戦争のお話をします。
お話に先立って、ふたつのことを先に申し上げます。

ひとつめは、戦争に関するお話をするときに、必ず申し上げていることです。

 我々は、今後決して、  権力者の野望を満たすために、  若者のエネルギーを、命を、  奪ってはならないし、  また奪われてはならない。

この言葉は、元海軍航空隊の松本裕昌氏が、著書の『我が予科練の記』に記した言葉です。

世界では現に紛争が起きています。
当事国の兵士が何人死んだ、でも本当はもっと死んでいるなどといった報道があります。日本人として恥ずかしく思います。
お亡くなりになった兵士の方、あるいは民間人の方々、そのひとりひとりに家族があり、人生があり、幸せになろうとする意思があったのです。
何百人とか、そういう十把一絡げではなく、ひとりひとりの命をどこまでも大切にしてく。それが日本人です。

国際社会は、戦争の悲劇を何度も繰り返しています。
が、私達日本人にとって大切なことは、そうした戦争による悲劇を二度と繰り返さないこと、繰り返させないことです。どちらか一方の国に肩入れすることではないのです。

ふたつめは、我が国は「戦争をした」ということです。
先の大戦は、やむにやまれず、開戦に至った戦争です。
やむを得ず「戦争をした」のです。
開戦の理由は、開戦の詔勅にちゃんと書いてあります。

そしてその戦いを、我が国は自主的に終わらせました。
なぜなら、先の大戦が「戦争」ではなくなったからです。原爆のことです。
戦争には国際法がちゃんとあって、軍服を着た兵隊さん同士が争うと定められています。
原爆は、民間人を大量に殺害するものです。
民間人を大量に殺害することは、「虐殺」であって、「戦争」ではありません。
戦争が、虐殺に替わった。
だから我が国は戦闘を辞めたのです。
このことは、終戦の詔勅にちゃんと書かれています。

これから述べるアッツ島の戦いは、先の大戦で、初めて我が国の玉砕戦となった史実です。
そしてそれは、あくまでも軍人さん同士が勇敢に戦った「戦争」です。

 *

さて、明治維新以来、アメリカと日本は、親しい友人でした。
第二次世界大戦は昭和14年(1939年)にはじまっていました。
日本への石油の輸出が禁輸となったABCD包囲網が形成されたのは、昭和16年7月のことです。
日米開戦は、その年の12月です。

なぜあの大戦に至ったのか。
それは、カネの流れを追えば明らかです。
文字通り、先の大戦は、カネのための「権力者の野望」によって始まり、続けられ、多くの若者の命を奪ったのです。

同じことは、いまも続いています。

そんな中にあって、あらゆる理不尽の中にあっても、最後まで勇敢に戦い散って行かれた先人たちがいました。

カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々があります。
北米に近い方の島々が「ラット諸島」、アジアに近い方の島々が「ニア諸島」です。
ニア諸島の西のはずれ、つまりアジアに近い方にある大きな島がキスカ島で、それよりもうすこし西側、(アジア寄り)にある小さな島が、アッツ島です。
北海道よりも、ずっとずっと北にある、とても寒い島です。

80年前、そのアッツ島を守っていた日本軍守備隊2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いが行われました。
そしてこの戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いとなりました。

日本軍がこの島に進出したのが昭和17(1942)年9月18日のことです。
人数は、2,650名でした。
目的は、この島に飛行場を建設するためでした。

アッツ島は無人島でした。
そして形式的には米国領でした。
そしてこの島は、米国にとって、1812年の英米戦争以来の、初の外国軍によって米国領土が占領された事例となりました。

そういうわけですから、米軍はたびたび建設途中のアッツ島に空襲を仕掛けてきました。
そして昭和18年には、大艦隊を率いてこの島の奪還にやってきたのです。

このときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)陸軍大佐(没後二階級特進で中将・以下陸軍中将で統一します)でした。
陸軍中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった、昭和18(1943)年4月18日にアッツ島に赴任されました。
それは、赴任時点で死ぬと決まった転任でした。
念の為もうしあげますが、この人事はなんらかの報復人事とか、内部対立とかそういうものではありません。
寡兵をもって米国の大艦隊と五分に戦うことができる男は、この時点で山崎保代陸軍中将しかいなかったのです。

