「愛している」という言葉は、いつでも愛を表しているのでしょうか。恐怖によって言わされた「愛している」と、安心できる関係の中から自然に生まれた「愛している」。言葉は同じでも、そこに込められた意味は、まったく違います。これは、家庭でも職場でも同じことです。「大丈夫?」「ちょっと話があるんだけど」「どうして、そんなことをしたの?」同じ言葉でも、相手との関係によって、安心にも恐怖にもなります。反論がないことと、納得していることは違う。黙っていることと、安心していることも違う。今回は、東郷潤先生との対談で伺ったお話を入口に、言葉よりも先にあるRelation(関係性)と、そのRelationを育てる日々の言葉や行動について考えます。

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同じ言葉でも、それまでの関係によって、まったく違う意味で届く。
第一章 恐怖の中で「愛している」と言えるのか
以前、東郷潤先生と対談したとき、先生がご自身の著書から紹介してくださった、印象深いお話があります。
ある男性が、女性に向かって怒鳴っています。
「俺を愛せ! さもないと殴るぞ!」
そして、こう言います。「お前に辛く当たるのは、それだけお前を愛しているからなんだ!」
女性は、恐怖に震えながら、
「キャー、怖い! 殴らないで! 愛しているから!」と叫びます。
ここで一つ考えてみたいのです。
これは、愛なのでしょうか。
男性は、女性から「愛している」という言葉を引き出すことには成功しました。
けれど、女性がその言葉を口にしたのは、男性を愛しているからでしょうか。
少なくとも、その言葉だけでは、愛している証拠にはなりません。
なぜなら女性は、殴られることを恐れて、その言葉を口にしているだけだからです。
その場から逃れたい。
これ以上、怖い思いをしたくない。
だから、相手が求める言葉を口にしたのです。
男性にしてみれば、「愛している」と言ってもらえたのですから、満足するかもしれません。
しかし、その言葉は、女性の本当の気持ちを表しているとは限りません。
ここに、とても大切な問題があります。
恐怖によって「愛している」と言わせることはできても、愛そのものを生み出すことはできない。
ということです。
もちろん、相手を脅して言葉を強要することは、それ自体が許されない行為です。
けれど、ここでもう少し、観測点を動かしてみたいと思います。
もし、女性が心から信頼している相手に、自分の意思で、「愛している」と言ったなら、どうでしょう。
言葉は同じです。
「愛している」という、たった五文字の言葉です。
けれど、一方は、安心できる関係の中から自然に生まれた言葉。
もう一方は、恐怖の中で、言わされた言葉です。
言葉は同じでも、その言葉が生まれた「あいだ」が、まったく違っているのです。
ここでいう「あいだ」とは、単に二人の距離のことではありません。
これまで、どのような言葉を交わしてきたのか。
困ったときに、助けてもらえたのか。
自分の気持ちを話したとき、受け止めてもらえたのか。
それとも、責められたり、怒鳴られたり、脅されたりしてきたのか。
そうした経験の積み重ねによって、二人の「あいだ」には、安心が生まれることもあれば、恐怖が生まれることもあります。
そして、その「あいだ」に何があるかによって、言葉の意味も、受け取られ方も変わってくるのです。
これが、Relation(関係性)という観測点です。
実は、このことは、何も極端な例に限った話ではありません。
私たちの日常生活でも、同じようなことが起きています。
第二章 言葉よりも先に、関係がある
たとえば、職場で上司が部下に、「ちょっと話があるんだけど」と声をかけたとします。
普段から部下の意見をよく聞き、失敗したときも一緒に解決策を考えてくれる上司なら、部下は、
「何でしょう?」と、自然に応じることができるでしょう。
しかし、普段から部下を怒鳴りつけ、何かあるたびに人前で叱責する上司なら、どうでしょうか。
同じ、「ちょっと話があるんだけど」という言葉でも、部下の心には、たちまち緊張が走るかもしれません。
「何か失敗しただろうか」
「また怒られるのだろうか」
そんな思いが先に立ってしまいます。
こうなると、上司が何を話すかよりも前に、部下の心は、すでに身構えていることになります。
家庭でも同じです。
親が子供に、「どうして、そんなことをしたの?」と尋ねる。
この言葉も、それ自体は、理由を尋ねているだけです。
けれど、普段から親が子供の言い分を聞いている家庭なら、子供は自分の事情を話せるかもしれません。
一方、何か説明するたびに、「言い訳するな!」と叱られてきた子供なら、どうでしょう。
「どうして?」という言葉が聞こえた瞬間に、何を答えても怒られると思ってしまうかもしれません。
そして、黙り込んでしまう。
親は、その態度を見て、「どうして黙っているの!」と、さらに叱ってしまう。
子供は、ますます何も言えなくなる。
