうして筑前だけが「辛い府」なのかというと、そこが新羅や唐の国という敵性国家との窓口にあたる場所であったからです。
唐や新羅への警戒から、日本は都を奈良盆地から近江に移したくらいですから、大宰府がいかに国防上の重要拠点とみなされていたかは明白です。

▼山上憶良が貧窮問答歌に込めた真意

そもそも大陸も半島も、伝染病の宝庫といえるところです。
ですから、出入りする船を厳しく監督しなければ、病原菌を日本に持ち込まれたら大変だったのです。

山上憶良は、その大宰府の長官であった大伴旅人(おおとものたびと)とも親しい間柄でした。
そしてこの時代、かつては倭国(わこく)の一部であった半島南部が、新たに半島を統一した新羅によって、きわめて過酷な取り立てと圧政が行われていたことは、歴史の事実です。

こうした背景を考えれば、この『貧窮問答歌』に歌われている民衆が、かつて倭人の一部であった半島の人々の姿であることは明らかといえるのではないでしょうか。

つまり山上憶良は、
「政治ひとつで、あるいは国の体制ひとつで、
 ここまで民衆の生活が悲惨なものになるのだ」
ということを、この『貧窮問答歌』であらわしたのではないでしょうか。

「我が国を絶対にこのような国にしてはいけない!」
その固い決意と信念あればこそ、山上憶良は、あえてこの『貧窮問答歌』を詠んだのではないでしょうか。

『貧窮問答歌』には、次の短歌が一首付属しています。

 世間(よのなか)を
 う(憂)しとやさしとおも(思)へども
 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

半島と筑前の間には、海峡があります。
船便が禁止されていれば、倭国へと移動する手段もありません。
だから「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」です。
これで全部の意味がすっきりと通ります。

要するに『貧窮問答歌』は、かつて日本領であり、今では新羅によって蹂躙された半島の人々の困窮した生活の様子を、半島の向かいに位置する筑前の国司であった山上憶良が長歌に描いた作品です。

このような、ある程度社会経験を積んだ大人なら、少し頭を働かせたら誰にでもわかる簡単なことを、あたかも山上憶良が強引な税の取り立てをした悪人であるかのように歪(ゆが)めて子供たちに教える。
それは、すくなくとも子供たちに対する不誠実といえるのではないでしょうか。
このようなデタラメが、戦後にはじまり、そしていまだに行われ続けている。
それを立て直すためには、私たち今を生きる大人たちが目覚めていくしかないのではないかと思います。

▼これが筑前の民を思って詠んだ歌

山上憶良は、筑前の民を心から愛し、美しいと捉えていて、次の歌を遺しています。
万葉集の巻八に収められた歌で、題詞(ひたいのことば)には、「山上《臣》憶良詠秋野花歌」と書かれてあります。

秋の野に咲きある花を指折りて かき数へれば七種(ななくさ)の花(一五三七)
(秋の野に咲いている花を指折り数えると七種の花がありますな)

萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花(一五三八)
(その七種とは萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、おみなえし、ふじばかま、あさがおの花です。)

歌に詠まれているのが「秋の七草」です。
歌の特徴としては、山上憶良は花を、ただ植物ととらえているのではなく、人とともにある「生きた友」としてそれぞれの花を鑑賞しています。
花のことは「めでる」といいます。
漢字で書いたら「愛でる」です。
大和言葉(やまとことば)では
「目で愛(め)でる」
つまり眺めて楽しみ、かつ「愛」は「おもひ、いとし」ですから、見て、いとしく思う。
花へのそんなやさしい気持ちを言葉にしてきたのが、古くからの日本人の感性(かんせい)です。

ちなみに、この歌にある「朝貌(あさがお)」は、今でいう桔梗(ききょう)のことです。
私たち現代人が思い浮かべる夏の早朝に咲く朝顔は、熱帯アジア産で平安中期以降に日本に入ってきたので、この歌が詠まれた時代には、まだなかったのです。

その花を、山上憶良は「野に咲く花」と詠んでいます。
つまり「野に咲く花」が「自然の中で力強く咲き、生きている花である」としています。
「いろいろな花」とは、憶良が勤める筑紫国の住民です。
その「いろいろな花」を、山上憶良は美しいと詠んでいるのです。
だから題詞で、「山上《臣》憶良詠秋野花歌」と書いています。

万葉集の選者は、筑前の国司だった山上憶良が、民衆を心から愛した天皇の臣(おみ)であると書いているのです。
このことが意味するのはただひとつです。
それは、
「民衆を心から愛する者」こそが、
「万世一系の天皇の家臣」である、という自覚です。

***

と、ここまでが本にしたことです。

本書の前段階にあるのが、過日出版した『庶民の日本史』です。
そして日本がまさに「奇蹟の国」といえるその根幹にあるのもまた、日本が庶民の国であり続けたという事実です。

ただ日本を「オクレた国」と考え、欧風化することが正しいことであり、さらには日本よりもチャイナやコリアのほうが理想の国であるというのが、戦後日本のいわば常識となった思考です。
しかし、それは誤りです。

お伊勢様の式年遷宮は、第41代持統天皇の御世からはじまった、古くて長い歴史を持つ行事です。
そして我が国は、歴史を通じて、お伊勢さまの式年遷宮は、国費をもって、これを行ってきました。
そんな式年遷宮が、国費で行われなくなった時代が、我が国の歴史に2つあります。
ひとつが、国が荒れた戦国時代の100年間。
もうひとつが、戦後の日本です。
つまり戦後の日本は、戦国の世と同じように、国が荒れた時代になっているのです。

政治のことを「まつりごと」と言いますが、この2つの時代は、いずれも「まつりごと」よりも、人の欲が優先した時代といえます。
「いまだけ、カネだけ、自分だけ」
まさに『貧窮問答歌』に描かれた半島の実態も、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」の世となった結果です。

欲がいけないと言っているわけではありません。
欲は人が生きる上で、なくてはならないものです。
けれど、それが自分だけの欲求を満たすものであれば、そこに必ず力の強弱が生まれます。
そして欲の強い者がますますその力を増せば、結果として、ごくひとにぎりの富裕者と、極貧状態の圧倒的多数の民衆といった構図ができあがります。

そうではないのです。
欲はあっても良い。
けれど、その欲は、自分だけではなく、多くの人々のために使う。
これを「大我(たいが)」と言います。

日本が健全化され、ふたたび庶民が幸せに生きることができる国となるため、いま必要なことは国民教育であり、その国民教育のためには、核となる大我の覚醒者が、ひとり、またひとりと増えていくことが必要と思っています。

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