法はとても大切なものです。
日本は法治国家です。
大学でも、法学部はたいていの大学にあります。
法を学んで司法試験や司法書士試験にパスすれば、法律家としてそれなりの未来も拓けますし、国も法によって形作られています。
けれど、いまの法は、果たして本当に進んだカタチといえるのかは、また別な問題です。

法は大きく分けると、刑事法と民事法があります。
刑事法は処罰のための法です。
民事法は民生用の法です。
ここから派生して様々な法があります。

大昔の日本では、大宝律令、養老律令のように、律令制度が敷かれていました。
律令というのは、律が刑事法、令が民事法です。
学校では、
「だから古代においては律令政治が行われていた」
などと教わります。

ところが大宝律令にしても養老律令にしても、、民事法である令は普及しましたが、刑事法である律は、内容の詳細が決められないまま何百年も過ぎ去り、完成したのは明治15年(1882年)のことです。
それもフランス刑法をほぼそのままパクったものを刑法化しています。
このためできた当初から政府内にまで不満の声が続出。
ようやく完成したのが、明治40年(1907年)、それもドイツ刑法をベースに西洋のあちこちの国の刑法をかじって作られたのが、現行の刑法です。

しかし何をもって罪とするかは、その国の文化が影響します。
早い話、人肉を食べることは我が国では禁忌ですが、それが普通のことという国もあるのです。
その意味で列国の刑法をただパクっただけの刑法が日本に馴染むはずもなく、いまだに刑法改正案が議論の対象になっているくらいです。
要するに、根本的に我が国に刑法がうまく馴染まないのです。

ではなぜ、我が国では刑法がうまく馴染まないのでしょうか。

律令時代の律の制度は、Chinaの王朝の制度に倣(なら)ったものです。
Chinaでは日本と逆で、むしろ律令は刑罰のための「律」が中心です。
民事法である令は補完的なものにすぎないし、むしろ政治によって破られるのがあたりまえのものでした。

ところが日本では、「律」が施行されず、むしろ「令」ばかりが、広がったわけです。
これは不思議なことです。
どうしてでしょうか。

実はここに法のもつ基本的な問題点があります。
刑事法は結局「起きた結果を裁く」ものだという点です。
つまり刑事法は、問題が起きるまでは対応せず、問題が起きてから、はじめて機能するのです。

隣の家の柿の木の枝が、我が家の敷地内に伸びてきたので、境界の内側にある柿の実を取って食べた。果たしてその柿は、我が家のものか、隣家のものか。
こうした問題は民事の問題です。
人々の生活には、様々なトラブルがつきものであり、それらのトラブルを未然に防ぐために民事法があります。

人が生きて生活していれば、必ずトラブルがあります。
そうしたトラブルを予測し、あらかじめ、「この場合はこのように処理する」と決めておくことは、平和で安定した統治を実現するうえで、とても大切なことです。

ところが刑事法の「律」は違います。
刑事法には処罰がありますが、その処罰は、事件や事故が起きてからしか発動しません。
たとえば盗人が、ある家に強盗に入って捕まった。
この場合も、強盗が行われてからでしか、刑事法が発動することはありません。

もっと生臭く言うなら、強盗や強姦や殺人が行われれば、犯人を逮捕して裁くけれど、残念なことに、強盗や強姦や殺人が「行われた後」でなければ刑事法は発動しないのです。

犯罪が起きれば、その被害者は不幸です。
被害者の家族にとっても、周囲の誰にとっても不幸です。
同様に加害者自身も、加害者の周囲の人たちも、みんな不幸になります。

そして、少し考えたら誰にでもわかることですが、「そうした不幸が起きてからでなければ裁くことができない」というなら、その国はとっても不幸な国です。
なぜならその国は、犯罪が起きること自体は認めてしまっていることになるからです。

日本は、神話の昔から人々が八百万の神々と規定された国です。
誰もが神様の子孫であり、神様になるための霊(ひ)を持っていると考えられてきた国です。
ですから日本では、民衆の幸せこそが国の幸せであり、民衆が豊かに安全に安心して暮らせることを、国の柱としてきたという国柄を持ちます。

そうであれば、犯罪はあくまで「未然に防ぐもの」であり、起きてからでは、対策があまりに遅いということになります。

以前、川崎市で中一児童が殺害されるという事件がありました。
もし江戸時代にこのような事件が起これば、川崎の治安の責任者である川崎の町奉行は切腹です。
なぜなら川崎の町奉行は、そのような悲惨な事件が起こらないようにするために必要なありとあらゆる権限が与えられているからです。

