知覧基地から飛び立ち、散華された特攻隊の中に、朝浅人の光山文博(本名・卓庚鉉)大尉がおいでになりました。
その光山大尉の物語が、日本弥栄の会が発行する雑誌『玉響』(平成28年11月号)に掲載されています。
古い記事ですが、編集部と著者のW氏両方のご許可を得ていますので、再掲したいと思います。

特攻に20名ほどの朝鮮系日本人が散華しているのです。
その代表的な人物の一人、光山文博大尉(本名・卓庚鉉)。
日韓併合以降、朝鮮よりも賃金状況の高い日本へ多くの朝浅人が海を渡りました。
戦後に蔓延る「強制連行」や「徴用」などとはもちろん全く別で、当時朝鮮は日本だったのです。
卓庚鉉もその一人で、祖父が朝鮮での事業失敗から一家で京都に移住してきたのです。

創氏改名とは「日本が朝鮮植民地支配の際に、皇民化政策の一環として、朝浅人から固有の姓を奪い、日本式の名前に強制的に変えさせた。これを拒否しようとしたものは非国民とされ、様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた」というような説がまるで定説であるかのように流布されてきましたが、これも事実ではなく、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝浅人が日本名に改名したのです。

卓庚鉉の一家もそれによって光山文博となったのです。

光山は小学校を卒業後、名門であった立命館中学へ進学した事を考えると、優秀な少年であった事が伺えます。
その後陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。
見事、試験に合格し、同校の第一期生となりました。

併合後、日本は朝浅人に徴兵制を適用しませんでした。
早坂隆(ノンフィクション作家)によれば、昭和12年(1937年)、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝浅人志願兵制度」を請願。翌昭和13年(1938年)、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝浅人による兵卒の志願が認められるようになりました。

日中戦争下、朝浅人の志願兵は右肩上がりに増え続けたと言います。
そして彼らは、日本軍が朝浅人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると主張し、少なからぬ朝浅人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望したのです。

そんな時流の中にあって、光山も志願により昭和18年(1943年)10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校しました。
そう、富屋食堂との物語が始まるのです。

そんな光山も他の若き青年たちと同じように、休みになれば富屋食堂に顔を出し、優しく出迎えてくれるトメさんを母親のように慕っていました。
出会って間もない頃、光山は自分が朝浅人だとトメさんに打ち明けました。
当時、朝浅人の民度は日本のそれとは圧倒的に低く、今と同じように問題を起こす事も少なくなく、それに対して日本人にあっては朝浅人を軽蔑する事実は確かにありました。
それは差別でもなく当然の事です。
合わないものは合わない、嫌いなものは嫌いなのですから。

そんな境遇にトメさんは例に漏れず誠心誠意迎え入れます。
むしろ特に光山には気を配っていたようです。
転属した先でも光山はトメさんに便りを綴っていたほどです。

そして昭和19年10月、光山は陸軍少尉を拝命。
しかしそんな中、光山に突然の不幸が届きます。
京都にいる母親が逝去するのです。死に目に会えなかった光山に、父から手紙が届きます。
「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」。

その後光山は何かを決したように特攻を志願するのです。
白人たちは戦線の最前線に植民地兵を配備し、自分たちは戦場を後ろから組み立てているのが常套作戦だったのです。
しかし当時の日本軍は、熾烈な戦場で他の民族を前線に送る事はしませんでした。
日本兵が最前線に立つのです。
それは日本が世界に人種差別撤廃を掲げていた事と無関係ではなかったと思います。

当時光山の志願に対しても上官が何度かそれを確認したのです。
しかし光山の強い意志は上官も心を動かされます。
日本に誇りを持つ光山の父の想い。母親の死。
そして心の支えであった富屋食堂のトメさんたち。
次々と飛び立つ戦友たち。

日本人でも朝浅人でもなく、光山は一人の人間として、男として、後世の未来を背負って飛び立つのです。
「長い間、いろいろありがとう。
 おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。
 俺、ここにいると
 朝浅人っていうことを忘れそうになるんだ。
 でも、俺は朝浅人なんだ。
 長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。
 実の親も及ばないほどだった」

