具体例があったほうがわかりやすいと思いますので、教育勅語を例にとります。
全文というわけにはいきませんので、書き出しの部分です。

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朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 德ヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ 世世そノ美ヲナセルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ 敎育ノ淵源 亦實ニ此ニ存ス
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こうした文語体の文章は、わかりにくくて難しいので、昨今では現代語に訳されることが多いです。
たとえば明治神宮で発行している「教育勅語」のリーフレットには、次のようにあります。

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国民の皆さん、 私たちの祖先は、 国を建て初めた時から、 道義道徳を大切にする、という大きな理想を掲げてきました。 そして全国民が、 国家と 家庭のために 心を合わせて力を尽くし、 今日に至るまで美事な成果をあげてくることができたのは、 わが日本のすぐれた国柄のおかげであり、 またわが国の教育の基づくところも、 ここにあるのだと思います。
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こうして現代語訳していただけることは、最初の取っ掛かりとしては、文語体の古い文章に馴染みのない現代人にとっては、たいへんにありがたいことです。
けれど、それでわかったような気になっていると、実にとんでもない大事なことを見落としてしまいます。

昔の人は、ひとつひとつの単語や漢字ごとに、その深い意味を学んでいました。それが日本の教育でした。
ですから、教育勅語の文が、文語体で書かれているのは、ただ難しく書こうとしているのではなく、あたりまえのことですが、そのひとつひとつの文字や漢字の意味に、込められた思いがあるからです。
つまり、そうした言葉のひとつひとつの深い意味を、昔の人はしっかりとわきまえながら、その意味を受け止めていたわけです。

それがどういうことなのか、上の教育勅語の文で説明を試みてみます。
(これが完璧だというわけではありません。他にももっと深い意味があると思いますが、わかりやすくできる範囲で述べてみたいと思います。)

「朕(ちん)惟(おも)フニ」
ここで「惟(おも)フ」という単語が用いられています。
「惟(おも)フ」は「思う」と違って、スズメがチュンチュンと跳ねるように、どこに飛んでいくかわからない千路に乱れた心を意味します。
ですからここは、単に「思っている」ということではなくて、
「わたくしが千路に乱れる心でいろいろと乱れ考えてみますに」
といった意味になります。

「我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)」
「我が皇祖(こうそ)」は、この文を下賜されたのは明治天皇ですから、明治天皇の皇祖、すなわちご皇室のご祖先という意味です。
ご皇室のはじまりは、初代神武天皇ですから、いわば「神武天皇以来」といった意味になります。
問題は「皇宗(こうそう)」で、「宗」という字は、「おおもと」を意味します。
そしてご皇室のご祖先、すなわち神武天皇のご祖先は、神話の時代の天照大御神であり、天照大御神のご祖先は、初の男女神であるイザナギ、イザナミにまでさかのぼります。
そしてイザナギ、イザナミの前には、国常立神や、天之御中主神がおわします。
つまり天地創生の神々、時空間創造の神々がおわします。
ということは、ここでいう「我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)」とは、
「天皇のはじまりである初代神武天皇以来の皇統、さらにそれ以前の神話の時代の神々」
といった意味になります。

「國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ」
「肇」という字は、神々によって啓(ひら)くことを意味します。
したがって、「国を肇むる」とは、我が国が神々によって啓(ひら)かれたということを指します。
それが「宏遠(こうえん)ニ」です。
「宏」という字は、「宀(うかんむり)」が屋根を示し、その屋敷の中を右手で探している象形で、単に広いだけでなく、さまざまな複雑な要素を絡めながら、奥行きが深いときに用いられる漢字です。
似た意味の漢字に「広(廣)」がありますが、こちらは屋根の下に黄金を身に着けた人がいるという象形で、黄金を身に着けた人が住む家ですから、大きな家だろうということで、そこから「そのような家は、屋敷が広い」という意味になり、「広いお屋敷」を意味するようになった字です。
ということはここでいう「國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」は、
「その神々の御意思によって国が肇められてから、我が国は遠い昔より様々な出来事を経験し」
といった意味になります。

「德(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ」
「徳」という字は、歩いて進むことを意味する「彳」に、まっすぐな心を意味する「悳(とく)」が合わさった字で、まっすぐな心で進むことを意味します。
その「まっすぐな心で進むこと」を植樹するように、しっかりと植えてきた。
それだけでなく「深厚」、つまり「深く厚く」してきた、と書かれています。
つまり「德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」は、
「まっすぐな心で進むことを、樹を植えるようにしっかりと育(はぐく)み、さらにその徳を深く厚くしてきました」
とこのように述べているわけです。

ここまでをまとめますと、次のようになります。

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朕惟フニ わたくし(明治天皇)がわたくし自身で千路に乱れる心でいろいろと乱れ考えてみますに 我カ皇祖皇宗 天皇のはじまりである初代神武天皇以来の皇統、さらにそれ以前の神話の時代の神々、 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ その神々の御意思によって国が肇められてから、我が国は遠い昔より様々な出来事を経験し、 德ヲ樹ツルコト深厚ナリ まっすぐな心で進むことを、樹を植えるようにしっかりと育(はぐく)み、さらにその徳を深く厚くしてきました。
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昔の人は、教育勅語の原文から、これだけの深い意味をしっかりと受け止める勉強をしてきたし、文章を読むときには、そういう読み方ができるように日々研鑽を重ねてきていたわけです。

そのためには、言葉の定義が、全国共通でしっかりと国民の中に定着していなければなりません。
教育はそのために行われたし、だからこそ教科書を国の機関である文部省が発行していたし、教育指導要綱が置かれて、その意味するところがしっかりと子たちに伝わるように教育が行われていたわけです。

このことは、子たちにとって、おおきな知的刺激になります。
もっと知りたい、もっと学びたいという意欲を生みます。
だから子供たちの誰もが昔は学校に行きたがったし、家の用事で学校を休まなければならないときは、友達にノートを持ってきてもらい、「今日、先生、どんなお話をしてくれた?」と、瞳を輝かせて、授業内容を教わろうともしたのです。

現代教育は、子どもたちにはむつかしいことなどわかりっこないから、やさしく、簡単にしたほうが良いのだと、しています。
そんなことはない。
実は子どもたちは、とっても優秀なのです。

※この記事は2022年10月のねずブロ記事の再掲です。

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昔の解釈、いまの解釈” に対して1件のコメントがあります。

  1. 土屋増美 より:

    文語は格調高く意味のわからないことも多いが好きです。読む度、己の不甲斐なさをおもいしります。

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