権限が与えられていながら、実際に事件が起きてしまった。
では、その起きた事件の責任は誰にあるのでしょうか。
もちろん、加害者を捕縛し処罰することは大切です。
けれどそのような事件を未然に防ぐことができなかったことは、処罰の対象にならないのでしょうか。
処罰がないというなら、それは責任がない、ということです。
権力権限がありながら、責任がないというのなら、それはあまりに無責任です。
そして無責任を放置すれば、世の中は必ず歪みます。

だから責任者の町奉行が切腹になったのです。
自ら腹を切れば、奉行のお家は安泰です。
奉行のセガレが、奉行職を引き継ぐことになります。
けれど奉行が、なんのかのと言い訳をして腹を斬らないなら、江戸表から使いがやってきて
「上意でござる。
 腹を召されよ」
ということになります。

この場合は、お上の手を煩わせたことになりますから、奉行切腹後、お家は断絶となり、妻子は明日から路頭に迷うことになります。
それが江戸社会の仕組みです。

なぜそのように考えられたのかといえば、答えは明白です。
「責任と権限」は、常に一体だからです。
権限があるから、責任があるのです。
責任があるから、権限があるのです。

強盗が行われてから処罰するのでは、権限者は責任をまっとうしたことになりません。
なぜなら強盗などの犯罪によって、民の生活が脅かされることがないようにするために、権限を与えられているからです。
権限があるのに、強盗の発生を抑止できなかったのなら、責任を問われるのは当然です。

昔の日本に「律」が普及しなかった理由がここにあります。
犯罪は「起きてから対処する」のではなく、「未然に防ぐもの」と考えられていたのです。

奈良・平安時代には死刑が執行されなかったという話は、学校でも教わることですが、死刑が非人道的だから死刑を執行しなかったのではありません。
死刑の執行など起きないように、つまり重大犯罪が起きないように、総力をあげて犯罪を未然に防いでいたから、結果として死刑を執行する必要がなかったのです。

現代の日本は、奈良平安の昔の日本よりも、はるかに遅れた社会を営んでいると言わざるを得ません。
現に、日々重大犯罪が起きているのに、誰も責任をとりません。
国会で乱闘騒ぎがおき、女性議員が羽交い締めにして投げ飛ばされるという、明らかな暴力事件が起きてさえ、責任はうやむやです。

しかも現代刑法は、犯罪を犯した者を取り締まり処罰するだけです。
刑法に書かれていなければ、明らかにそれが犯罪であっても、放置されます。
それが果たして、人々のための世の中といえるのか。
実はここに、法治主義の限界があるのです。

米国の場合、トップを決める選挙で大規模な不 正があっても、処罰できません。
米国は移民の国であり、歴史伝統文化を異にする人たちが、法のもとに平等であることを国の中心に置いている国です。
そして法による裁きでは、判決が確定するまでは、どんな犯罪行為があったとしても、それは推定無罪です。
しかもハインリッヒの法則で、実際に刑罰を受けることになるような事案は、不正全体の3000分の1です。
こうなると選挙では、不 正をした者が勝ちとなりますし、そこで行われた不正は、判決が確定するまでは不正ではないのです。
つまり日本人にとっての不正という概念と、米国民にとっての法的な不正では、その概念が異なるのです。

ところが日本は、法に書いてあろうがなかろうが、判決が出ようが出まいが、誰も観ていなくたってお天道様が見ていらっしゃるという国柄です。
しかも何が不正で、何が不正でないのかは、長い歴史伝統文化の中で、ごくあたりまえに常識化しています。

捕まって犯罪が確定するまでは推定無罪だということは、捕まらなければ何をやっても不正でも犯罪でもないということです。
「捕まらなければ何をやっても不正でも犯罪でもない」という国柄と、
「誰も観ていなくたってお天道様が見ていらっしゃる」という国柄と、
果たしてどちらか民衆にとって幸せな国といえるのか。

冒頭に「なぜ我が国では律が広がらなかったのでしょうか」と問を投げさせていただきました。

ここまでお読みになられた方には、もう答えは明らかであろうと思います。
「犯罪者に罰を与えるための律」は、犯罪そのものを抑止することに注力することによって、事実上、ほとんど利用価値がなかったからです。

みなさまは、いかが思われるでしょうか。
次々と起こる犯罪に厳罰をもって対処する国と、
昔の日本のように、世を挙げて犯罪そのものを発生させない国と、
どちらが安心して住める、住みよい国といえるのでしょうか。

前者は、悪いことをする人にとっては、捕まりさえしなければ天国です。
けれど、一般の普通の人にとっては住みにくい国です。
後者は、道徳に縛られますから、一般の人々にとって、ちょっと窮屈かもしれません。
けれど、弱い者ほど安心して住める国です。

これは価値観の問題かもしれません。
けれど筆者は、たとえ少々窮屈であったとしても、後者の国に住みたいと思いますが、みなさんはいかがでしょうか。

※この記事は2015年9月のねずブロ記事のリニューアルです。

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