国をつくるのは、制度でも軍事力でもありません。ましてや血筋だけでもありません。どのような理想を掲げ、どのような姿勢を選び続けるのか――その積み重ねこそが、国の未来を形づくります。
後漢最後の皇帝・孝献帝の子孫が日本へ帰化したと伝えられる史話を通して、日本という国が大切にしてきた「姿勢」の意味を考えてみたいと思います。

日本に帰化した漢の皇帝と日本人の姿勢

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国が長く続くかどうかを分けるものは、制度でも軍事力でもなく、突き詰めれば「姿勢」だと思うことがあります。
理想に向かおうとする姿勢を、その国の人々がどれだけ持ち続けられるか。
今日は、そのことを教えてくれるひとつの史話をご紹介します。

日本は初代神武天皇によって、長期備蓄のできるお米を用い、全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように支え合う国として建国されました。
第10代崇神天皇の御代に疫病が克服されて誰もが安心して暮らせる国の土台が築かれ、
第16代仁徳天皇による大規模な土地造成によって、日本は東亜の大国となっていきます。

その仁徳天皇のひとつ前、第15代応神天皇の御代に、日本にひとつの一族がやってきました。
漢王朝最期の皇帝、孝献帝(生前の名は劉協)の直系の子孫です。

『三国志』をお好きな方ならご存知の通り、後漢の末期、董卓に擁立された劉協は、董卓の死後、曹操の庇護を受けます。
魏は後漢の皇帝を担ぐことで、中華統一の正統性を主張したのです。

ところが曹操の死後、その子・曹丕は劉協が四十歳のとき、皇帝の座から引きずり下ろし、自ら魏の皇帝となりました。
この皇位の移し方は「禅譲」と呼ばれ、以後、中華における王朝交代の型となっていきます。

ここに漢王朝は幕を閉じますが、劉協自身は生き延び、曹丕によって山陽の地に封じられ、五十四歳の生涯を終えました。
その後、孫の劉康、その子の劉瑾、劉秋と山陽公の地位は受け継がれますが、劉秋は、チャイナの史書によれば、309年の永嘉の乱で匈奴の将軍に殺害されたとされています。

しかし一説には、劉秋は乱の最中に一族を連れて山陽を脱出し、
朝鮮半島を経て、東の海の向こうにある理想郷、扶桑国――つまり日本を目指したといいます。
これが応神天皇の御代のこととされ、日本書紀には
「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」と記されています
(劉協=阿智使主、劉秋=都加使主という同定は、音韻上の一説であり、確定した通説ではないことは申し添えておきます)。

国をつくるのは血筋ではありません
どのような姿勢を選ぶかです。
そこで注目したいのが、この一族が日本に着いてから取った姿勢です。

彼らは帰化して、近江の坂本の地を応神天皇によって与えられ、一族の名を、劉協の「協」の字から「三つの力を合わせる=三津(みつ)氏」と名乗るようになりました。
皇帝の血筋という誇りを捨てたわけではないでしょう。
けれど、その誇りよりも大切なものを、彼らは日本で見つけたのです。

彼らは、日本に住むことを選んだのではありません。
彼らは日本という国の持つ姿勢そのものに同化し、
「帰るところを化える」――つまり日本を末代までの祖国として生きていく、という覚悟を選び取ったのです。

そしてこの三津首氏の系譜から誕生したとされるのが、三津首百枝(みつのおびとのももえ)、後の伝教大師最澄です。(首(おびと)は族長という意味です。)
この系譲についても異説があり、確定した史実としてではなく、そう伝えられているという形でお読みいただきたいのですが、その門下から、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった高僧が輩出したことは、皆様ご存知の通りです。

昨今の学校の教科書は、
「日本は遣隋使や遣唐使を送り、進んだチャイナの文化を学んだ」と教えます。
チャイナが進んでいて、日本は遅れていた、という構図です。

しかしどっこい、史実は逆の傾向を持っています。
日本からチャイナに渡って帰化した人は、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)のようにごく少数しかいません。
仲麻呂は日本への帰国を再三願い出ましたが、あまりに優秀であったために許されず、結局唐に骨を埋めることになりました。
ですからこれはなかば強制による帰化です。他にはほとんど例がありません。
ところが一方で、チャイナから日本にやってきた人々の多くは、そのまま日本に帰化する道を選んでいます。

古代のチャイナにとって、日本は理想の国でした。
蓬莱山、扶桑の国、東瀛、方壷――これらはいずれも日本を指す呼び名です。
さらに「東方の三神山」と呼ばれています。
平和で豊かで、誰もが安心して暮らせる、極楽浄土のような国。
それが当時のチャイナから見た日本の姿だったのです。

だからこそ多くの人々が海を渡ってきました。
九世紀に編まれた『新撰姓氏録』には、当時の氏族のうち三分の一ほどが渡来系であったと記されています。
これを単純に総人口の三分の一と読み替えるのは、研究者の間でも見解が分かれるところですが、かなりの割合であったことは間違いなく、いまで言えば、ご近所の何軒かに一軒は外国からの帰化人だった、というほどの状況です。

それでもなお、平安中期の日本は、紫式部や清少納言が活躍する、平和で豊かで安定した国柄を実現しました。
なぜそれができたのか。
その答えは、「姿勢を育てる仕組み」にあります。

飛鳥から奈良にかけて編まれた日本書紀は、神話の時代からの日本人の理想やものの見方を明文化し、それを国民教育に活かしていく土台となりました。
日本書紀は、出来事を覚えるための本ではありません。
「日本人として、どのような姿勢で生きるか」を伝えるための書として、ご皇室の命によって書かれたものです。

多様な出自の人々が集まっても、日本がなお国としてのまとまりを保てたのは、
「日本人として、どのような姿勢で生きるか」という共通の物差しが、
日本書紀に基づく教育を通じて広く共有されていたからです。

渡来してきた人々の側に「日本という理想に同化しよう」とする姿勢があり、受け入れる日本に「その理想を教育によって示し続けよう」とする姿勢があった。
この両方の姿勢が噛み合って、はじめて多様性は力に変わったのだと思います。

翻って現代はどうでしょうか。
外国のものばかりをありがたがり、自分たちの国を、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる国にしていこうとする気概を、私たちはどこかに置き忘れていないでしょうか。
もし千七百年前、山陽を脱出して日本を目指したあの一族が、現代の私たちを見たら、どう思うでしょう。

伝教大師最澄が開いた比叡山、根本中堂の正面脇に、「伝教大師童形像」という像が建っています。
この像は、昭和12年、全国の小学生がひとり一銭を出し合って建てたものです。
子供のたった一銭が、全国から集まって、いま、立派な銅像になっているのです。

ひとりの姿勢は、小さなものです。
けれど、その姿勢が人から人へ伝わり、世代を超えて受け継がれたとき、
国の理想は、千年、二千年という時間を生き続けます。

時代を動かすのは、制度ではありません。
未来をつくるのは、いつの時代も、人の姿勢なのです。

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