刑事ドラマなどでお馴染みの、法医学担当の医師は、刑事事件などに際して、異状死となったご遺体の死因の診断、死後経過時間の推定、身元不明死体での個人識別などを行います。
こうして法医師はご遺体から事件の様子を「聞き」、捜査も犯人逮捕後の裁判も、そこで「聞いた」客観的事実に即して行われます。

ご遺体から「聞く」のが法医学分野なら、過去の歴史から先人たちの思いを「聞く」のが歴史家の役割です。
過去の歴史上の事件や人物を軸にして、そこにファンタジーを加えたものが文学です。

文学と歴史学の違いは、そこにファンタジーの要素が入るか否かにあります。
歴史はあくまで客観的事実に基づき、すでに過去となった出来事の詳細を調べ、お亡くなりになった何十年、何百年、あるいは何千年前の人々の思いを「聞く」のが歴史です。

その意味で、法医学と歴史学は、ともに科学です。
そして目の前のご遺体から、被害者の言葉を聞くのが法医学なら、過去の歴史から当時の人々の声を聞くのが歴史学です。

その意味で、たとえば近代史分野では、昨今の歴史学会等で、かつての日本陸軍が大陸で蛮行の限りをつくしたかのように語られ、またそのことが小中学校の義務教育の社会科教科書に記載されたりしているのは、科学ではなく、ただのファンタジーです。
しかもその時代を生きた人々の声をまったく聞こうとせず、自己の思い込みだけで語っているただの小説です。

その意味で小説家は「思い込みの人」であり、科学者ではありません。
それが犯罪捜査なら、まったく犯人ではない人に向かって「犯人だ」と決めつけるようなもので、その意味では危険極まりないものです。
そしてファンタジーを信じてしまうと、今度は科学的真実までもが、嘘に見えてしまいます。
こうなると、それらは歴史の名を借りた、ただの宗教であって、ますます真実と乖離していきます。

歴史は、あくまで客観的事実に基づき、科学的に当時の人の声を聞くものです。
そしてそれが文献資料であれば、その文献資料を書いた人たちが、何を伝えようとしたのか。
これを書いた人々の声をしっかりと「聞く」のが歴史学です。

ということは、もっというなら、歴史は、過去の先人たちの声を「聞く」学問です。
そうであるなら、古事記や日本書紀は、我が国の歴史書として、間違いなく価値ある書です。
なぜなら、そこに先人たちの思いが詰まっているからです。

神話は歴史ではないという人がいます。
これはその通りです。
神話と歴史の違いは、日時時系列が整っているか否かの違いです。
つまり、その出来事があったのが、「いつか」が明確なものが歴史。
明確でないものが神話です。

かつて、神話を歴史にしようとした人たちがいました。
そのために、たとえばニニギのミコトが天孫降臨されたのは、西暦何年の出来事なのかが真剣に討議された時代もありました。
けれどそれは「わからないこと」です。
わからないから神話なのです。

では神話に意味はないのか。
それは違うと思います。
イザナギ、イザナミ神話にしても、日本の創生の神々にしても、日本全国に様々な伝承が神話としておそらく残っていたのです。
それらを集大成して、日本書紀が発表されたのが養老4年(720年)のことです。
古事記なら、序文に書かれたことを信頼するなら和銅5年(712年)のことです。

書かれたものには、書いた目的があります。
とりわけ日本書紀は、当時の朝廷によって、成立以後、我が国の教科書として千年以上にわたって広く用いられてきた歴史があります。
そしてそうであるなら、日本書紀を編纂した人たちが、どのような意図を持ち、何を伝えようとして、様々にあった神話を統合して、いま残されている物語にしたのか。
その先人たちの声を聞くのが、まさに歴史家の仕事であり、歴史学です。

神話を通じて神様の声を聞くなら、それは神学です。
神話が書かれた時代を探り、当時の人たちがどのような目的で何を伝えようとしたのかを聞くなら、それは歴史学です。
神話が歴史なのではなくて、神話から、神話を書いた先人たちの声を聞くのが歴史なのです。

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歴史学と神話学” に対して1件のコメントがあります。

  1. 土屋増美 より:

    全くその通りだと思います。

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