写真、何だと思われますか?
実はこれ、昭和24年に発掘された「槍先形尖頭器」と呼ばれる石器です。
長さ約7cm、幅約3cmのこの石器は、薄緑色に透き通る黒曜石で出来ています。
中心部に白雲のようなすじが入っていて、神秘的な美しさです。
この石器は、日本で発見されたものです。
群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土しました。
時代は、いまから約3万年前の旧石器時代のものです。
そして、人の手によって磨きがかけられた石器としては、これが「世界最古」の石器です。
そしてこの石器は、単に旧石器時代の石器というだけでなく、「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」でもあります。
日本以外では、こうした石器は、オーストリアのヴォレンドルフ遺跡出土の石器が、約2万5000年前のものとされています。
日本の磨製石器は、それよりも5千年も古い。
それ以外の石器となると、ロシアのコスチョンキ(約1万4000年前)、アフォントヴァゴラ(約2万年前)、オーストラリアのナワモイン(約2万1500年前)、マランガンガー(約2万9000年前)などがありますが、いずれも人が石を削って作ったものではなく、その形の自然石を利用したものになります。
日本の加工技術は、なんと3万年の歴史があるなんて、なんだかすごいですよね。
技術大国日本の象徴のような気がします。とても感動的です。
ちなみに青森県の三内丸山遺跡といえば、いまから5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡なのですが、ここでは多数の栗やクルミ、トチなどの木の栽培跡が確認され、有名な六本柱建物跡なども発見されています。 六本柱建物(復元)
これだけ大きな木造建築物を建造するには、まず大木を伐採しなければなりませんが、ではどうやって大木を伐っていたのかというと、これが実におもしろい。
最近では、森の木を伐採するときには、チェンソーや電動ノコギリを使います。
けれどチェンソーや電ノコは、また誕生してまだ60年ほどの歴史しかありません。なにせ戦後生まれの道具です。
ではそれ以前はどうやって森の木を伐採していたのかというと、斧やマサカリ、ノコギリで木を切っていた。
斧もノコギリも鉄製ですが、ノコギリが普及したのは、日本でいったら鎌倉時代以降のことです。700年程度の歴史です。
マサカリかついだ金太郎は、大型の斧を手にしていますが、そうした鉄製の斧が誕生したのは、いまから1700年ほど前の古墳時代頃のことだといわれています。
では、それより以前は、どのような道具で木を伐採していたのかというと、これが実は石でできた石器です。
どうやったかというと、まず木の根もとで火を起こして、伐りたいところを焦がす。
そして焦がしたところを小さくて先の尖った石斧で、すこしづつ大木を削り、ついには木を伐り倒したのだそうです。
たいへんな時間のかかる作業ですが、そうやって伐り倒した樹木は、今度は枝を打ち払い、必要な長さに切って、家屋の建築や船の製作などに使われていました。
このときに使われた石器が、冒頭の写真のような先の尖った小型の石器だったわけです。
言い換えれば、3万年前というとほうもない昔の日本人は、先の尖った小さな道具一本で、大木を倒し、枝を打ち払い、適当な長さに加工して、さまざまな道具や建物建築に使用していたというわけです。
ちなみに加工をともなわない単なる「石器」は、日本で12万年前のものが発掘されています。
人類史は、いまから200年前に人類が猿人から分化し、15万年前に現世人類が誕生したとされています。
ミトコンドリアイブの解析から、15万年前の人類の始祖は、アフリカ中央部にいた、というのが最近の研究成果だと、我々は学校で教わります。
その人類が、いまから5万年前、150人くらいの集団で、サウジアラビアのあたりに移住する。
いまのサウジは砂漠ですが、5万年前はそこは緑の大地だったのだそうです。
一節によれば、その地はエディエンと呼ばれ、そこで人類は豊かに暮らしていたといいます。そうです。エデンの園です。
ところが、人類は食事のために火を使ったため、森の木々が燃やされ、森林が枯渇し、あたりが砂漠化して人類はエディエンを追い出された。
つまり、火=赤=リンゴ、というわけです。
そして世界に散った人類は、一部はヨーロッパ方面に向かって白人種となり、一部はバイカル湖のあたりに向かってモンゴロイドとなった、のだそうです。
ところが3万年ほど前に地球気温が急速に低下し、このためバイカル湖辺りのモンゴロイドは、一部はベーリング海峡を渡って北米大陸に向かい、一部は太平洋を南下して日本人となったのだという。
