明治維新の頃のことです。
横浜の英国大使館の護衛部隊の軍楽長に、ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)という人がいました。
フェントンは、薩摩藩の青年たちに吹奏楽団の指導をしていました。
これが「薩摩軍楽隊」で、日本初の吹奏楽団です。

当時の日本では、楽器といえば琴や三味線、和太鼓、和笛、他には雅楽で使われる笙(しょう)に篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)などくらいです。
そこに西洋の吹奏楽を教えるのですから、フェントンは言葉も通じないし、さぞかしご苦労だったことと思います。

ちなみにこの「薩摩軍楽隊」は、フェントンの指導によって明治元年(1871年)には「日本海軍軍楽隊」へと発展して、現在に至っています。
海上自衛隊の音楽隊といえば、歌姫の三宅由佳莉(みやけ ゆかり)さんや、二代目の中川麻梨子さんが有名ですが、(ちなみに陸自の鶫 真衣(つぐみ まい)さんも素敵です)、そうした現代の歌姫の活躍も、もとをたどせば英国人フェントンの指導があったわけです。

そのフェントンが、明治2年(1872年)10月、大山巌に会ったとき、次のように進言したことが伝えられています。
「明治新政府には、なにか儀礼音楽が必要です。
 何かふさわしい曲を選んだらいかがでしょう?」

「なるほど」とうなづいた大山巌は、数人と相談して、平素自分が愛唱している薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、作曲をフェントンに頼みました。
ちなみにこの歌の歌詞は次のようになっています。
「めでたやな 
 君が恵みは久方(ひさかた)の
 光り長閑(のどけ)き春の日に
 不老の門を立出(たちい)でて
 四方(よも)の景色をながむれば
 峰の小松に雛鶴(ひなづる)棲(す)みて
 谷の小川に亀遊ぶ
 君が代は千代に八千代にさざれ石
 巌(いはを)となりて苔のむすまで・・・」

この歌は、当時の薩摩藩で、おめでたい席でいつも歌われた謡曲だったそうです。
そこでフェントンは、このなかの「君が代〜」の部分だけを取り出して、そこに作曲を施します。
ところが、これがイマイチ評判が悪い。
アイルランド民謡ぽくて、どうにも日本的でないのです。
このときの曲は、いまYoutubeで聞くことができます。
→ https://youtu.be/nwro06_tLZw?si=xYSypc6-RA776I2t

そこで1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村祐庸(なかむらすけつね)が、「君が代」の楽譜を改訂したいとする上申書を海軍軍務局長宛に提出しました。

  ジョン W.フェントンと中村祐庸(すけつね)

その上申書には、次のように書かれていました。

「(西洋諸国において)
 聘門往来(へいもんおうらい)などの
 盛儀大典あるときは、
 各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、
 以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、
 その君主の威厳を発揮するの礼款において
 欠くべからざるの典となせり」

偉いなと思うのは、フェントンです。
曲変更の上申書が出されたということは、フェントンの作曲が否定されたも同じです。
では、フェントンがこのとき怒ったかというと、それが違うのです。
むしろフェントンも、曲調の変更に積極的に同意してくれたといいます。
フェントンは、日本に住み、日本人と接することで、日本人の思いやりの心を学んだのかもしれません。

ようやく1880年(明治13年)、明治政府は、宮内省雅樂課に委嘱して、君が代の新たな作曲に乗り出します。
そして宮内省の奥好義の作品が選ばれることになりました。
その奥好義の旋律に、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作しました。
さらにこの曲を、国歌なのだから、もっと荘厳しようと提案し、実行してくれたのが、当時当時音楽教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。

つまり君が代の旋律は、いわばイギリス、ドイツ、日本の合作なんですね。
最初から、国際色豊かに作られているのです。

そんな「君が代」に、次のようなエピソードがあります。
山田耕作といえば、ペチカ、赤とんぼ、この道などの有名な文部省唱歌の作曲家として有名ですが、そんな山田耕作がドイツに留学していた若い頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをはじめたのだそうです。
そしてこのとき第一位に選ばれたのが、日本の「君が代」だったそうです。

さて「君が代」の歌詞です。
君が代の歌詞は、古く、平安時代の延喜5年(905年)に醍醐天皇の勅命によって編纂された『古今和歌集』の『巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として、掲載された歌です。
万葉集から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めた歌集で、このときのカナ序文を書いたのが紀貫之です。

清少納言の『枕草子』には、『古今和歌集』集を暗唱することが、平安中期の貴族にとって教養とみなされたとも書かれています。
そして君が代は、その後に編纂された、『新撰和歌集』にも、『和漢朗詠集』にも掲載されてます。

ここが実はすごいのです。
なにがすごいかというと、『古今和歌集』に掲載されたときの「君が代」は、歌い出しが「我が君は」となっていたのです。
ここでいう「我が君は」の「君」は、天皇を指します。
つまりもともとは天皇を称える賀歌だったのです。
ところがその後に続く『新撰和歌集』も『和漢朗詠集』も、いずれも同じく「君が代」を賀歌の筆頭歌としていながら、その歌い出しが現代と同じ「君が代は」に変わっているのです。

