昭和12(1937)年7月29日に起きた通州事件。その凄惨な歴史を知ったとき、私たちは「なぜ人間は、ここまで残酷になれるのか」という問いに突き当たります。しかし、その答えを特定の民族の性質に求めてしまえば、私たち自身もまた、人間をひとつの「記号」にしてしまいます。人間の中にある蛮性。恐怖と扇動。Relationの切断。そして相手から「人間の顔」が消えていくEntity化――。では、その蛮性に歯止めをかけ、人を人として見続けるために必要なものは何なのでしょうか。通州事件を入口に、「教養とは何か」「文明とは何か」、そしてヒトはどうすればヒトであり続けられるのかを考えます。

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昭和12(1937)年7月29日、北京郊外の通州で、多くの日本人居留民が殺害されました。通州事件です。
その詳細については、先の記事に譲ります。
https://hjrc.jp/9158/
ここで考えたいのは、もう一段深い問いです。
人間は、どのような条件がそろったとき、ここまで残酷になれるのか。
「だからChineseは残酷なのだ」――そう言いたくなる気持ちは、記事をお読みいただければ、誰の中にも起こることだと思います。
けれど、それは違います。
Chineseの中にも心優しい人はたくさんいますし、日本人の中にも、そうでない者はいます。
民族そのものを「残酷な民族・優しい民族」と「記号化」した瞬間、私たちは歴史から何も学んでいないことになります。
通州事件が突きつけているのは、特定の民族の性質ではなく、人間そのものの中にある構造です。
■ 蛮性は、誰の中にもある
人間の中には「蛮性」があります。
これは否定できません。
人間も、生物として見れば、ヒトという動物の一種だからです。
人は怒るし、怖がるし、欲しがるし、嫉妬もします。
自分を守ろうとし、仲間を守ろうとします。恐怖に追い詰められれば、攻撃もします。
これはChineseだけの話ではありません。
日本人にも、欧米人にも、アフリカ人にも、等しく備わっているものです。
集団虐殺、宗教戦争、民族浄化、魔女狩り、リンチ――人類の歴史を振り返れば、人間が人間に対して行ってきた凄惨な行為はいくらでもあります。
では、普段の私たちは、なぜそれをしないのでしょうか。
人々が長い年月をかけて、蛮性の上に「歯止め」を築いてきたからです。
礼儀であり、道徳であり、信仰であり、法律であり、家庭であり、共同体であり、古典であり、教養です。
つまり文明とは、
人間から蛮性を消し去るものではなく、
蛮性が暴れ出さないための仕組みを育て続けてきた営み
だと思います。
■ 教養とは、知識の量ではない
「教養」とは何でしょうか。
難しい本を読んでいることでしょうか。
年号や偉人の名を知っていることでしょうか。
もちろん、それらも一部ではあるでしょう。
しかし、知識の量と残酷さの間に、単純な相関はありません。
教養とは、むしろ、
「目の前にいる相手も、自分と同じひとりの人間なのだ」と想像できる力
なのではないかと、私は思います。
この人にも親がいる。子供がいる。好きな人がいる。
昨日があり、今日があり、明日がある。
そう思うことができれば、人はそう簡単に、人を殺せません。
ところが、その想像力を奪う方法があります。
相手を「人」でなくしてしまうのです。
「あいつらは敵だ」「あいつらは悪だ」「あいつらのせいで、自分たちは苦しんでいる」――そう繰り返し教え込まれると、ひとりひとりの顔が消えていきます。
名前も、家族も、人生も消えて、最後に「敵」という記号だけが残ります。
■ Entityになった瞬間、人の顔が消える
これは、私が提唱している「EntityとRelation」の構図とも重なります。
目の前の人間を、敵、外国人、異教徒、右翼、左翼、富裕層、貧困層、高齢者、若者――そうした属性だけで捉えたとき、人はたちまち Entity(記号)になります。
記号は泣きません。
痛がりもしません。
親も、子も、人生もありません。
だから攻撃できてしまうのです。
ところが Relationの中では、そうはいきません。
「あの人は、昨日話した人だ」
「あの人の母親は、いつも息子の帰りを待っている」――Relationが生まれた瞬間、記号だった人間に、再び顔が戻ります。
だからこそ、人を蛮行へ駆り立てようとする卑劣漢が最初にすることは、いつも同じです。
Relationを切断すること。
互いを知らなくさせ、話をさせなくし、恐怖を与え、憎悪を煽ります。
相手をひとつの記号にできれば、人は驚くほど簡単に操られてしまうからです。
これは、遠い異国の歴史の話ではありません。
名前も生活も知らない相手を、たった一つの発言や属性で切り取って全体を評価してしまうとき、私たちの日常にも、小さな Entity化が起きています。
■ 恐怖が、考える力を奪う
もうひとつの要素が「恐怖」です。
恐怖の中に置かれると、人は出口を考える余裕を失います。
「このままでは殺される」「敵が来る」「仲間を守れ」――そう思い込んだ瞬間、視野は極端に狭くなります。
そこに「あいつを殺せ」という「答え」が与えられると、昨日まで普通の学生だった者、普通の労働者だった者、普通の父親だった者が残虐な行為に加担するようになります。