「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。
 だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、
 よかったら、これを形見だと思って取っておいてくれるかなあ」。

光山は形見としてトメに自らの財布を手渡し、トメは自分と娘たちが写った写真を差し出しました。
遠い朝鮮の歌であるアリランを唄う光山とトメさん、そして娘たち。
四人は最後の晩に肩を抱き合うようにして大粒の涙を流しました。

 ***

流鏑馬(やぶさめ)というのは、第59代宇多天皇が896年に源能有に命じて制定されたことがはじまりなどと、いろいろなところに書かれていますが、実は、これはある事実の隠蔽工作です。
では、実際にはいつ流鏑馬が始まったかというと、539年に、第29代欽明天皇が、宇佐八幡宮で、三矢を射たのが実は流鏑馬のはじまりです。
たとえ神事としても天皇が矢を射るというのは、なにやらものすごいことですが、では何のために三矢を射たのかというと、朝鮮半島における高句麗・百済・新羅の三国の乱を鎮めるためでした。

この頃の日本は、すでに天皇を中心とする国民国家が成立していましたが、朝鮮半島は、要するに、上古の昔から反日と親日が入り交じる非常に複雑な場所だったわけで、その朝浅人たちが極めて親日的になったのは、この2千年ほどの歴史の中で、大東亜戦争の終戦までのほんの20年ほどだったわけです。

引用を続けます。

 ***

朝鮮半島における日本統治時代とは1910年から45年までの35年間であり、その日韓併合は欧米の凶悪な植民地支配とは全く性質は異なるものでした。
欧米の植民地支配とは自国の利益のために隷属化し、搾取、暴力の蔓延る支配でした。
白人以外に人権などなく、今で言う家畜のような扱いだったのです。
そのような白人列強の時代の中、李氏朝鮮王朝の腐敗は凄まじく、国民の文化・生活・精神レベルは筆舌に尽くしがたい状況すらありました。

そんな中、日本が朝鮮半島で行った事は、原始的な生活文化から道路、鉄道、大学、病院など全て含めたインフラを整備し、教育を施し、近代化をはかりました。
その累計支援総額は現在の価値ならば約63兆円と言われており、これはあくまでも日本政府の支援であり、官民からの資産は簿外されています。

更に日本は敗戦後1951年9月8日に締結したサンフランシスコ講和条約により在外資産を放棄していますが、その中で朝鮮半島に日本が残した資産価値は、GHQの試算によると現在のレートで約17兆円。
また1965年に日韓基本条約を締結し、日本政府は韓国に対して「無償で3億ドル」「有償で2億ドル」さらに「民間借款として3億ドル」を供与しています。

もちろんこれは経済的な要素であり、それ以上に日本人が朝鮮半島で心血を注いだエネルギーは計り知れません。
もちろん何かしらの利益の為に朝鮮半島に渡るものはいたとしても、世界の植民地ではその国の民族は激減するのが常と言う中、朝浅人人口は35年の間に倍増している事から、植民地支配などと言うものとは真逆のものである事が容易に理解できます。
しかし戦後の極度な左翼的自虐史観が日本国民を覆いつくし、こうした先達の苦労、そしてその愛と勇気はいつの間にか汚名に変わります。

阿部元俊さんは大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。
文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、氏はこのように当時を振り返ります。

「私が朝鮮にいたころ、
 日本人による朝浅人いじめの話は、
 噂としてもまず聞いたことがありません。
 とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、
 日本人が少ないからと珍しがられて、
 地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
 少なくとも水原では私の知る限り、
 日本人と朝浅人とが衝突したとか、
 喧嘩したとか、
 何かのトラブルがあったといった話は
 聞いたことがありません。

 ソウルでもそうでした。
 学校では、
『ここは朝鮮だ、
 我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。
 朝浅人と喧嘩したり、
 朝浅人をいじめたりは
 絶対にしてはいけない』
 と盛んに言われていましたし、
 親からも厳しくそう言われていました。

