「憂国」という言葉があります。
国を憂(うれ)うという意味の言葉です。

もちろん大切な言葉です。
ただし、現状の日本においては、すこし割り引いて考える(言葉を使う)必要があるのではないでしょうか。

日本人の民度が高い状況にあるなら、憂国は、最大限に尊重されるべき言葉です。
けれど、現状の日本は、そうした高い民度を持ちません。

よく、ドラマなどにおいて、ものすごくできの悪い高校が舞台になることがあります。
生徒は不良ばかり。
授業も全然成り立たない。
生徒たちは、学校に不満を持っている。
けれど、だからといって何ら建設的な意見も持たないし、行動もない。
教師陣に文句は言うけれど、だから「どうしたい」というものはない。
完全に、壊れた状態です。

そうした高校に、栄え有る伝統を復活させ、ただの不良の集まりでしかなかった高校を、ちゃんとした進学校にしていく、生徒たちが真っ直ぐな道を歩むようにしていくためには、何が必要でしょうか。
これが実は、「現状の日本をどうするのか」という問いと、同じ問いにあたります。

この状況で、学校の現況を憂いたら、学校は変わるのでしょうか。
答えはNOです。

では、生徒たちに懇懇と説諭したら、学校は変わるのでしょうか。
これも答えはNOです。

では、特別なエリートクラスを編成して、そのクラスだけが大学に進学できるように特別な教育を与えたら、学校は変わるのでしょうか。
これまた答えはNOです。
せっかく進学希望を持った生徒たちまでもが、不良生徒のやっかいになってしまって、結果、共倒れになる危険すらあります。

ではどうするのか。
生徒たちに、実は、本校は栄え有る伝統を持った高校なのだということを、繰り返し、情報として提供していく。
そうすることで、自分たちも変われるのではないかという希望が自発するように持っていく。
時間はかかります。
けれど、自発的に、前向きに、真面目に学校生活を送ろうという生徒が、ひとり、またひとりと増えていくことで、気がつくと、いままで麻雀の話題しかなかったクラスの片隅で、大学進学を希望したり、あるいは勉強の仕方を、あらためて教わろうとしたりする動きが始まるのです。

そしてそういう動きに加速が付いてきた時、気がつけば、不良高校だった高校が、いつの間にか多くの真面目な生徒を抱える進学校に変化していくのです。

これは、全体のレベルをシフトアップするというやり方です。
学校全体の偏差値が40そこそこでは、進学など、夢のまた夢です。
けれど、ほんのすこし様子が変わるだけで、偏差値が45くらいに変わってくる。
そこまでくれば、偏差値65以上も、夢ではなくなります。

そういうものだと思うのです。
生徒全員が、普通の生徒になることはないかもしれない。
けれど、生徒の平均レベルが向上することで、偏差値65〜75クラスの生徒が生まれるようになるのです。
そして、そこまでくれば、生徒の中に「もっと」という欲が生まれます。
変化がはじまるのです。

「進学(偏差値)ばかりが能じゃないよ」という声も聞こえてきそうです。
これには、明治時代に、全国の学校で落第した生徒ばかりを集めた「興志塾」でお答えしようと思います。
別名が「男塾」、さらに別名が「にんじん畑」です。
「興志塾」は、頭山満翁や、平岡浩太郎、奈良原至、進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎など、戦前の壮士を軒並み輩出しています。

どうして全国屈指の不良ばかりを集めたこの塾が、かくも偉大な人材を育てることができたのかといえば、答えは、塾長だった女性の高場乱に求めることができます。
高場乱の教えは、ひたすら日本にもとからある文化、天皇の存在のありがたさを説くものでした。

以下は奈良原至の述懐です。
おもしろいので、是非読んでみてください。

***

にんじん畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは、皆、順繰りに掃除や、飯たきや、買物のお使いにつかわされた。
しかしワシはまだ子供で飯が炊けんじゃったけに、イツモ走り使いに追い回されたものじゃった。
その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。

ワシの同門に松浦愚(おろか)という少年がおった。
こいつは学問はいっこうに出来ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。

この松浦愚(おろか)とワシは大の仲好しで、二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄で樽(たる)を釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら、往来いっぱいになって行くと、往来の町人でも肥料車(こえぐるま)でも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。
なかなか面白いので二人とも醤油買いを一つの楽しみにしていた。

