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さて、

日本の歴史について、多くの方が学校で習うのは、いつ、どこで、何があったか、だけです。
それだけならまだしも、全体の流れとしては近隣諸国条項に基づき、
1 日本の文明文化は、チャイナから朝鮮半島を経由して5世紀頃にもたらされた
  それまでは未開の原始時代のような生活をしていた。
2 渡来人によってようやく文明開化した日本人は、中央集権的な国を築いて、江戸時代まで庶民からの厳しい収奪を行った。
3 政府は欲望のために庶民を蹂躙するものであり、さらに明治以降は軍国主義によって国民はおろか、周辺国への侵略まで行った。
とする教育が行われています。

これは、学校で教わっているのが、あくまでも社会科の歴史的分野であって、歴史ではないからです。
多くの人は、日本史や世界史の授業を歴史教育だと思っていますが、それは違います。
教わっているのは、あくまで社会科です。

社会科は、現在社会で常識になっていることを教わる科目です。
ですから、鎌倉幕府なら「1192(いい国)つくろう鎌倉幕府」で、過去に鎌倉に幕府があったこと、それが成立したのが1192年であったことを覚えれば足ります。
けれど、歴史教育なら、何年にできたかよりも、なぜ鎌倉に幕府が生まれたのかという、歴史の流れを学ぶことになります。

さらに上記のような、歴史としては明らかに怪しげ、というより実際には存在しなかった内容であっても、社会科なら、そのような主張をしている国や学者がいれば、それは社会常識として生徒に教える対象となります。
加えて近隣諸国条項に基づき、中韓の思想や考えを教育に取り入れなければならないとなれば、なおのこと、実際の歴史とはかけ離れた社会科性が全面に出てくることになります。
それを実際にあった歴史と生徒が誤解するかどうかは、社会科であれば関係ないことになります。

拙著『庶民の日本史』や、『日本建国史』、『縄文文明』などは、過去の事実をもとに、それをストーリー化したものです。
文中に年号はほとんど出てきません。
あくまで過去に実際にあった出来事を、時系列に、納得がいくようにストーリー化して記述しています。

これらの著書で、

1 日本文明は、世界に先駆けた万年の歴史を持ち、高い文明で世界に影響を与えた。
2 日本は庶民が主役の国であり、庶民が豊かに安全に安心して暮らせる国を築いてきた。
3 このため世界中の諸民族が日本を訊ねてきて、日本に帰化した。

4 我が国は世界で唯一、古代から国家最高権威と国家権力を切り離してきた。
  こうすることで我が国は、究極の民主主義を手に入れてきた。
5 その日本は明治の文明開化以降、有色人種唯一の文明国として、白人至上主義と戦わざるを得なくなり、激しい戦いによって、世界から植民地を駆逐した。
6 日本はいまだ、その激しい戦いの痛手の中にあるが、日本人は万年の昔から世界に良い影響を与え続けてきたことをあらためて自覚し、より良い未来、より良い国、より良い世界の構築に向けて、我々自身がしっかりと生きていかなければならない。

という流れを記述しています。
1〜5までが歴史です。
そして6がその歴史から導き出さえる筆者なりの結論です。

真実の歴史は、心をつよくします。
その「つよさ」には、実は二通りがあります。

ひとつは、物理的精神的に相手を圧倒する「強さ」、英語なら「パワー(Power)」です。
チャイナなどは、歴史教育は、その「パワー」のために行われます。
歴史は、相手より「優位に立つ力」となると考えられているからです。
したがって、そんな歴史教育に、真実は必要ありません。時系列である必要もない。
嘘であっても、過去のストーリーがパワーになりさえすれば良いと考えられているからです。
だから日本軍悪玉論が展開されます。

いまひとつは「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」の「勁さ」です。
「勁い」という漢字は、機織りの布の様子を象形化した文字です。
一本の糸が、縦糸と横糸がしっかり重なることでじょうぶな布になります。
つまり「勁さ」とは、「繋ぐ力」です。
ひとりではなく、みんなでいっしょに戦う。みんなでいっしょに頑張る。
ですから「勁い」は英語なら、布がじょうぶであるという語彙を持つ「ストロング(strong)」です。

「勁草」とは、様々な事態が起こったとき、それにくじけるのではなく、柳に風と受け流しながら、新たな勝利への道へと淡々と進むことです。
絶対に折れない力、それが「勁草」です。
受け流してしっかりと立っていく力であり、いま日本人に求められている力です。

日本では、古来、歴史とは、そんな「勁さ」を得るものとされてきました。
過去に生きた先達の生き様や、事件の経緯経過を知ることで、いまを生きる知恵にしてきました。
ですから歴史は、人を支配するためではなく、自らがより良く、よりつよく生きるために学ばれてきました。

すると歴史は、学んだ人々のアイデンティティを形成します。
アイデンティティというのは、自分自身についての知識、自己理解、自己認識のことで、これは歴史を通じて形成され、生涯を通じて発展していきます。
そのアイデンティティがしっかりと形成されていないと、すこし厳しい言い方ですが、人は昆虫や動物と同じく、目先のことだけに生きることになります。

ではアイデンティティを得ることで何を得ることができるのかといえば、それは、すこし極端な言い方をすれば、
「生命の尊厳と愛を知る」
ということになります。

愛という字は、訓読みが「いとし、めでる、うるはし、いつくし、めぐむ、よしみ」です。
そして日本書紀は、愛を「おもふ」と読んでいます。
つまり、人をおもふこと、夫をおもふ、妻をおもふ、子をおもふ、子が親をおもふ、恋人のことをおもふ、それら一切が、愛という概念です。

つまり日本におけるもともとの歴史教育は、本来は、生徒たちの愛を育み、生徒たちが立派に生きるためのアイデンティティを形成するためのものであったのです。

お伊勢様に行きますと、あちことに「元々本々(もともとをもととす)」という言葉が掲示されています。
もともとたいせつなことを大切にする。
それは、元々というものが、どのようなものであったのかという歴史を学ばなければ、決して形成されないものです。
そしてその精神は、生涯を通じて発達していきますから、その人が社会を生きる知恵になります。
ですから歴史を通じて愛を学んだ子らは、自らの命を犠牲にしてでも、大切なものを護ろうとします。
そして彼らの笑顔は、とても素敵です。

ここを履き違えて、社会科としての歴史を学ぶと、それはただの知識お化けにしかなりません。
ただの知識お化けでは、社会ではまったく通用しません。
そんな社会で通用しない人たちが、社会のエリートになれば、社会そのものが社会で通用しない社会を生みます。
日本経済が30年以上冷え込んだままになっていても、そこに何の疑問も抱かないで、捏造文書をもとに大臣に嫌がらせをするようなつまらない議論しかできなくなります。

日本は、変わるときです。

※この記事は2023年3月のねずブロ記事のリニューアルです。

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