歴史の恐ろしいところは、怪物が虐殺をしてきたのではないという点にあります。
「普通の人間を、怪物に変える構造が存在する」
私たちが知らなければならないのは、この構造そのものです。
■ 出口を問う力としての教養
だからこそ、教育の役割は、単に知識を教え込むことではありません。
自分の感情をいったん止めて、「本当にそうなのか」と考える。みんなが怒っているときに、「ちょっと待てよ」と考える。
誰かが「あいつらは悪だ」と叫んでいるときに、「本当に全員がそうなのか」と考える。
そして、自分の行動の先に「最後に何が起こるのか」を考える。
それができる力こそが、教養なのではないでしょうか。
つまり教養の本質とは、
人間の中にある蛮性に、自分自身で歯止めをかける力
にあるのではないでしょうか。
怒ったから殴った。怖かったから殺した。
みんながやったから自分もやった・・・。
それらは、目の前の感情だけで動いている状態です。
けれど、「その先に何がある」と一度問いを置く。
殴ったあと、どうなるのか。
復讐したあと、どうなるのか。
この憎しみを子供たちに渡したら、その先はどうなるのか。
そうした問いを持てたとき、人は蛮性からほんの少し、距離を置くことができます。
出口を考えることによって、人ははじめて未来に責任を持てるようになるのだと思います。
■ 歯止めが失われるとき
この構造は、遠い国だけの問題ではありません。
社会が長い時間をかけて育ててきた文化的な歯止め――家庭で教えられたこと、祖父母から聞いたこと、先生の背中、地域の習慣、古典の言葉、神仏への畏れ、「そんなことをしたら恥ずかしい」という感覚――そうした、法律の条文にはならない無数のものが、実は人間の行動を支えています。
それらを一度断ち切ってしまうと、再び築くには長い時間がかかります。
文化大革命は、その断絶がどれほど深いものになり得るかを、私たちに示した一つの例だと思います。
そして、これは日本にとっても他人事ではありません。
古典を読まなくなった。
歴史を知らなくなった。
地域とのつながりが薄くなった。
神仏への畏れも薄れた。
SNSを開けば、「あいつは敵だ」「あの世代はダメだ」「あの思想の人間はダメだ」という言葉が、毎日のように飛び交っています。
相手の人生を知らないまま、たった一つの発言でその人全体を記号化する。
これもまた、小さな Entity化にほかなりません。
もちろん、SNSの悪口と通州事件の惨劇を同列には扱えません。
けれど、「相手から人間の顔を奪う」という根の構造は、同じものです。
文明は、ある日突然崩壊するのではありません。
人と人との Relationが一本ずつ切れ、人が記号になり、教養という歯止めが一本ずつ失われた先に、昨日までなら考えられなかったことが許される社会ができてしまう。
歴史は、そのことを繰り返し教えていると思うのです。
■ 通州事件から何を学ぶのか
犠牲になった方々のためにも、通州事件の事実を忘れてはならないと思います。
しかし、その歴史を「Chineseとは、こういう民族なのだ」という結論のために使いたくはありません。
それでは、犠牲者の歴史を、現代の憎悪をつくる材料に変えてしまうからです。
むしろ問うべきは、
「どうして、人間がここまでのことをできたのか」
「何が、人から人間性を奪ったのか」
「何が、Relationを切断したのか」
そして、「どうすれば、二度と同じことを起こさずに済むのか」
そこまで考えることが、歴史を未来へ手渡すということなのだと思います。
■ 人間を、人間であり続けさせるもの
残念なことですが、ヒトの中には蛮性があります。
それを完全になくすことは、おそらくできません。
だからこそ、人類は長い歴史の中で、文化をつくり、礼儀をつくり、信仰をつくり、古典を残し、物語を語り継ぎ、子供たちを教育してきたのだと思います。
それらは、人間を偉く見せるための飾りではありません。
蛮性が暴れ出そうとしたとき「待て」と言うため、
目の前の相手を「敵」という記号にしそうになったときに、「この人も人間だ」と思い出すため、
怒りや恐怖に支配されたとき「この先、どうなる」と未来を見るためにあるものです。
ですから教養は、学校を卒業したら終わるものではありません。
生涯をかけて歴史を学び、古典を学び、人と語り合い、異なる意見に耳を傾け、自分自身に問い続ける。
それは物知りになるためではなく、自分の中にある「獣」を知り、それでも人として生きるためです。
文明というと、巨大な建物や最新の科学技術のことだと言う人がいます。
違うと思います。
人が人を人として見ること。
違う者同士が Relationを結ぶこと。
怒りや恐怖の先にある出口を考えること。
そして、その力を次の世代へ手渡していくこと。
その営みこそが、文明なのだと思います。
通州事件から89年。
あの惨劇を「昔の中国で起きた残酷な事件」として終わらせるのではなく、
ヒトはどうすればヒトであり続けられるのか
という問いを、未来へ手渡していきたいと思うのです。
教養とは、ヒトを立派に見せるための飾りではありません。
ヒトを、ヒトであり続けさせるための力なのですから。
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