山崎保代陸軍中将は、山梨県都留市のご出身の方です。
代々僧侶の家柄で、子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を25期生として卒業されました。
陸軍に任官後は、シベリアに出兵され、斉南事件の際にも出動しています。

※斉南事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-597.html

潜水艦でアッツに到着した山崎保代陸軍中将は、守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じく敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。
もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊と大部隊編成でくるだろうと予測したからでした。

米軍を、一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にない。
このように読んだ一事をとっても、山崎保代陸軍中将がどれだけ優秀な士官であったかを知ることができます。

5月5日、守備隊の前に米軍があらわれました。
まさに大艦隊でした。
米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました。

上陸部隊だけで、1万1000人です。
守る日本軍は、わずか2650名です。
しかも日本側には、純粋な地上戦戦闘要員は、半数もいませんでした。

米軍は、洋上で天候回復を待ち、12日から島への上陸を開始しました。
それは小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行ったうえでの、大部隊の上陸でした。

アッツの守備隊は、見事なまでの大奮戦をしました。
島の奥深くまで侵入して来た米軍第17連隊を壊滅させ、また一個大隊押し寄せた米軍と真っ向から対峙し、これを海岸線にまで後退させました。

しかし衆寡敵せず、約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。

この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。
辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。
18日間の短い日記です。

5月29日の最後の日記を引用します。

*******
夜20時、地区隊本部前に集合あり。
野戰病院も参加す。
最後の突撃を行ふこととなり、
入院患者全員は自決せしめらる。

僅かに33年の生命にして、
私はまさに死せんとす。
但し何等の遺憾なし。

天皇陛下萬歳。
聖旨を承りて、
精神の平常なるは
我が喜びとするところなり。

18時、
総ての患者に手榴弾一個宛渡して注意を与へる。
私の愛し、そしてまた最後まで
私を愛して呉れた妻妙子よ、
さようなら。
どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。

美佐江様
やっと4歳になったばかりだが、
すくすくと育ってくれ。

睦子様
貴女は今年2月生まれたばかりで
父の顔も知らないで気の毒です。

政様 お大事に。
こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、

さようなら。

********

辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎保代陸軍中将と、最後までご一緒においでだったものと思われます。

文中にあるように29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎保代陸軍中将は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させました。
集まった兵は、この時点でわずか150名でした。

山崎陸軍中将は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりの兵のねぎらいました。
次に通信兵に
「機密書類全部焼却、
 これにて無線機破壊処分す」
と本部への打電を命じました。

そして「いざ!」と声をかけました。
山崎保代陸軍中将は、右手に抜き放った軍刀を、左手に日の丸を持たれました。
このとき、山崎保代陸軍中将は、みんなにニコッと笑顔を向けました。
そして攻撃部隊の先頭に立つと、生き残った全員を引き連れ、先頭に立って山の斜面を駆け上って行かれました。

生き残った全員があとに続きました。
死ぬ、とわかって最後の特攻攻撃を行ったのです。

この突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
米軍は大混乱に陥りました。
日本陸軍の突撃隊は、次々と米軍の陣地を突破していきました。
それはまさに鬼神の進撃そのものでした。

米軍の死体がそこらじゅうに転がりました。
そしてついに、突撃隊は、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄するのです。
あと一歩でした。
上陸部隊の本陣を抜くところまで、迫りました。

しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて猛然と機銃で反撃に出ました。
味方の兵が、バタバタと倒れました。
そして我が軍は、全員、散華されたのです。

戦いが終わった後、累々と横たわる我が軍の遺体の一番先頭に、山崎保代陸軍中将の遺体がありました。
このことは米軍が確認した事実だといわれています。

山崎保代陸軍中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。
先頭は、いちばん弾を受ける位置です。
おそらく途中で何発も銃弾を受け、何度も倒れられたことでしょう。
けれど撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がり、そしてついに、味方の兵が全員玉砕したときも、彼は突撃隊の先頭に這い出て、そこでこときれたのであろうと推測されています。

