奈良の興福寺といえば、法相宗大本山で、藤原鎌足、藤原不比等親子ゆかりの寺院であり、また藤原氏の氏寺としても知られています。
このお寺は、奈良時代には四大寺、平安時代に七大寺の一つに数えられるほど、強大な勢力を誇ったお寺でした。
鎌倉時代・室町時代には幕府は大和国に守護を置かずに、興福寺にその任を委ねています。
また徳川政権下においても、興福寺は知行2万1千余石を与えられ、大名に並ぶ権威を持っていました。

興福寺といえば、有名なのがトップの画像にある阿修羅像です。
奈良時代の作とされ、現在は国宝。
像の高さは153.4cmです。

現代日本人の20歳以上の身長の平均は、男性が167.3cm、女性154.2cmですが、先の大戦中は男が160cm、江戸時代から明治初頭では155cmでした。
ですからおそらくこの阿修羅像は、当時の日本人の成人男性の平均身長くらい、つまりほぼ等身大であったろうといわれています。

この阿修羅像、本当に複雑な表情をしています。
戦前の小説家の堀辰雄は、1941年10月に、当時奈良国立博物館に寄託展示されていた阿修羅像に目を留めて、その表情について、
「何処か遥かなところを、
 何かをこらえているような表情で、
 一心になって見入っている。
 なんというういういしい、
 しかも切ない目ざしだろう」
と描写しています。
わかる気がします。

ところが不思議な事があります。
何が不思議かというと、この像の名前が阿修羅像であることです。

阿修羅というのは、古代インドのサンスクリットの語の「 asura」を漢字表記したものです。
「sura」は、生命や生存を意味します。
「a」は、その否定形です。
つまり「a-sura」は、生命や生存(sura)を否定する、つまり生きることを否定するという意味を持ちます。
つまり仏に仇なす敵の生存を否定する。
だから阿修羅というのは、仏敵を倒し滅ぼし征圧する闘争の神様とされます。
これは阿修羅を単に修羅と書いても同じ意味です。

その阿修羅は、もともと闘争神であったけれど、須弥山で釈迦に帰依した後は、釈迦を外護し、仏敵を滅ぼす闘争の神様となりました。
つまり阿修羅は、本来はたいへんに勇ましい神様なのです。

ところが興福寺のこの阿修羅像は、そんな戦いや闘争よりも、むしろ物悲しさを感じさせる表情をし、しかも両手を合わせて合掌しています。

ちなみに下にあるのは、同じく興福寺にある因達羅(いんだら)大将像です。
こちらは十二神将のうちの一柱ですが、まさに勇ましさを絵に描いたようなお顔をされています。
しかし、ではどうして阿修羅像は、戦いの神様なのに、この因達羅大将のような剛勇なお顔に描かれていないのでしょうか。

  因達羅大将像

実はここに日本的人物観の特徴があります。

阿修羅は、この十二神将よりも高い地位にある神様です。
要するに将軍達の中の大将軍の地位にあります。

大将軍であれば、数々の戦いを指揮します。
そして戦いがあれば、たとえそれが勝ち戦であったとしても、敵味方に数多くの死傷者が出ます。
その一人ひとりには、家族がいます。
親がいて、妻がいて、子がいて、友がいます。
ひとりの死は、数多くの家族や友人たちに悲しみをもたらします。

将は、戦いに勝つことが使命ですが、実は同時にそのすべての悲しみを背負う立場でもあります。
乃木大将もそうでした。
乃木希典大将については、司馬遼太郎などはさんざんですが、実は乃木大将は、難攻不落の要塞戦である旅順戦を、世界史上類例のない短期間、そして世界史的には驚くほど最小の兵の損耗で制した、世界の陸戦史上、ある意味最も名高い名将軍でした。

そして乃木大将は、日露戦争の戦没者の供養にと、私財を投げ売って、全国の神社に「忠魂碑」を寄進された方でもあります。
それだけではありません。
戦傷者として、戦いの最中に腕を失った兵たちのためにと、自ら義手を研究開発し、世界に例のないモノを掴んだり、字を書くことまでできる、現代世界のコンピューター制御の義手でさえできないすごい義手を考案し、これを戦傷兵達のために、これまた私費で寄贈したりまでされた方です。

その乃木大将のお写真を見ると、やはり阿修羅像のごとく、悲しみを背負った目をしておいでです。
人には、戦わなければならないときというのは、あるのです。
そして悲しいことに、戦いは多くの悲しみを生みます。
その悲しみを背負うこと。
もしかすると、それが将軍なのかもしれません。

だからこそ、奈良時代に造られた阿修羅像は、まさに、悲しみをその表情にたたえているということができます。
そして、いわゆる仏教国というのは、世界に多々ありますけれど、世界の中で、阿修羅像に、十二神将のような豪壮さではなく、こうした悲しい表情を蓄えさせた彫刻を施しているのは、実は日本だけです。

しかし乃木大将は、日常的に悲しい表情だったわけではありません。
体中からオーラを発しているかのような、気品と凄みを両立された方であったといわれています。
実は阿修羅像のお話にも、後日談があるのです。

下の写真は、松永忠興氏という、我が国仏教彫刻の復元模造の第一人者が復元した阿修羅像です。
もちろん本物を装飾したのではありません。
本物と寸分たがわぬレプリカを作り、本物の表面にわずかに残された塗料の成分を分析して、作られた当時の像を再現するのです。

すると阿修羅像は、前身が真っ赤な憤怒色で塗られ、口には髭が蓄えられていたことがわかりました。
そして目もとの化粧などを、復元してみると、そこに現れたのは、悲しみの表情ではなく、身分の高い貴族の大将軍のお顔立ちが出てきたのです。

  松永忠興氏による復元模造

将は、悲しみを背負うものと上に述べました。
けれど、同時に上に立つ者は、その悲しみをこらえて、何事もなかったかのような表情をたたえるものである、という思想が、なんとこの阿修羅像には施されていたのです。

化粧を外せば、そこにある素顔は、まさに悲しみを背負った表情です。
けれど化粧を施したお顔は、はっきりとした強い意思をたたえ、十二神将たちの猛将を従えた立派な貴族の表情なのです。

この奥深さ、この芸術性。
それがなんと、いまから1300年前の日本の奈良時代の芸術なのです。

※このお話は、2017年10月の百人一首塾での講義をもとに、その一部を編集してお伝えしたものです。

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