つまり日本に人が住み始めたのはいまから3万年前だ、というわけで、その3万年前の世界最古の磨製石器が日本で出土した。
これが冒頭の写真となるわけなのですが、ところが、日本で、12万年前の石器が出土しちゃった。
こうなると日本て、いったいどういう国なのだろうと、なんだかワクワクしてしまいます。
もうひとつ、冒頭の磨製石器ですが、先の尖った形状の道具を使って、木を加工するという技術。
その技術の産物として、加工した磨製石器が出土したわけなのだけれど、このことについて、すごくおもしろいと思うのですが、奈良の法隆寺の五重塔です。
磨製石器は3万年前のもの、法隆寺の五重塔は世界最古の木造建築物とはいえ、1300年ほど前の建造物で、時代は全然違うのだけれど、耐震性や防火設備をそろえた、あの芸術品とさえいえる五重塔の建築は、釘を一本も使わず、ほとんど「槍(やり)カンナ」と呼ばれる先の尖ったノミのような道具一本で、あれだけの構造物が建設されています。
槍カンナというのは、もちろん鉄製なのだけれど、その形状は、そのまま冒頭の磨製石器が鉄になった形状のものです。
おもうにそうした日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器という先の尖った小型の道具を活用する技術として、日本ではものすごく古くて長い歴史と伝統の中で培われた技術であるように思えるのです。
そうでなければ、とつぜん降ってわいたように法隆寺の複雑な仕様の建築物など、突然できるものではありません。
言い方を変えると、世界最古の磨製石器が出土した日本は、世界最古の石を加工した技術国家であり、かつ、先の尖った道具一本で様々な木造加工技術を開発した技術国家でもあったといえるのです。すごいことです。
なにせ日本の木材の加工技術には、3万年の歴史があるということだからです。
この磨製石器をめぐって、3つめの感動的なお話が、この石器の発見をめぐるお話です。
冒頭の写真でご紹介した群馬県みどり市の岩宿遺跡で発掘されたこの石斧は、発見されたのが、戦後間もない昭和21(1946)年のことです。
発見者は相沢忠洋(あいざわ ただひろ)さんという方で、東京、羽田のお生まれの方です。
8歳のとき、鎌倉に転居し、そこで考古学に目覚めたのだそうです。
鎌倉といえば、日心会の故bbさんが鎌倉ですが、彼女も考古学や民俗学が大好きで、主婦でありながら研究活動をずっと続けておいでだった。
鎌倉という街には、なにかそういう民族や考古に人を目覚めさせる力があるのかもしれません。
鎌倉に転居した相沢忠洋さんですが、翌年、彼が9歳のときに両親が離婚してしまいます。
彼は、父とともに、父の実家のある群馬県桐生市に転居するのだけれど、家が貧しく、その年、商家に丁稚奉公に出されてしまう。
昭和19年、相沢忠洋さんは18歳で召集令状をもらい、海軍に入隊します。
そして駆逐艦「蔦」の乗組員となる。
昭和20年、終戦によって、桐生に復員するけれど、子供の頃からの考古学への夢が捨てられず、考古学の研究の時間が採りやすい納豆の行商をはじめます。
そして毎日、納豆売りの行商をしながら、赤城山麓で、土器や石器の採取活動をしていのです。
そんな昭和21年のある日のことです。
世界史に残る重大な発見があった。
そのときの様子が、相沢忠洋さんの自伝である「岩宿の発見」に、次のように書かれています。
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山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。
近寄って指をふれてみた。
指先で少し動かしてみた。
ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。
それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。
じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。
完全な形をもった石器なのであった。
われとわが目を疑った。
考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に!」
私は、その石を手におどりあがった。
そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。
たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。
そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
もう間違いない。
赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。
ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。
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なんだか、そのときの相沢さんの感動が、まるでそのまま伝わって来るかのようです。
けれど相沢さんは、それをすぐには発表しませんでした。
なぜかというと、相沢さんの師匠である群馬師範学校の考古学者尾崎喜左雄先生から、次の大切な教えを受けていたからです。
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趣味の収集をするのか、事実の追究に目標を定めるのか、まず自分でやることにけじめをつけなさい。
事実の追究をするのだったら多くの文献を読み、着実に事実の集積をつみあげていくことが大切です。
事実の集積と学問とは同一であって同一ではない。
事実であってもそれを学問のなかにとり入れるというのは容易ではなく、忍耐と努力、そして着実な勉強が大切です。
そして、考古学という学問は、一ヵ所や二ヵ所の遺跡発掘報告書を仕上げても結論は出せない。
より総合的な考察が必要です。
井のなかの蛙にならず、考古学が好古学にならぬよう、着実におやりなさい。
あなたにもきっと事実の集積はできる。
そのことが学問の基礎となり、勉強ということなのです。
(前出「岩宿の発見」より)
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こうして相沢さんは、ただひとつの石器の発見でよしとせず、同じ場所から次々と数十点の石器を発掘していきます。
ここまでくると、もはや考古学的にも、確たるものとなります。
そこで昭和24年のある日、彼は東大人類学教室と千葉の国府台に出来たばかりの考古学研究所に、心を込めた手紙を書きます。
そして7月27日、東京に出た相沢さんは、明治大学の大学院生であった芹沢長介氏と出会います。
2人はちょうど同じくらいの年頃です。
しかもどちらも北関東の縄文土器や石器を研究する人です。
2人はすっかり意気投合する。
以降、相沢さんは、芹沢さんに会いに行くために、なんと群馬県桐生から東京まで、120キロの道のりを、当時の重たい自転車で、なんどもなんども通います。
午前3時頃に家を出て、到着するのがお昼頃。
それからまた、自転車をこいで帰宅するのですが、最後の到着前が急な上り坂です。
さぞかし大変だったろうと思います。
けれど、そんなたいへんさ以上に、相沢さんの考古学への情熱が高かったのです。
相沢さんが発掘した石器類が、非常に高い価値を持つと直感した芹沢さんは、相沢さんの発見物を、当時明治大学の助教授だった杉原荘介氏に渡します。
ところが渡された石器を見た杉原助教授は、「これはちょっと人工品かどうか疑問です」という。
ただ、調べてみるから、置いて行きなさい、というので、発掘物を置いていったら、しばらくして後、杉原助教授が、文部省で岩宿遺跡での石器発見に関する新聞記者発表を行うという。
その発表原稿を杉原助教授から渡された芹沢長介は、びっくりします。
なんと相沢さんの名前がまったく載っていない。
芹沢さんは、驚いて杉原先生に原稿の訂正を申し入れ、結果発表時には「地元のアマチュア考古学者が収集した石器から、”杉原助教授が”旧石器を発見した」という表現になった。
あまり人のことをあれこれ言いたくはないけれど、時代が昭和24年で、まさに公職追放のまっただ中だった頃であるということを考えると、当時、まともな学者は、みんな公職を追放されていたわけで、そう考えると上のような事態も「さもありなん」と思えてしまいます。
記者会見は行われ、「なんと3万年前の石器が発見され、その石器は当時の日本人が加工して製造したものであり、これが世界最古の磨製石器である」というニュースは、日本の考古学会を震撼させるビックニュースとなりました。
けれど、この発表のどこにも相沢忠洋さんの名前はありません。発見者にさえもなっていませんでした。
これに芹沢さんが激怒します。
「相沢忠洋は単なる情報提供者などではない。石器の発見者であり、日本の旧石器文化研究のパイオニアだ」と、芹沢さんはその後もずっと言い続けてくれました。
ところが、このことが逆に物議をかもし出すのです。
相沢さんは、考古学の大家と呼ばれる人々から詐欺師呼ばわりされ、ひどい迫害を受け、そのためにたびたび住まいをも移さねばならなかったほどにまで追い込まれてしまったのです。
