よくあることですが、関わると未来が開けてくる相手もあれば、逆にあらゆることが悪しき方向に流れてしまう相手もいたりします。
個人の人間関係でも、国家間の関係においてでも、です。
要するに、ためになる相手と、そうでない相手があるのです。
この両者の違いは、共生を重んずるか、自尊を重んずるかによる違いにあります。
日本は間違いなく、共生を重んずる国です。
そのために日本は、常に適合を心がけます。
西洋は制圧、特亜国はこれにうぬぼれが入ります。
自尊を重んずると対立が生まれます。
当然です。自分だけが正しいとなるからです。
西洋生まれの民主主義は、多数決で物事を決しようとします。
そうなると、51:49で、敗れた49の意見は無視されます。
残りの51の中でも対立が起こり、26:25で、敗れた25は無視されます。
この繰り返しの果てにあるものは、裏で手を引く誰かだけが最終的に得をし、参画した他のすべての人は最後には捨てられるということです。
日本的共生は、ひとりひとりを「おほみたから」とします。
全員が「たから」ですから、どちらかが正しいということはありません。
全員が正しく、全員がどこか間違っています。
ですから意見の対立があれば、どちらも正しく、どちらも間違っているのですから、話し合って、その中間にある真実を一緒に探しに行こうということになります。
意見は極右から極左まで様々な意見がありますが、右が正しいのでもなく、左が正しいわけでもない。
どちらも正しく、どちらも間違っているのですから、一緒になって第三の道を探しに行くのです。
もっともこのようにしても、どうしても和合できない相手もいるものです。
そういう相手には結界を張って、最低限のお付き合い以外、すべてのお付き合いを絶ちます。
絶たれた人たちは、絶たれた人たちだけで暮せば良いだけのことです。
ただし、最低限のルールとして、犯罪は断固許さない。これはあたりまえのことです。
もうひとつ、日本的共生の中にある大切な要素に「察する」という文化があります。
こちらに都合があるように、相手にも都合があります。
ですから皆まで説明はしない。
民主主義では、よく「説明責任」という言葉が連呼されますが、これは「考えなくて良い」という自由に由来します。
自分の頭で考えようとしないから、説明が必要になるのです。
現代社会では特に、昔と比べたら人々ははるかに自由を手にしています。
そして人は自由になりすぎると、次に何をしてよいかわからなくなります。
制約があるから、制約の中で四苦八苦の挑戦(チャレンジ)が生まれるのです。
制約がなければ、かえって何もできなくなる。
スポーツと同じです。ルールがあるからスポーツになります。
ルールがなくて、何をやっても良いというのでは、人は、かえって何もできなくなるのです。
自由すぎる状態の中にあっては、人は被害者になりたがるという傾向が生まれます。
自由すぎて何をやって良いかわからないなかで、被害者=無辜の人、加害者=悪といった構図が生まれます。
自分を被害者だと言えば、すべてが許容され、それが正義になる。
結果、権限のある人、人の上に立つ人や組織が、そのまま悪にされる。
本当は何が正しくて、何が間違っているのかがわからない中で、人々は右往左往し、その不安に耐えきれずに、自分たちは被害者であると規程するようになり、そこで思考が停止します。
何が起きているのか、どうしてそうなるのか。
人はすべてを知ることなどできません。
できない中で、挑戦をしていくのが人の一生であり、人の世というものです。
だから、皆まで説明を受けるのではなく、ある程度のところから先は、察して許容するしかないのが現実です。
失敗しても良い。
またやり直せば良い。
いつだって、何度だってやり直す。
そうすることで一生をかけて成長していこうというのが、日本型共生の社会です。
近年、グローバリズムとか、グローバルスタンダードといった言葉が流行しています。
人々が「考えなくて良い自由」を手にした社会のなかで、こうしたグローバリズムとか、グローバルスタンダードは、そのスタンダードなルールを決めた人たちだけに利益をもたらすものとして機能します。
結果、人々は自由を奪われ、財を奪われ、人生を奪われていきます。
自分の頭で考えることを学んだ人は、こうしたスタンダードに、明確に拒否を示します。
つまり、グローバルスタンダードに立ち向かう術(すべ)は、ひとえに、人々の思考力を取り戻すこと。
考える自由を取り戻すことにあります。
自分の頭で考えるようになれば、当然そこに意見の対立も生まれます。
そのときに、自分が正しい、相手が間違っていると、糾弾するのか、それとも、そもそも意見は異なるものとして、意見の異なる相手と、第三の道、つまり真実を探そうとするのか。
ここに、西洋型民主主義の道を選ぶのか、日本型共生の道を選ぶかの選択が生まれます。
西洋型を選ぶ人は、相手を糾弾します。
日本型を選ぶ人は一方的に糾弾され、話し合おうと声をかけても拒否されます。
つまり叩かれます。
このときおもしろいのは、糾弾する人たちは、かならず「被害者」を装うことです。
被害者は、無辜の人と規程されますから、糾弾されている日本型の人は加害者となり悪というレッテルを貼られることになります。
一時的にはこれによって西洋型の思考が勝利をしたかのように見えます。
ところが西洋型は、今度は被害者間で、また正邪の議論になっていきます。
つまり内紛の連鎖になり、そして時間をかけて自滅していきます。
おもしろいことがあります。
それは、加害者として叩かれ糾弾されていた日本型共生を選ぶ人たちが、叩かれることで成長していくという事実です。
人の世は、いいときもあれば、奈落に落ちることもあるのが人生です。
順調なときは良いのです。
そのままの努力を続けていれば良い。
ところが、人の世は、必ず奈落に落ちる時がやってきます。
人生を振り返ってみると、好調なときよりも、奈落に落ちたときに、人生に多くの学びを得ているものです。
学ばなければ、同じことが形を変えて、何度でもその人を襲ってきます。
つまり、なかば強制的に「学ばせられる」のです。
そして奈落で何かを学んで、立ち上がったとき、その人や組織は、二周りも三周りも強くたくましくなっています。
日本に希望を、日本の再生をという運動は、こうして何度でも立ち上がるチャレンジ活動といえます。
それは、考える自由の発露であり、ストレスという制約を受けての再起三起です。
永野修身元帥海軍大将の言葉です。
「すなわち戦わざれば亡国必至、
戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
戦わずして亡国にゆだねるは
身も心も民族永遠の亡国であるが、
戦って護国の精神に徹するならば、
たとい戦い勝たずとも
祖国護持の精神がのこり、
われらの子孫は
かならず再起三起するであろう。」
私達は何度でも立ち上がるのです。