拙著『日本武人史』から、「武術の始まり、建御雷神」をご紹介してみようと思います。

タケミカヅチノカミは、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と書かれます。
葦原の中つ国、つまり地上の国を大いなる国に育てあげた大国主神に、
「天照大御神(あまてらすおほみかみ)、
 高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(も)ちて
 問(と)ひに使之(つか)はせり。
 汝(いまし)の宇志波祁流(うしはける)
 この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、
 我(わ)が御子(みこ)の所知(し)らす国(くに)と
 言依(ことよ)さし賜(たま)ひき。
 故(ゆゑ)に汝(いまし)の心(こころ)は奈何(いかに)」
と国譲りを迫った神様です。

古事記では、このとき建御雷神は、
「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き放ち、
 その剣を逆さまに波の上に刺し立てると、
 その剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)をかいて
 大国主神に問い迫った」
と記述しています。

日本書紀は少しだけ違っていて、
「十握剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、
 その剣を地面にさかさまに植えるかのように突き立てて、
 その切っ先の上に堂々と座る」
と書いています。古事記は「海の波の上」、日本書紀は「地面」に剣を突き立てたとしているのですが、両者とも、その切っ先の上に大胡座をかいて座ったというところは一致しています。

神々の技(わざ)ですから、もちろん本当に剣の切っ先の上に座られたのかもしれません。
ですが普通には、現実的に、そのようなことは奇術でもなければ、まずありえないことです。
そんなことは、記紀が書かれた古代においても、誰もがわかることです。
ということは、これは、別な何かを象徴した記述であるということです。

大国主神の側は、大軍を擁する大いなる国です。
そこへ乗り込んだ建御雷神は、いきなり国王であった大国主神に直談判をしています。
もちろん高天原からの使いですから、直接国王に面会が可能であったとしても、それでも「剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)」というのは、ありえない描写です。

この点について、日本書紀は、経津主神(ふつぬしのかみ)と、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜を先に述べています。

▼経津主神(ふつぬしのかみ)の系譜
【祖父】磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)
【父母】磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)
【本人】経津主神(ふつぬしのかみ)

▼武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜
【曾祖父】稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
【祖父】 甕速日神(みかはやひのかみ)、
【父】  熯速日神(ひのはやひのかみ)
【本人】 武甕槌神(たけみかづちのかみ)

ここで祖父や父として書かれている神々は、古事記では、いずれも火の神が生まれることでイザナミが亡くなったときに、夫のイザナギが子の火の神を斬り、このときに飛び散った血から生まれた神として登場している神々です。
古事記は、親子というよりも兄弟の神であるかのような記述になっているのですが、日本書紀では親子関係です。

登場する神々は、いずれも剣に関係する神々です。
磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)は、岩さえも根っこから斬り裂くという御神刀を意味する御神名です。
子の磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)は、それだけ鋭利な剛剣を筒に入れる、すなわち鞘(さや)に収めている状態を示します。
そこから生まれた経津主神(ふつぬしのかみ)は、日本書紀に登場する神(古事記には登場しない)ですが、後に香取(かとり)神宮(千葉県香取市)の御祭神となる神様です。
別名を、香取神、香取大明神、香取さまといいます。

一方、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は鹿島神宮の御祭神です。
香取神宮と鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置しています。
そしてこの両神は、我が国の古来の武神です。
流派はそれぞれ鹿島神流、香取神道流といいます。
いずれも我が国武術の正統な系譜であり、とりわけ香取神道流は、現存する我が国最古の武術流儀といわれています。
いずれも最低でも二千年、もしかしたら数千年もしくは万年の単位の歴史を持つ武術流儀です。

二千年前なら弥生時代、数千年前なら縄文時代の中期です。
縄文時代には、人を殺める文化がなかったのですが、それでも集団においては正義が行われなくてはなりません。最近の研究では、縄文時代中期には青銅器、弥生時代には、すでに鉄器が使われていたことがわかっていますから、そうした古い時代から、なんらかの刀剣類が用いられていた可能性は否定できません。

武術というのは、普通なら、体躯が大きくて力の強い者が有利です。
早い話、どんなに強くても、武術を知らない大人と小学生では、大人が勝ちます。
当然のことながら、小柄な小学生が、力の強くて大きな大人に勝つためには、なんらかの工夫がいります。
こうして武術が工夫されます。

工夫は、一朝一夕に完成するものではありません。
天才的技能を持った人が現れ、その技能が伝承され、さらに世代を重ねるごとに技術が工夫され、それが何百年、何千年と蓄積されることで、信じられないような武術になっていきます。

残念ながら、海外の諸国には、そうした武術の伝承がありません。
世界中どこの国にも、その歴史において偉大な武術家は何人も現れたことでしょう。
伝承も工夫もされたことでしょう。
けれど、それらは長くても数百年のうちにすべて滅んでいます。