このことが意味することは重要です。
近年においても、たとえば軍歌の「同期の桜」が、
 貴様と俺とは同期の桜
 同じ【航空隊の・兵学校の】庭に咲く
などと、一部が変えられて歌い継がれていますが、このように替え歌が行われるということは、それだけその歌が一般的に広く流通したことを意味します。

「君が代」についていえば、おそらく『古今和歌集』が編纂した頃には、その編纂のすでに何百年か前から、「君が代」が広く歌われていて、たまたま『古今和歌集』が天皇の命による勅撰和歌集であったことから、編者が賀歌の筆頭歌に、君が代を「我が君は」という歌いだしで掲載したのであろうと思われます。
つまり、おそらくはこの時点で、すでに君が代を「君が代は」と歌い出す者もいれば、「我が君は」と歌う人もいたわけです。
だからこそ、続く歌集では、「君が代は」と書かれているのではないでしょうか。

そもそも大和言葉は、一字一音一義です。
一音ごとに意味があります。
そして「君が代」の「きみ」は、もともとは
 き=広がるエネルギー=男性=イザナキ
 み=たいせつな本質 =女性=イザナミ
です。
イザナキ、イザナミは、それぞれ「いざなうキ」と「いざなうミ」であり、そこから「キ」は男、「ミ」は女を表します。
だから男性が「おきな(翁)」、女性が「おみな(嫗)」といいます。

つまり「君が代」は、男と女の代が、千代に八千代に〜と歌われているわけで、だからこそ賀歌(お祝いの席で歌われる唄)として、広く流通していたし、それだけ一般化していたからこそ、替え歌もあった、ということになるのです。

そして我が国における「き」と「み」の最初がイザナギとイザナミです。
その二人から生まれたのが、天照大御神です。
その孫がニニギノミコトであり、
そのニニギの孫が、初代天皇となる神武天皇で、そこから今上陛下まで万世一系の天皇が続くのが日本です。
だから「き・み」は、そのまま天皇を意味するのです。

ちなみに天照大御神は、漢字で書いたら「天を照らす大御神」ですが、先程述べましたように大和言葉は一字一音一義です。
するとアマテラスオホミカミとなり、
 ア=生命の広がり、広大な時空間
 マ=受容、原点
 テ=放射
 ラ=場
 ス=進行
となり、広大な時空間のすべてを受容する原点であり、そこから放射するすべてのエネルギーの根幹の場であり、すべてのエネルギーの進むべき道を示す神、という意味になります。
だから最高神なのです。

そして「千代に八千代に」は、永遠です。
「さざれ石」細かな石が固まってできた「礫(れき)岩」(トップの画像)です。

礫岩形成の順序はこうです。

日本列島の周辺に地向斜という細長い海ができる。
そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続ける。
何千万年という長い間に、小石が圧力で固結して岩石となる。
そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。
そしてその山脈から発見されるのが、さざれ石の“礫岩”です。

そんなにながい間、気の遠くなるような永い間、ずっとずっと君を守り抜く。
いや、それだけじゃない。その岩に、苔がはえるまでも、ずっとずっと・・・

この歌詞のどこが軍国主義なのでしょうか。

戦争云々をいうなら、どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をしています。
実際、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながっています。
外国の国歌です。

【中華人民共和国国家】
立て、奴隷となるな
血と肉もて築かむ
よき国 われらが危機せまりぬ

今こそ 戦うときは来ぬ
立て立て 心合わせ敵にあたらん
進め進め 進めよや

なんともまぁ、血なまぐさい。
興味のある方は、曲を検索してみてください。
めっちゃ、勇ましい旋律にもなっています。

【アメリカ合衆国国歌】
見よや 朝の薄明かりに
たそがれゆく 美空に浮かぶ
われらが旗 星条旗を

弾丸降る 戦いの庭に
頭上を高く ひるがえる
堂々たる星条旗よ
                       
おお われらが旗のあるところ
自由と勇気共にあり

ちなみに戦争をいうなら、1480年(文明12年-室町時代)から、1941年の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。

イギリス 78回
フランス 71回
ドイツ  23回
日本    9回

日本は、極端に少ないのです。
日本はそもそも争い事を好まないのです。

そして明治天皇の有名な御歌・・・

四方の海
みなはらから(同胞)と思う世に
など波風の 立ちさわぐらむ

「みなはらから」です。
平和を希求し、人々が互いに争うことなく、人々が千代に八千代に栄えようとする陛下の御心が、この一首をみてもあきらかです。

要するに、君が代を否定する人たちは、
 日本の伝統を知らない(教養がない)、
 平和を守る気持ちがない(好戦的)、
 人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)
残念な人たちである、ということです。
もっというなら、ただのクズだ、ということです。

※この記事は2009年7月のねずブロ記事の再掲です。

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