そして迫害する人々は、その地位を利用して、アマチュアである相沢さんの発掘のじゃまをし、遺物を盗み、相沢さんの人格までをも傷つけ中傷し続けました。
狭い世間です。相沢さんは就職もできず、経済的にも追いつめられていきました。
そしてついに相沢さんは、ものすごく古くて誰も住まなくなった農家に住むようになります。
そこを訪れた芹沢さんが、様子を見てびっくりした様子が、いまに伝えられています。
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家の中に畳は一枚もない。
床板がむき出し。
どこで寝ているのかと聞いたら、押し入れだという。
そこで藁(わら)を敷いて寝起きしていた。
布団はどうしたのだと聞いたら、「持っていたのだけれど、中の綿をすべて引っぱり出して遺物の標本箱にしいてしまった」という。
*****
あまりのことに、芹沢さんは、涙がとまらなかったといいます。
そこまで迫害を受け続けた相沢さんなのだけれど、それでも彼は考古学への情熱を失わず、迫害している人々にさえ、「ボクは人間が好きだから」と嘘や中傷への反論もせず、相沢さんは黙々と発掘を続けています。
学歴のない市井のアマチュア考古学者である相沢忠洋さんは、ごく一部のほんの限られた、相沢さんの功績をよく知る人々に支えられながら、地道な研究、発掘活動を続けたのです。
そんな相沢さんが、世間で認められるようになるのは、ようやく昭和42年になってからのことです。
この年、相沢さんは吉川英治賞を受賞しました。
それは彼が最初に石器を発見してから、なんと21年後のことでした。
けれど、ほんとうにすごいと思うのですが、天皇は、こうした相沢さんのお姿を、たいへんたかくご理解なされたのです。
そして平成元年、いまの上皇陛下(当時は天皇)が、相沢さんに勲五等を授与されました。
相沢さんは、決して勲章欲しさに考古学の研究を続けていたわけではありません。
けれど相沢さんの地道な活動が陛下のお耳にまで達したということは、きっと八百万の神々のお耳にまで、相沢さんの活動が達したということなのではないかと思います。
勲五等をいただいたその日、5月22日、相沢さんは63歳という若さで、脳内出血によって他界されました。
告別式の日、相沢さんをずっと支え続けて来た芹沢長介先生は、ハンカチで流れる涙をぬぐいながら、次のように語りました。
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相沢君の一生は苦難の連続だった。
アマチュアだからといってバカにされた。
地元では、行商人のやっていることなど学問ではないともいわれ続けた。
無理に、無理を重ねた結果このように寿命を縮めることとなってしまったのではないだろうか。
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けれど相沢さんの志を継ぐ人々は、故人の遺徳を讃え、群馬県勢多郡新里村に「相沢忠洋記念館」を建立し、彼の遺品や発掘品を展示し、いま、その記念館には、相沢さんの奥さんが就任しておいでになります。
相沢さんの座右の銘は、
「朝の来ない夜はない」だったそうです。
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相沢忠洋記念館
〒376-0131 群馬県勢多郡新里村奥沢537
電話 0277-74-3342
ホームページ
http://www.interq.or.jp/gold/waki/aizawa/index.html
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注)この項では相澤忠洋氏の発見した「槍先型尖頭器」を、あえて「磨製石器」と書かせていただきました。現在の考古学では、「槍先型尖頭器」を「打製石器」に分類しています。しかし、この石器が磨製か打製かという、明確な判別がつくものではありません。日本の旧石器時代には、ヨーロッパなどの旧石器時代にはないとされている磨製石器があるのが特徴で、日本の旧石器文化は世界最古の磨製石器文化であるのは考古学上確かなことです。そして岩宿遺跡からは三万年前のものとされる「磨製石器」が実際に発見されているわけです。私はかねてより相澤氏の発見も「磨製」であるという立場をとっており、また本項の趣旨が日本人の技術史の深さの一面を取り上げるという趣旨のものであることから、あえて本文も「磨製石器」で統一させていただきました。ご理解を賜われれば幸いに存じます。(ねず)
※この記事は2012年1月のねずブロ記事のリニューアルです。