なぜなら国が滅び、その都度、皆殺しが行われているからです。
とりわけ強い武術流派は、新政権にとっては恐怖そのものですから、皆殺しどころか、その一族全員が殺されています。
つまりこの世から消滅しているわけです。
チャイナがそうですし、西欧でも同じです。

米国には「マーシャルアーツ(martial arts)」と呼ばれる軍隊格闘技がありますが、マーシャル・アーツという言葉は、実は日本語の「武芸」を英訳した言葉です。
文字通り「武の」(martial)「芸」(arts)です。

ところが日本の武術は、何千年もの昔から工夫され、伝承されてきた武術が、いずれも途切れることなく、世代を越えて磨かれ、工夫されてきた歴史を持ちます。
とりわけ歴史の中には、何人もの天才としか言いようのない武術家が現れ、技術がさらに工夫されました。
また武者修行といって、一定の練達者が、遠く離れた他流派の道場に学びの旅をして技術交換をして、さらに技能を高めるといったこともさかんに行われました。

こうして数百年、数千年と磨かれ続けてきたのが、実は日本の古来の武術です。

よく中国武術を古いものと勘違いしておいでの方がいますが、中国武術もまた、実は日本の武術が大陸に渡って成立したものだという意見があります。
筆者はこの説を支持しています。

それにしても、たった二人で、大軍を要する大国主神に直談判するというのは、これは大変なことです。
もちろん中つ国は敵地ではありませんが、それでも何十、何百という軍勢を前にしての談判ですから、そこで圧倒的な武術が示されたのでしょう。
このことが、「切っ先の上に大胡座をかいて座った」という描写に集約されているのではないかと思います。

さらにその後に行われた建御雷神と、大国主神の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いの描写は、我が国古来の武術の姿を垣間見せるものになっています。
相手となる建御名方神は、千人が引いてやっと動くような大きな岩をひょいと持ってやってたとあります。
これは建御名方神が、相当な力持ちであったことを意味します。

そして、
「ワシの国に来て、こっそり話をするのは誰だ!」と問い、
「ワシと力比べをしようではないか」と申し出ると、
「まずはワシが先にお主の腕を掴んでみよう」と、建御雷神の手を取る。
すると建御雷神の手が、一瞬にして氷柱のような剣に変わり、建御名方神が恐れをなして引き下がったとあります。

今度は建御雷神が、
「お前の手を取ろう」と提案して手をとると、その瞬間、建御名方神は、まるで葦の束でも放り投げるかのように、飛ばされてしまいます。飛ばされた建御名方神が逃げると、それを遠く諏訪まで追って行って降参させています。

古事記のこの描写は、後に武術を意味する古語で「手乞(てごい)」と呼ばれるようになります。
手乞は「我が国の相撲(すもう)のはじまり」とも言われますが、力と技のぶつかりあいである相撲よりも、これもまた日本の古武術をそのまま紹介しているものと言うことができます。
なぜなら日本の古武術では、相手に触れられれば、触れられた場所がそのまま凶器のようになり、また、相手に触れれば、その触れた部位を、そのまま相手の急所のようにしてしまうからです。

アニメの「北斗の拳」では、「経絡秘孔をピンポイントで突く」といった描写がなされていますが、それはアニメやマンガのなかでの話です。
実践で動く相手を対象に、ピンポイントでツボを突くというのは、現実にはよほどの練達者でも難しいものです。

ですから日本の古武術では、相手に触れたその場所を秘孔にしてしまいます。
また、相手に触れられれば、その瞬間に触れられたところを凶器に変えてしまいます。
そして、気がつけば、遠くに投げ飛ばされてしまいます。

これは、実際に体験した人でなければなかなかわからないことかもしれません。
が、実際に、腕が、手が、鋭利な剣となり、また相手をまるで紙人形でも倒すかのように、投げ飛ばしてしまうのです。

記紀が書かれたのは、いまから1300年前です。
建御雷神の戦いは、まるで魔法のような武術によって建御雷神が勝利した物語ですが、古事記が書かれた1300年前には、すでにこうした、まるで魔法のような武術が実際に存在していたことを示しています。
そしてその武術は、現代もなお、実在しています。

ひとつ経験談(体験談)をお話します。
それはある古流の武術家の先生の道場を訪問したときのことです。
先生から抜身の真剣を渡され、「この刀で私に打ちかかって来なさい」というのです。
いくらなんでも真剣ではこちらが怖いので、「では木刀で」ということになったのですが、全力で大上段から先生に面打ちを仕掛けて来いというのです。
これは恐ろしいことです。
下手をすれば先生に大怪我をさせかねない。
だから遠慮したのですが、
「構わないから全力で打ちかかってきなさい」と、こうおっしゃる。