あるとき、その醤油買いの帰りに博多の櫛田(くしだ)神社の前を通ると、社内にいっぱい人だかりがしている。
何事かと思って覗いてみると、もったいらしい衣冠束帯をした櫛田神社の宮司が拝殿の上に立って、長い髯(ひげ)を撫でながら演説している。

その頃は演説というと、芝居や見世物よりも珍しがって、演説の出来る人間を非常に尊敬しておった時代じゃけに、早速二人とも見物を押しかけて一番前に出て傾聴した。

ところがその髯神主(ひげかんぬし)の演説にいわく、

「諸君、王政維新以来、敬神の思想が地を払って来たことは実にこの通りである。
真に慨嘆に堪えない現状と云わなければならぬ。

諸君、牢記(ろうき)して忘るるなかれ。
神様というものは、常に吾が○○以上に尊敬せねばならぬものである。
その実例は日本外史をひもといてみれば直ぐにわかる事である。

遠く元弘三年の昔、九州随一の勤王家、菊池武時は、逆臣北条探題、少弐(しょうに)大友等三千の大軍を一戦に蹴ちらかさんと、手勢150騎をひっさげて、この櫛田神社の社前を横切った。

ところがこの戦いは菊池軍に不利であることを示し給う神慮のために、武時の乗馬が鳥居の前で俄《にわ》かに四足を突張って後退し始めた。
すると、あせりにあせっている菊池武時は憤然として馬上のまま弓に鏑矢(かぶらや)をつがえ、

「この神様は牛か馬か。
 皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか。
  武士(もののふ)の
  うわ矢のかぶら ひとすじに
  思ひ切るとは 神は知らずや」

と吟ずるや否や、神殿の扉に発矢(はっし)とばかり二本の矢を射かけた。
トタンに馬が馳け出したのでそのまま戦場に向ったが、
 もしこの時に武時が馬から降りて、
 神前に幸運を祈ったならば、
 彼は戦いに勝ったであろうものを、
 かような無礼を働らいて神慮を無視したために
 勤王の義兵でありながら一敗地にまみれた」

衣冠束帯の神主が得意然とここまでしゃべって来た時に、ワシと松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが、神殿に躍り上っていた。
アッと云う間もなく二人で髭神主を殴り倒おし、蹴倒おす。

松浦が片手に提げていた醤油樽で、神主の脳天を食らわせたので、可愛そうに髭神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。

「この賽銭(さいせん)乞食の奴、
 神様の広告のために途方もない事をぬかす。
 皇室あっての神様ではないか。
 そういう貴様が神威をけがし、
 国体を誤る国賊ではないか」

というたような気持であったと思うが、二人ともまだ14か15ぐらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を云い切らんじゃった。

ただ、
「この畜生。
 罰(ばち)を当てるなら当ててみよ」
と、割れた醤油樽を御神殿に投込んで、人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞(ほ)められたものじゃったぞ。

大将の婆さんが涙を流して、
「ようしなさった。感心感心」
と二人の手をおしいただいて見せるので、塾の連中が皆、金鵄(きんし)勲章でも貰うたように、俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。ハハハハハ。

****

高場乱の教育の一端が垣間見える挿話といえます。

あまりの暴れん坊で、どこの学校でも落第させられ、あるいは放校処分となった不良ばかりを集めた高志塾が教えたのは、日本の歴史とご皇室のありがたさです。
そしてこの二つによって、不良たちは「誇り」に目覚め、その目覚めが長じては大東亜思想と、世界を股にかけた男たちの旅へと昇華していくのです。

現代において、いまの日本の政治や政党の悪口や、近隣諸国の悪口を、向こう百年言い続けても、おそらく何も変わりません。
現実にテレビの政治評論番組は、バブル前から人気番組となっていますが、そうした番組によって政治が良くなったという話は、寡聞にして全く聞きません。
けれど、日本の歴史やご皇室のありがたさ、人としての矜持などの思想が広がっていったとき、間違いなく日本は変わるし、それは世界をも変えるエネルギーとなります。

日本の強さは、政治力の強さでもなければ、経済力の強さでもありません。
庶民の誠実さこそが、日本の強さです。
その庶民の底力を取り戻す。

それが、回り道に見えて、最も近道なのだと、これは確信の行動原理です。

※この記事は2022年2月のねずブロ記事をリニューアルしたものです。

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