コンタクトレンズをお使いの方は多いと思いますが、実はコンタクトの歴史はけっこう古くて、記録にあるのは1801年、日本では江戸の中期で、ちょうど高田屋嘉兵衛が択捉島(えとろふとう)の開拓をした頃、英国の物理学者トマス・ヤングがコンタクトレンズの実験を行っています。

トマス・ヤングといえば、弾性体力学の基本定数ヤング率を発見したり、エネルギー (energy) という物理用語を最初に用いてその概念を導入、あるいはピアノの調律法のヤング音律を考案したり、エジプトの象形文字の解読なども手がけたりたりした、ひとことでいえば、まさに天才と呼べる人です。

名称のコンタクトの方は、少し遅れて、ドイツの生理学者のフィックの甥が名付けた「Kontaktbrille」からきています。
そしてそのフィックが、明治20(1887)年に、ガラス製のコンタクトレンズを作成しています。

もっともこのころのコンタクトは、まだ度はありません。
度がつけられるようになったのは、昭和11(1937)年ですから、ほんの最近のことです。

日本では、昭和24(1949)年に、名古屋大学病院の水谷豊博士が、日本初の臨床実験を行っています。
水谷豊博士というのは、愛知県名古屋市出身の方で、生まれは大正2(1913)年です。
もともと眼科医の家庭に生まれ育ったのですが、三男の末っ子だったため、後に水谷家の養子となりました。

幼いころからとても勉強好きな子で、40度の熱があっても、教科書を話さなかったといいます。
そして地元の旧制第八高等学校を経て、名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)を卒業し、大学の付属病院の眼科医になりました。

さて、昭和24(1949)年、まだ戦後の焼け野原からようやく復興の兆しが見え始めたくらいの頃、この年の11月に、水谷医師のもとに、ひとりの高校生とその母親が訪れました。
高校生を診察してみると、右眼、左眼ともに視力は0.1に満たない。
病名は「円錐角膜」と診断されました。

「円錐角膜」は、眼球の角膜の中心部が円錐状に突起してしまう病気で、物が変型して見えたり、二重に見えたり、眩しく見えたりする病気です。
人種によらず1万人に1人くらいの発症率の病気です。
この病気は、角膜そのものの異常ですから、通常の近視と違って、メガネでは矯正できません。

水谷医師は、処方に困ったのだけれど、「成績も落ち、神経質になっている。家庭も暗くなっている。」という親子の悲痛な訴えに、ドイツの医学書に、ガラス製のコンタクトレンズで円錐角膜の患者の視力が矯正できたという記事があったことを思い出します。
そして「似た物を作ってみましょう」と返答をしたのです。

水谷博士は、コンタクトレンズの材料として、当時出回り始めていたプラスチックを使うことを思い付きました。
プラスチックならガラスのように割れることもなく安全性が高いからです。

ちょうどこの頃、アメリカでプラスチック製のコンタクトレンズが作られ始めていたのだけれど、戦争直後でまだ占領下にあった時代です。
そんな情報は水谷医師のもとには届きません。

水谷医師は、知り合いの歯医者に相談して、プラスチック製の義歯を作る技術を教えてもらいました。
これは、型を取ってプラスチックを成形する技術です。
そして毎日の勤務を終えた後、自宅の台所で100度近い熱湯を使ってプラスチックを成形し、レンズを切り出す作業に悪戦苦闘します。

この時代、戦災で目をやられた人は多く、眼科医にかかる患者の数もものすごく多かった。
しかも、眼科医といえば、極度に神経を使う仕事です。
通常の勤務だけでも、そうとう疲れるものです。

それを水谷医師は、たったひとりの高校生の患者のために、夜な夜な睡眠時間を削って、コンタクトレンズの試作をし続けたのです。

36歳の医師とはいえ、終戦直後の決して栄養状態の良くない時期のことです。
毎日大学病院を訪れるたくさんの患者を相手にしながら、たった一人の患者のために睡眠時間を削ってする日々は、大学病院側からすれば、決して望ましい姿とはいえません。

水谷医師は、大学病院を辞めて眼科医を開業し、日中、患者の手当をしながら、それでも毎夜、コンタクトレンズの作成に心血を注ぎました。
そして1年半が経った昭和26(1951)年の春、ようやくコンタクトレンズが完成したのです。

