今日はちょっとむつかしい話をします。
昔からよく言われる言葉に、
「体斜めなら、影斜めなり」
という言葉があります。

これはとてもたいせつな言葉です。
自分ではまっすぐに生きているつもりでも、知らず識らずのうちに曲がり、ゆがんでしまっているということは、よくあることだからです。

そこで、神社でお祓いをしてもらって「ゆがみ」を正そうとするのですが、実際には何が「ゆがみ」で、何が正しいのかなんて、神のみぞ知ることです。人にはわからない。人の目線と、神々の目線は違うからです。

人に悪口を言われたり、中傷を受けたりすると、どうしても相手を恨んだり、腹を立てたり、憎しみの感情がわくものです。
わいたら、それが自分にとっての負の感情になります。
これは「ゆがみ」のように思えます。

ところが、多くの場合、悪口や中傷をしている側、つまり攻撃をしている側の行動というのは、自分自身が持つ負の感情や行動パターンが、現象として出てきていることが多いといわれています。
つまり、イジメたり悪口を言っている人たちの行動というのは、自分の中にある負の感情や行動が、負のエネルギーとなって相手を通じて現象面で出てきているものである、ということです。
ということは、イジメなどを受けて嫌な思いをしている自分は、実は、自分の中にある嫌な自分を、見せていただいている、ということになるのかもしれません。

もっといえば、神々は乗り越えられない試練は与えないのですから、自分の中にある「嫌な自分」を、イジメや中傷や悪口を言っている(あるいは、ともすれば言いたくなる)自分自身を、神々が乗り越えさせようとして、この世に現象としてあらわせられているものであるのかもしれません。

つまり、イジメや中傷や悪口を言っている人たちというのはとても迷惑な存在ですが、それは自分自身が知らず識らずのうちに他人に行っていた自分自身の負の部分が、この世に現象となって現れてきたものだということになります。

ところがこれがおもしろいのです。
この世はバランスですから、プラスの方向に大きく舵を切れば、それと同量のマイナスが生まれます。
差し引きしたらゼロになるのです。

同時に「絶対ゼロ」というのはこの世に存在しません。
そこには必ず微量のプラスや、微量のマイナスがあります。
その微量なゆらぎが新たな力や現象を生むのです。

つまり、大きくプラスの方向に触れれば、それだけ大きな負のエネルギーが沸き起こる。
とても嫌な思いをすることになる。
そのことが、新たな次元を開拓すると考えられるのです。

図形的に説明します。
プラス10と、マイナス10は、ともにX軸上にあります。
プラスから見たら、マイナスは許せないことですし、マイナスから見ても、それは同じことです。
そしてこの両者は、直線上の正負なのですから、永遠に交わることはありません。

ところが、大きくプラスに、大きくマイナスに広がったとき、その答えはY軸上に現れます。
新しい分布がy軸上に生まれるのです。
これが新しい力になります。

多くの人は、VS(バーサス=対立)で物事を1次元的に捉えようとします。
そこでは必ず対立が生まれます。
x軸上のプラス10にとって、同じくx軸上にあるマイナス10は、邪魔な存在でしかないからです。

ところがそこにy軸を加えると、x軸上のゼロポイントを最も大きなエネルギーとする分布が現れます。
つまり新たなエネルギーが誕生します。
そしてそれはもしかすると、新たなz軸上も生んでいるかもしれないし、さらに4次元のt軸上にも強い影響を与えているのかもしれない。

これが調和です。

x軸だけでは、y軸は現れない、つまりそこに調和はないのです。
調和はy軸上に現れるのです。

神々の目線は、常にそうしたより深いところに根ざしているのではないかと思います。

ただ、思うに、自分は、x軸上のマイナスにはなりたくない。
常にプラスの側でいたいと思います(笑)

結局の所、他人様がどうのこうのではないのです。
自分の中には負の感情もある。
けれど必死でプラスの方向に生きようとするとき、自分自身の中にある負の感情を、引き受けてくれる誰かが必ず現れるのです。これは不思議なことです。

