古事記のなかに、イザナギのミコトが黄泉の国から逃げ帰る際に、
「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂の本にあった
 桃子(もものみ)を三個取って、
 千五百の黄泉軍を待って擊った。
 すると黄泉軍はことごとく逃げて行った」
という記述があります。
(原文:到黄泉比良(此二字以音)坂之坂本時、取在其坂本桃子参箇待擊者、悉坂返也)

たかが桃の実3個で1500もの大軍を追い返すなんて、できるはずないだろというのが、当節の多くの学者の解釈です。
けれど古事記は、このシーンにくる前に伏線を引いています。
それが、
「イザナミが、
 予母都志許売(よもつしこめ)を遣(つかは)して
 伊耶那岐を追わ令(し)めた」
という記述です。

予母都志許売(よもつしこめ)は原文に「此六字以音」とありますから、使われている漢字に意味はありません。
大和言葉の「よもつ しこめ」です。

「よもつ」は、「黄泉の国の住民」です。
「しこめ」は、日本書紀ですと「醜女(しこめ)」と描かれていますから、みにくい人たちという意味になります。
ですからここは、黄泉の国から逃げ帰ろうとするイザナギを、妻のイザナミが「黄泉の国の醜い女達に追わせた、という意味になります。

ところがこの「しこめ」たち、逃げるイザナギが、食べ物を投げると、「追え」という命令も忘れて、その食べ物に食らいつきます。
ということは、「しこめ」たちは、貧しくて、ろくに食べ物も与えられず、ガリガリにやせ細った飢餓状態にありながら、上からの命令で「追え」と言われれば追うしかない、哀れな女達とわかります。
だから食べ物を与えられたとき、追えという命令も忘れて、食べ物に食らいついたのです。
涙を誘う哀れな話です。

そんな「よもつしこめ」に続いて、今度は1500人の黄泉の国の軍団がイザナギを追ってきます。
その黄泉軍に、イザナギは桃の実を3つ投げ与えると、黄泉の国の軍団が帰っていったとあります。

ここで質問です。
「常識で考えて、果たして1500人の追手の軍団に桃の実をたった3個投げたくらいで、
 軍団が引き下がるなど、ありえることでしょうか?」
誰がどう考えてもありえないことです。
ということは、ここで「投げ与えた」とされる「桃の実」は、別な何かの象徴と読む必要がありそうです。

では、「桃の実」が象徴しているのは、何でしょうか。

桃の実は、秋に収穫できる美味しい果物です。
桃の実の味は、ひとくち頬張っただけで、「ああ、しあわせだなあ」と思わせる、甘くて、酸っぱくて、とてもみずみずしい味をしています。
このことはいつの時代も変わらないことです。

ということはつまり、ここで桃の実に寄託して述べていることは、そんな甘くて、酸っぱくて、みずみずしい・・・つまり、甘くて、やさしくて、幸せ感のある味・・・つまりこのことを3つ・・・すなわち、
 あたたかさ  やさしさ  思いやり
の3つであったのかもしれません。

黄泉の国の恐ろしい軍団は、ただ上から強制されてイザナギを追ってきています。
ひとりひとりの名前もなく、全員で十把一絡げの人たち、つまり現代風に言うなら「モブキャラ(背景のキャラクターのこと)です。
イザナギは、そんなひとりひとりに、人間としての「あたたかさと、やさしさと、思いやりの心」を投げ与えたのだ、と考えると、古事記が伝えようとしたことが見えてきます。

黄泉の国の軍団だって、ひとりひとりは、生きた人間です。
人間であれば、誰だって人として人間らしく生きたい。
誰だって自分を主役として生きているのです。
けれど黄泉の国の軍団のひとりひとりは、それまでまったく人間として扱われていません。
ただの「兵」であり、ただのモブキャラであり、ただの背景キャラクターとしてしか見られなかったのです。
そんな彼らをイザナミは、ひとりひとりを人して扱い、やさしさと愛情と思いやりをもって彼らと接したのです。

もしかすると黄泉の国の軍団は、このとき生まれてはじめて人として扱われたのかもしれません。
もしかすると、その前に追ってきたヨモツシコメたちが彼ら軍団に、
「やめて〜、私達この人にたすけてもらったの」
と立ちふさがってくれたのかもしれません。

軍団といっても、そのひとりひとりは人間です。
そして人であれば、幼い頃に両親から可愛がられ、子として、人として扱われていた昔があるものです。
「そうだ!俺たちだって人間なんだ!!」
そう思ったときに、彼らはまさに、
「俺たちは何をやっているのだろうか」と目覚めたのですよ、どんな人でも、人である以上、崇高で大切な存在なのですよと、古事記はこのことを伝えようとしたのではないでしょうか。

いつの時代にあっても、どんな環境にあっても、ひとりひとりは、自分の人生をまさに主役として生きています。
そういうことを大切にしてきたのが、日本という国の文化の最大の特徴であり、日本の神々の心です。
そういうことを古事記は述べています。

このような精神のもとに帰国したイザナギは、三貴神であられる天照大神、月読命、建速須佐之男命をお生みになられています。
ということは、三貴神の神としての精神(あるいは霊(ひ)の根幹)にあるのは、まさに「あたたかさと、やさしさと、思いやり」だということになります。

天照大御神は太陽であり、太陽は過去もいまも未来も、地球上のあらゆるものをあたたかく照らしています。
月読命は月であり、月は時を刻みながら、夜の地球をやさしく照らしています。
須佐之男命は、後に鳥髪村の人々を救うためにヤマタノオロチを退治して思いやりの心を示されています。

これまでの西洋の歴史や東洋の歴史は、常に英雄が革命を起こすという考え方です。
そして革命の都度、名もない多くの命が失われてきたという歴史でした。
けれど、日本は違います。
主役はあくまでひとりひとりの庶民です。
その庶民が照らす一隅が、天下の良心を目覚めさせ、天下を良い方向に導くのです。

世界はいま、ごく一部の人たちの製薬利権、食料利権、環境利権のために踊らされています。
人口を現在の三分の一に減らし、亡くなった人たちの富を吸い上げることで、ごく一部の人たちがより多くの財力を手に入れ、その人達が世界を支配しようとしていると言われています。
それは西洋や東洋に昔からある支配層の思考そのものです。

けれど、そうした思考や行動が、人々に幸せを招くことはまったくありません。
歴史を振り返れば、そうした利権者たちが、多くの命を奪って大改革を実現しても、その後には利権者間での激しい対立と闘争が起こり、凄惨な殺し合いに至ってきたのが、世界の歴史です。

日本にあって、世界の支配層にないもの。
それは「あたたかさと、やさしさと、思いやりの心」です。

そうであれば、私達はいま、まさに「あたたかさと、やさしさと、思いやりの心」で、日本を変え、世界を変えていく。
それが古事記に書かれた神々の心といえるのではないでしょうか。

そんな甘い考えで世界を変えるなんてできはしない、と思われる方もおいでかと思います。
そうではないと思います。
「あたたかさと、やさしさと、思いやりの心」で変える世界でなければ、良い未来などやってくるはずもない、と思います。

私達の活動の根幹にあるもの。
それは常に、
「あたたかさと、やさしさと、思いやりの心」
でありたいと思います。

※この記事は2022年3月のねずブロ記事を大幅にリニューアルしたものです。

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