水谷医師は、軽い麻酔をかけながら、患者の高校生に約束通りコンタクトレンズを装着させました。
矯正された視力は、なんと右眼0.9、左眼0.4という驚きの結果となりました。
患者が視力検査表を暗記しているのではないかと疑ったほどだったそうです。
これが、日本で最初にコンタクトレンズが完成した瞬間でした。

コンタクトレンズの最初の使用者となったこの高校生は、後に公務員となって無事に暮らし、後年、テレビ番組「トリビアの泉」に出演した際に、「目の前が明るくなり、感動した」とコメントしています。

その後、水谷医師は、昭和33(1958)年に、兄の加藤春雄と組んで、コンタクトレンズメーカーである「合名会社日本コンタクトレンズ研究所(株式会社日本コンタクトレンズ、略称:ニチコン)」を創業しました。
そして以後、コンタクトレンズの普及に努めるとともに、酸素透過性レンズや角膜疾患用レンズの開発などの改良を進め、コンタクトレンズの発展に貢献しました。

水谷豊博士は、昭和50(1975)年には、日本医師会最高優功賞を受賞、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれるようになり、平成3(1991)年、78歳で永眠されました。

いま、たくさんの方が、コンタクトレンズのお世話になっていますが、そのコンタクトレンズには、たったひとりの高校生のために、夜な夜な心血を注いで戦った、ひとりの青年医師の心の戦いがありました。

どんな成功も、はじめの一歩は必ず
「誰かのために」
から始まります。
それ以外にも「論点ずらし」をはじめの一歩にした国や民族もありますが、千里の道も、はじめの一歩の踏み出す方向が、ほんのすこしでもズレていたら、千里先には大きな過ちが待っているものです。
だからこそ、はじめの一歩は、「誰かのために」という誠意と努力から始めなければならないし、「誰かのために」であるから、その先に成功があるのだと思います。

そして成功のために、かならず付いて回るのが、その前にある苦労です。
そしてその苦労が追い詰められたものであればあるほど、あきらめずに頑張り抜いた先に、大きな成功があります。
なぜ成功するのかといえば、その苦労が誰かひとりのために役立とうという誠実と誠意に基づくからです。
誰かひとりに役立つものであるならば、それが千人にひとり、万人にひとりに対して役立つものでしかなかったとしても、いずれは必ず多くの人々に受け入れられ、役立っていくことができるのです。

どこまでも誠意誠実をつらぬくこと。
それが嘘偽りのない正しい選択であれば、必ず神仏はみていてくださる。
そんな昔から言われていることを、水谷博士のコンタクトレンズはあらためて教えてくれています。

一方、たいへん残念なことに、水谷博士が創業した株式会社日本コンタクトレンズは、2016年に倒産してしまいました。
その後、民事再生の手続きを取りましたが、結局昨年(2018年)5月に破産に至りました。
原因は、使い捨てタイプのコンタクトレンズの普及に出遅れてシェアを失ったことによるといわれていますが、それは表層的な見方ではないかと思います。

水谷博士の行った誠意誠実は、どこまでもひとりのために役立とう、困っている人をなんとかしようということにありました。
それが企業化していき、コンタクトレンズの市場の広がりとともに業容が拡大し、いつのまにか売上が目的となり、誠意誠実が、個々の社員のなかにはあっても、企業としてはやや失われていった。
もっと人々に役立つためには。
もっと利用者に喜ばれるためには。
もっと顧客に安心して利用していただくためには。
そういった、企業としての原点を失った(関係者の方、ごめんなさい)ところに、失敗の本質があったのではなかったかという気がします。

過去の栄光にしがみついても、結果が出ることはありません。
未来の夢ばかりを追っても、良い結果は生みません。
いま、この瞬間に、どれだけ誠意をこめて、多くの人によろこばれる仕事をするのか。

知恵も知識も神々からの授かりものです。
授かるためには、この瞬間にどこまでも誠実であろうとする姿勢こそが求められる・・というのが古事記の教えです。
ここは水谷博士の誠実とともに、私達がいまを生きるうえにおいても大切な事柄だと思います。
そこから外れると天罰を受けます。
水谷博士と、その後のコンタクト社は、そのことを教えてくれているのではないでしょうか。

※参考:日本で最初のコンタクトレンズの話
http://www.nipponcl.co.jp/comp/co03.html

※この記事は2011年9月のねずブロ記事のリニューアルです。

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