これをX軸上の対立(VS)とだけ捉えていると、X軸から永遠に出ることができません。
けれど、負に敗けずくじけず、一生懸命正の値を伸ばしていくと、いつの間にか、y軸が現れるのです。
そして、トップの図のような正規分布が現れます。

魂の次元には、主語がないと言われています。
つまり自分はあなたであり、あなたは自分です。
すべてがつながっています。
そして正規分布は、x軸上の両極端がなければ、描くことができません。
両極端をも含めて、ぜんぶでひとつなのです。

x軸上のマイナスがなくなるわけではない。
けれど、そこに新しいy軸の世界が広がるのです。
神々の御心は、まさしく神のみぞ知るです。

けれど、自分の霊(ひ)がよろこぶ生き方をしていると、自然と眼の前が拓けてくるものです。
つまり対立軸が大きく広がったときに、新たな時代が拓けます。
なぜなら現代は、大調和の時代にすでに入っているからです。

大調和の時代に入ったからといって、X軸上の対立がなくなるわけではありません。
いやむしろ、もっと過激になっていくのかもしれません。
けれど、大調和の時代においては、誰もがそれが「分布」であることを知っています。
すると、たいせつなことは、X軸上の両極端ではなくて、Y軸上の、圧倒的多数の「まんなかあたり」の人々や考え方であることに、誰もが気付きます。

民度を上げるということは、図の真ん中あたりのレベルをx軸上のプラス側に移動させることをいいます。
正規分布全体を、より上位にシフトアップしていくのです。
極論の世界に埋没することではないのです。

このことはつまり、より多くの人々の気付きや学びが、全体のレベルを向上させ、社会を変える大きな力になることを示唆します。
社会の民度を下げる場合も同じです。
図の中央辺りにいる圧倒的多数の人々の民度をちょっと下げるだけで、社会全体の質が低下するのです。

戦後の日本では、メディアによって、この民度の低下が図られてきました。
その動きは加速し、勧善懲悪の時代劇などはまったく評価されなくなり、大衆の興味はもっぱら粗製乱造のバラエティ番組へとシフトしていくことになりました。
その間、立派な人はたくさんいたけれど、その立派な人たちによって、社会が良い方向に転換されることは、まったくありませんでした。

逆に言えば、社会を良い方向に向かわせるのならば、図の中央辺りにいる人々の民度を、ほんのちょっと上げるだけで良いということになります。
学校自体の偏差値が45しかない高校が進学校を目指すなら、特別優秀な生徒を集めることではなく、その45の生徒たちに、ほんのすこし勉強する楽しさを教えるだけで良いのです。
するとまたたく間に、学校の偏差値は55くらいまでは成長します。
すると、トップ集団は、偏差値65から75くらいにシフトアップしていくのです。
一方、下位にいた偏差値25の人たちもまた、35くらいまでアップしていくのです。

学校偏差値が45だと嘆いたり憂いたりしたところで、何も変わらないのです。
といって、65の生徒をかわいがっても、75になることはありません。
25の生徒を罵ったところで、彼らが35になることはないのです。

そうではなく、45のあたりにいる平均的な生徒たちを、50に、55に持って行く。
そういうことなのです。

現代日本においては、メディアは、ひとことでいえば日本を壊すために働いています。
その力は大きいです。
国会においても、愚にもつかない、本筋から逸れた議論を野党議員が仕掛けています。
これらはいずれもX軸上の対立です。

この対立構造のもとで、日本がよくなることは絶対にありません。
その証拠に、40年近くも続いている朝まで生テレビの激論によって日本が良くなったと言えることなど、ひとつもありません。

そうではなく、ごく平均的な一般大衆が、日本をもうちょっとしっかりした国にしたいねと考える。
そのために必要な情報を、広く大衆に拡散していくことが大事です。
それは、単に「日本が良い国だ」ということを拡散するのではありません。
その根幹にある理由を、浸透していくのです。

日本では、これがもともと大事だとされてきたから、日本の統治のことを「知らす」と言ったのです。

※この記事は2023年3月のねずブロ記事のリニューアルです。

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