こうして、親は理由を知りたいのに、子供は理由を話せないという関係が生まれてしまいます。
このとき、親も子供も、それぞれの立場からは、理由のある行動をしています。
親は、子供の事情を知りたい。
子供は、叱られることを避けたい。
問題は、どちらか一方の性格だけにあるとは限りません。
二人の「あいだ」に、安心して話せる関係が育っていないことが、問題になっている場合もあるのです。
第三章 恐怖のある「あいだ」では、何が起きるのか
ここで、もう少し考えてみたいことがあります。
恐怖のある関係では、なぜ、本当のことが言いにくくなるのでしょうか。
それは、人が恐怖を感じると、何よりも先に、自分の身を守ろうとするからです。
これは、ごく自然な反応です。
危険を感じれば、身構える。
攻撃されそうになれば、防御する。
逃げられるなら、逃げようとする。
こうした働きは、人が生きていくうえで、大切なものです。
ところが、この警戒が、人間関係の中で常に働くようになると、困ったことが起きます。
本当のことを話すよりも、相手を怒らせないことが優先されるようになるのです。
職場なら、失敗を報告するよりも、叱られずに済む説明を探す。
家庭なら、自分の気持ちを話すよりも、相手の機嫌を損ねない言葉を選ぶ。
学校なら、わからないことを質問するよりも、黙ってやり過ごす。
こうなると、表面上は、何も問題が起きていないように見えることがあります。
部下は、上司に反論しない。
子供は、親に逆らわない。
誰も、不満を口にしない。
一見すると、よくまとまった組織や家庭のように見えるかもしれません。
けれど、そこにあるのは、本当の意味での「和」なのでしょうか。
もしかすると、ただ、誰も本音を言えなくなっているだけかもしれません。
反論がないことと、納得していることは違います。
黙っていることと、安心していることも違います。
ここは、とても大切なところだと思います。
恐怖によって、人を従わせることはできるかもしれません。
しかし、恐怖によって、相手の本心からの信頼を生み出すことはできません。
むしろ、恐怖が強まれば強まるほど、相手が何を考えているのか、わからなくなっていくことがあります。
これは、組織にとっても、たいへん危険なことです。
なぜなら、問題があっても、誰も報告しなくなるからです。
本当は困っているのに、「大丈夫です」と答える。
本当は計画に無理があるのに、「問題ありません」と報告する。
本当は助けが必要なのに、「何とかします」と言ってしまう。
こうして、小さな問題が、誰にも知られないまま積み重なっていくことがあります。
そして、取り返しのつかない事態になって、初めて問題が表面化する。
そのとき、上に立つ人が、「どうして、もっと早く言わなかったんだ!」と叱ったとしても、すでに遅いのです。
本当に問うべきなのは、
「なぜ、早く言えない関係になっていたのだろうか」ということなのかもしれません。
第四章 安心とは、何でも許されることではない
では、安心のあるRelationとは、どのようなものなのでしょうか。
ここで、一つ誤解してはいけないことがあります。
安心できる関係とは、何を言っても許される関係のことではありません。
約束を破っても叱られない。
間違ったことをしても注意されない。
人を傷つけても責任を問われない。
そういう関係が、安心できる関係ではありません。
あたりまえのことですが、
安心できる関係だからこそ、間違いを指摘し合うことができることの方が、はるかに大事です。
たとえば、仕事で大きな失敗をしたとします。
そのとき、上司が、「これは、まずかったね」と言った。
この言葉は、決して耳に心地よいものではありません。
けれど、その上司が普段から誠実に接してくれている人なら、
「確かに、まずかったです」と、素直に認めることができるかもしれません。
そして、「では、どうすればよかったのか」を、一緒に考えることもできるでしょう。
もちろん、失敗には責任がともないます。
必要な謝罪もあるでしょう。
損害が出たなら、その対応も必要です。
けれど、失敗をしたという事実と、その人間の存在そのものを否定することは、別の問題です。
行為については、厳しく指摘する。
しかし、その人が、もう一度立ち上がる可能性まで奪わない。
そうした関係の中では、人は、間違いを認める勇気を持ちやすくなります。
安心とは、何も問題が起きないことではありません。
意見の違いがなくなることでもありません。
むしろ、意見が違っても、失敗しても、困っていることがあっても、それを話しただけで一方的に攻撃されないこと。
必要なときには助けを求められること。
間違いを認めても、人間としての価値を否定されないこと。
安心とは、問題がないことではなく、問題が起きたときに、共に向き合える関係があることだと、そう考えることもできるように思います。
ただし、現実には、危険な関係から距離を置くことが必要な場合もあります。
すべての関係を、努力によって修復しなければならないわけではありません。