 私の父は医者で、
 貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、
 それで病原菌をもらってしまいまして、
 腸チフスと赤痢にかかってしまいました。
 父が病院を辞めるときには、
 多くの朝浅人が家にやって来て、
『どうか辞めないで、ここにいてください』
 と泣いて別れを惜しんでいました。

 戦後、日本に帰ってから、
 朝鮮に住んでいた日本人は
 朝浅人をさかんに苦しめたという言葉を、
 当然のようにぶつけられましたが、
 自分の体験からすると、
 いったいそれはどういうことなのか、
 どう考えてもわかりません。
 喧嘩ということだけでなくて、
 問題になるようないじめとか、差別とか、
 一般生活者の間ではほとんどなかったということを、
 私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」

敗戦と同時に日韓併合が終了すると、日本にいた朝浅人の多くが戦勝国民と言い始め、暴力から身を守るすべも失い弱り切った日本人に暴行や拉致、虐殺を始めました。
続く朝鮮戦争では、半島で自国民への暴行や虐殺の嵐が吹き荒れたため、一部の人たちが日本に密航する朝浅人も続出しました。
それらが更に暴力によって日本社会の闇を作り上げ、慰安婦問題を筆頭に様々な捏造を繰り返し、日本の中枢に食い込み利権を固めてきました。

 ***

ということで、記事はまだまだ続くのですが、以上の展開を、いわゆる在ニチ問題と捉えても、おそらく問題の解決はありません。
もっと根が深いのです。

国の形のことを英語で「ネイション」「ステイト」と言います。
「ネイション」は、歴史的民族的な集合体としての国です。
「ステイト」は、政治的組織としての国です。

戦後の日本は、いわば敗戦利得者ステイトです。
戦争を経済として考えると、日清日露戦争の頃は、日本は軍艦も武器も、西欧製のものを使っていました。
日本が日進日露に勝利できたのは、西欧諸国が日本の味方に付いたことが大きく影響しています。

ところが大正時代には、内需拡大のためにと、武器の生産が国内に切り替えられました。
このことは内需を拡大し、結果、大正デモクラシーの日本の繁栄をもたらしたのですが、その一方で、西欧諸国からすれば、実は日本はなんの商売相手にもならなくなりました。

さらに日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で「人種の平等」を語り始めました。
この主張は、人道的には正しい主張です。
けれど、西欧諸国で支配層にある植民地利権を持った大金持ちたちにとっては、自分たちの財産を失わせる(日本に侵略され、日本に奪い取られる)ことを意味しました。
こうして日本は世界の敵となりました。

終戦後、日本は再び西欧諸国(とりわけ米国)の支配下に置かれることになりました。
米国にしてみれば、日本は市場です。
日本人は勤勉でよく働きますから、よく働かせて、その利益を吸い上げる。
これを効率的に行うために、日本国内にある少数民族の朝浅人に特権が与えられ現在に至っています。
567も、迷惑駐車も、防衛予算倍増問題も、すべてその延長線上にあります。

しかし、そうして収奪をしてきた西欧諸国は、特に米国を中心として自壊が始まっています。
一部の権益者である大金持ちが、その財産を増やすために、公然と多くの人の命や財産を奪う。
およそ6000年続いたこの世界の仕組み、とりわけ600年続いた植民地支配の構図が、いま終わりを迎えようとしています。

そのなかで日本は、財力と武力による支配の時代を終わらせ、庶民こそが宝となる新たな民衆の世紀のはじまりに、実は重要な役割を担っています。
日本は、いま、新たな世界のリーダーとしての未来を担いうる日本になるための、新たなステイトに生まれ変わろうとしています。

浅人の中にも、素晴らしい人はたくさんいます。
新たな世界へ。
新たな日本へ。
日本は、いま、6000年の時を超えてよみがえろうとしています。

※この記事は2018年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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