そこまで言われるなら、相手は先生なのだしと腹を決めて、言われた通りに全力で上段から先生に面を打ち込むことになりました。
先生は防具すら付けていません。
手に木刀も持っていません。
つまり何も持っていません。
だから真剣白刃取りのようなことをするのかな、と思いながら、面を打ち込みました。

自慢するわけではありませんが、私も(学生時代のことですが)多少の心得はあります。
面打ちの速さには、多少の自信もあります。そこで(本当は怖かったけれど)丸腰の先生に向かい、すり足で距離を詰めながら「エイッ」と木刀を振り下ろそうとしました。
ところがその瞬間、筆者は凍りついてしまいました。

先生が腰をすこしかがめて、手刀を突き出したのです。それは、ただ手刀を、顔の少し前に突き出しただけです。手刀は確実に私の喉元をうかがっていました。

その結果何が起こったのかというと、振り下ろそうとした私の木刀が停まりました。そして身動きがつかなくなりました。どうしてよいかわからず、そのまま固まってしまったのです。

固まった私から、先生は悠々と木刀を取り上げました。
気がつけば木刀を打ち込もうとした私は、刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけとなっていました。
その姿勢のまま木刀を取り上げられ、その姿勢のまま固まっていました。

この間、ほんの一瞬のことです。
そしてこれが日本古来の武術の凄みだと理解しました。

何が起こったのかは、いまだによくわかりません。
ひとつの理解は、肉体を使って木刀を振り下ろそうとした私は、霊(ひ)を抜かれてしまったのかもしれないということです。
人は霊(ひ)の乗り物です。
霊(ひ)を抜かれると、肉体の動きは停止してしまいます。
そして肉体が停止しているから、先生は悠々と、固まっている私から木刀を奪い取った。
その間、私の肉体は、ただ固まっているだけった・・・・ということかもしれません。

これは筆者が実際に体験したことですが、そこには、スポーツ化した現代武道とはまったく異なる、日本古来の伝統的武術がありました。
そしてその武術は、こうして経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
そしてそれは、いわゆる格闘技とは、まったく一線を画する世界です。

 ***

以上が拙著『武人の日本史』に書いた文章です。

ひとつだけ補足します。

縄文時代は、いまから1万7000年前に始まり、3000年前まで、なんと1万4000年も続いた時代です。
縄文時代の遺跡は、全国に数万箇所あり、その発掘も進んでいますが、その1万4000年間に、戦争によって多くの人命が奪われたことを証明する遺跡は、なんとひとつもありません。

そこで思うのです。

いくら平和な時代であったとはいえ、人間の織りなす世の中です。
喧嘩もあれば、争いもある。
ときには村同士での相克もあったことでしょう。
けれど、武器を用いて人を殺めたことを証明する遺跡や人骨が、いまだにひとつも出てこない。
このことが何を意味しているか、ということです。

そこにひとつの仮説が成り立ちます。
縄文時代には、体術としての武術がものすごく発達していたのかもしれない、という仮説です。

合気道といえば塩田剛三氏が有名ですが、仮に塩田氏が二人いたら、これは戦いになりませんし、怪我もしません。
合気道は、大東流合気柔術から明治時代に別れた流派ですが、その大東流の歴史は、平安末期の新羅三郎義光にまで遡ります。
その武術が甲州武田家に伝わり、武田氏が滅んだあと、その流派を会津藩が受け継いで幕末に至りました。

では新羅三郎義光の武術は、どこから来たのかと言うと、これがそれ以前の律令時代から続く武術に依るとされます。
実際、律令時代に行われた遣隋使、遣唐使では、使節団には人格高潔、学問優秀、背が高くてイケメンという条件の他に、武術に秀でていることが選ばれる条件となっていました。
つまり、聖徳太子の時代の小野妹子は、そのまま武芸の達人であったわけです。

我が国の歴史を調べてみると、矛(槍のこと)は、天の沼矛に象徴されるように、創生の神々の時代からそれは存在しています。
また古事記や日本書紀の神代には、弓も登場します。
縄文時代の遺跡には、なるほど、弓も矢も、矛も出土します。

ところが不思議なことに、剣は出土しません。
剣は、接近戦で用いるものですが、接近して戦おうとするなら、体術で霊(ひ)を抜かれてしまうのです。
これでは剣は用いようがない。

応神天皇の頃、秦の始皇帝の一族が帰化して秦氏となっていますが、彼らはチャイナの戦国乱世からやってきましたから、剣や槍を使います。
彼らは応神天皇から許可を得て、薄い絹の織物や武術を教えるために全国諸国を巡るのですが、そのときに村の若者達に剣や槍の使い方を教え、このことが原因となって、たくさんの秦氏(八幡)を祀る神社として、八幡神社が全国に創建されています。

日本武術の歴史は、とてつもなく古いのです。

※この記事は2022年9月のねずブロ記事を大幅に加筆したものです。

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