これが帝国軍人将校の心得です。
享年51歳でした。

山崎保代陸軍中将以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史が次のように書いています。
「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」
そして米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えました。

山崎保代陸軍中将

このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。

********
アッツ島部隊は非常によく戦いました。
アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。
それでもやはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに次のような電報が届きました。

「こういうふうに戦闘をやりましたが、
 衆寡敵せず、明日払暁を期して、
 全軍総攻撃をいたします。
 アッツ島守備の任務を果たしえなかったことを
 お詫びをいたします。
 武官将兵の遺族に対しては、
 特別のご配慮をお願いします」

その悲痛な電報は、
「この電報発電と共に、
 一切の無電機を破壊をいたします」
と、結ばれていました。

当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

この種の電報の配布第一号は天皇です。
第二号が参謀総長、
第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

そして翌日九時に、参謀総長の杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって参謀総長のお供をして参内いたしました。
私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。

それで杉山元帥はアッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、
「瀬島、終わったから帰ろう」
と、こうおっしゃる。

参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。

この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
「今日の御下問のお言葉は、
 どういうお言葉がありましたか。
 どうお答えになりましたか。」
ということを聞いて、それをメモして役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。

車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

それでもその日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」
と、重ねてお伺いしました。

そうしたら杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、
「瀬島、役所に帰ったら、
 すぐにアッツ島の部隊長に
 電報を打て」
と、いきなりそう言われた。

それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、
「閣下、
 電報を打ちましても、
 残念ながらもう通じません」
と、お答えした。

そうしたら元帥は、
「たしかに、その通りだ」
と、うなずかれ、

「しかし陛下は自分に対し
 『アッツ島部隊は、
  最後までよく戦った。
  そういう電報を、
  杉山、打て』
 とおっしゃった。
 だから瀬島、電報を打て」
と、言われた。

その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。

それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、
「本日参内して奏上いたしたところ、
 天皇陛下におかせられては、
 アッツ島部隊は最後まで
 よく戦ったとのご沙汰があった。
 右謹んで伝達する」
という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて電波を送りました。

********

昭和62年(1987年)日米共同により、日本政府がアッツ島に「北太平洋戦没者の碑」を、最後の玉砕地となった雀ケ丘に建立しました。
そしてこの碑には
「さきの大戦において
 北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび
 平和への思いをこめてこの碑を建立する」
との銘が刻まれました。

日米ともに、多くの民衆の持つ思いは同じです。
平和に豊かに安全に安心して暮らしたい。
家族が戦地に散るようなことがあってはならない。
だから「平和への思いをこめてこの碑を建立」したのです。

アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。

アッツ島慰霊碑

画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6

いまも戦争が起きています。
紛争と呼びなさいとか言われていますが、国対国が軍事力を用いて戦うなら、それは戦争です。
そして戦争は、多くの若者の命を奪います。

それだけではありません。
第一次世界大戦以降の戦争では、むしろ武器を持たない多くの市民を標的にした戦争が、あたりまえのように行われています。

紛争が好きな人、戦争で儲けようとする人たちもいます。
けれど、世界はそういう人たちのためにあるのではありません。
多くの民衆が、豊かに安全に安心して平和に暮らせることこそが、正しい真実です。

戦争の悲惨を知る日本人だからこそ、日本だからこそ、いまも、そしてこれからも、絶対に戦争の惨禍を繰り返さない。
このことを、国民的合意として、強く国際社会に訴え続けて行かなければならないのだと思います。

また、それができる国になっていくこと。
それこそが、日本の進むべき道であると思います。
現に戦いが始まってから当事国のどちらか一方に肩入れするのではなく、どこまでも人の命を大切にしていく。
そのことが、日本人として、あるいは日本国として大切なことであると思います。

※この記事は2010年4月のねずブロ記事のリニューアルです。

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