相手を理解しようとすることと、不当な扱いを受け続けることは違います。
安心できるRelationを育てるために、まず自分の安全を守る。
そのために、必要な境界線を設けることも、大切な選択です。
第五章 言葉の前にRelationがある。では、そのRelationは何から生まれるのか
さて、ここまで考えてくると、一つの疑問が生まれます。
同じ言葉でも、受け取られ方が違う。
その違いは、言葉を交わす人々の「あいだ」に、どのようなRelationがあるかによって生まれる。
では、そのRelationは、いったい何によってつくられるのでしょうか。
ここが面白いところです。
Relationは、最初から完成しているものではありません。
日々の言葉や行動を通じて、少しずつ育っていくものです。
たとえば、誰かが失敗を打ち明けたとき。
その人の話を、途中で遮らずに聞く。
何が起きたのかを、決めつけずに確かめる。
必要な注意はするけれど、人格まで否定しない。
そして、次にどうすればよいのかを、一緒に考える。
こうしたことが、一度あっただけで、たちまち安心できる関係が生まれるとは限りません。
けれど、同じような経験が、二度、三度と積み重なっていけば、どうでしょうか。
「あの人には、本当のことを話しても大丈夫かもしれない」
そんな気持ちが、少しずつ育っていくかもしれません。
反対に、口では優しいことを言いながら、相手の話を聞かなかったり、約束を破ったり、失敗をいつまでも責め続けたりすれば、どうなるでしょう。
どれほど優しい言葉を並べても、その言葉は、次第に信用されなくなっていくでしょう。
つまり、Relationは、言葉より先にあります。
しかし、そのRelationもまた、日々の言葉や行動によって築かれていくのです。
ここには、一つの循環があります。
言葉や行動が、Relationを育てる。
育ったRelationが、次の言葉の受け取られ方を変える。
そして、その受け取られ方が、また次の言葉や行動に影響を与える。
人と人との「あいだ」は、よい方向にも、悪い方向にも、少しずつ変化するものなのです。
以前から考えているCirculation(循環)という観測点も、ここに通じるように思います。
言葉がRelationをつくり、Relationが言葉の意味を変えていく。
では、今日から、何ができるでしょうか。
相手に優しい言葉をかけようとすることは、もちろん大切です。
けれど、その前に、一つ考えてみたいのです。
「この人は、自分の前で、安心して本当のことを話せるだろうか」
「この人は、自分と意見が違っても、それを口にできるだろうか」
「この人は、困ったときに、助けてほしいと言えるだろうか」
そうした問いを、自分自身に向けてみることです。
もちろん、相手が安心するかどうかを、こちらの思いどおりに決めることはできません。
同じ関係の中でも、人によって感じ方は違います。
それでも、安心して話せる関係を育てるために、こちらができることはあります。
決めつけずに聞くこと。
相手の事情を確かめること。
自分が間違えたときには、素直に認めること。
そして、意見が違っても、相手の存在そのものを否定しないこと。
なかなか、むつかしいことです。
けれど、だからこそ必要があることだと思います。
おわりに 言葉を変える前に、「あいだ」を見る
私たちは、人間関係をよくしようとするとき、つい、言葉遣いを変えようとします。
もっと優しい言葉を使おう。
相手を傷つけない言い方をしよう。
丁寧に説明しよう。
もちろん、それも大切です。
けれど、言葉遣いを変えるだけでは、届かないこともあります。
相手が受け取っているのは、言葉だけではないからです。
それまでの経験。
相手との距離感。
自分の話を聞いてもらえた記憶。
逆に、傷つけられた記憶。
そうしたものが重なり合って、目の前の言葉の意味を形づくります。
だからこそ、相手との「あいだ」に、何が起きているのかを見る。
今日、相手の話を最後まで聞くこと。
今日、一つの決めつけをやめてみること。
今日、相手が失敗を打ち明けたときに、責める前に事情を確かめてみること。
そんな小さな積み重ねから、安心できるRelationが育っていくのかもしれません。
同じ言葉でも、安心のある「あいだ」と恐怖のある「あいだ」では、まったく違って届く。
言葉の前に、Relationがある。
そして、そのRelationを育てるのもまた、日々の言葉と行動なのです。
ちなみに、今日のお話は、どのような相手とも、無理に良い関係を築かなければならない、ということではありません。
暴力や脅迫、悪意ある行為を繰り返す相手に対しては、まず身の安全を守り、必要に応じて距離を置き、法的な対応を取ることも必要です。
Relationを大切にすることと、不当な行為を許すことは、まったく別の問題です。
このことについては、また別の機会に考えてみたいと思います。
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