神社とは、お願いをしに行く場所なのでしょうか。それとも、自分自身の在り方を確かめに行く場所なのでしょうか。本殿の奥に安置される御神体が、なぜ「鏡」であるのか。そこには、日本人が古くから抱いてきた、神との距離感と、生き方の姿勢が映し出されています。神は答えを与えず、ただ静かに問いを返す。御神体としての鏡が映してきた、日本文明の深い知恵について考えてみたいと思います。

神社にお参りに行くと、本殿の奥に「御神体」が安置されています。
その御神体が、剣であったり、玉であったり、そしてときに「鏡」であることを、不思議に思ったことはないでしょうか。

神さまをお祀りしているのに、なぜ「神の姿」ではなく、鏡なのか。

実はこのことは、
「日本人が神をどう捉えてきたか」
という視点で見ると、とても腑に落ちるものとなります。

鏡は、何かを語りません。
教えも、命令も、答えもくれません。
ただ、そこに立つ自分の姿を、ありのままに映し返すだけです。

拝んでいるとき、そこに映っているのは、神の姿ではありません。
つまり自分自身がいま、

・驕っていないか
・焦っていないか
・怖れに飲み込まれていないか
・ちゃんと立てているか

を、鏡から自然と問い返されることになります。

人は、「肉体」を持ち、「時間に限りのある人生」を生きています。
だからこそ、
答えは外から与えられるものではなく、
鏡の中・・・つまり自分自身の中にしかない。

現代社会では、
「誰かが答えを出してくれる」
「どこかに正解がある」
「願いを叶えてくれる」
といったことが、いつの間にか当然のように思われています。

神社にお参りすることも、
いつしか
「お願いをしに行く場所」
として理解されがちになっています。

けれど本来、日本の神社は、
何かを「もらいに行く場所」というより、
「自分の姿勢を整えに行く場所」だったのではないかと思うのです。

日本の神々は、
人の代わりに生きてくれる存在でも、
指示や命令を出す存在でもありません。

ただ気配としてそこに在られ、
人が自らの在り方を正すための「鏡」として在り続けてこられました。

人が「どう生きるか」は、他でもない自分自身が引き受けていくしかありません。

御神体が鏡であるということは、
その覚悟を思い出させるための、
日本が万年の単位の歴史の中で培ってきた、
静かで揺るぎない知恵だったのではないでしょうか。

※このテーマは、
「なぜ日本では偶像を作らなかったのか」
「なぜ祈りよりも“姿勢”が重んじられてきたのか」
といった文明論につながっていきます。
この続きは、倭塾サロンで、もう少し丁寧に書いてみようと思います。

倭塾サロン → https://salon.hjrc.jp/?p=3339

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