ジャンボジェット機に限らず飛行機(たとえば羽田から沖縄に飛ぶ飛行機)には、一定の航路があるのだけれど、実は航路通りに飛ぶ飛行機はありません。
その日、その時間によって、上空の気流は毎日全部違う。
飛行機はその中を飛ぶから操縦士がいるのです。

自動車の運転も同じです。
高速道路を目的地に向かって走行しようにも、路面の微妙な変化によって、クルマは左右にぶれます。
だからドライバーは、ハンドルを微妙に操作して、走行車両が車線からはみ出さないようにクルマを操作します。
もっとも最近では、自動運転などが登場して、運転手が操作しなくても、ハンドル操作までクルマが勝手にやってくれるといったシステムも登場するようになりました。
そうしたシステムが必要なのは、クルマは、操縦しなければ、目的地までたどり着くことができないからです。

何かを成そうとするとき、一定の目標や目的地はあっても、物事が予定通りに進むことは、まず、ありません。
早い話、子供の頃に、誰もが「夏休みの計画帳」なるものを作った記憶があろうかと思いますが、明治の学制が敷かれて以来、その「夏休みの計画帳」の通りに夏休みを過ごせた子供は、おそらく皆無です。

かつてソ連が「経済五カ年計画」なるものを想定し、これによって大成功を治めたと宣伝した結果、主に左翼系の学者さんたちによって、企業においてもこうした「計画」が大事であり、長期五カ年計画、中期三年計画、当期経営計画なるものを作ることが、企業にとってあたりまえの常識であるかのように宣伝されたことがあります。

けれど、時間と能力と経費をかけて、そんな計画書を作っても、そのとおりに実現できた会社は、世の中におそらく皆無です。
もっとも、お金を貸す側の金融機関では、企業との力関係保持のために、なんだかんだと言って当該企業に経営計画書を作らせ、あとになって「計画通りになっていないではないか」といって、貸し渋りや貸し剥がしがいつでもできるようにしておく、という(ある意味、悪意での)意味で経営計画書なるものを要求するということは、よくありました。

しかし冷静に見て、世の中に計画通りにピッタリとうまく行った会社など、(繰り返し申し上げますが)皆無だと、これはおそらく断言して間違いないと思います。

とりわけ昨年以降は、コロナの影響によって、それ以前の経営計画書は、日本中の企業において、すべてゴハサンになりました。
あるいはもっと以前なら、震災の被災地における企業の経営計画は、すべてゴハサンです。

計画が不要だと申し上げているわけではありません。
ある程度の計画は、目的地にたどり着くために必要だし、計画達成という目標のもとに、さまざまな準備や、達成のための活動が必要になることは事実です。

申し上げたいのは、計画し、準備万端整えたうえで、実際の日々の活動は、常にブリコラージュ(Bricolage)による、ということです。
多くの企業が、あるいは国が組織が個人が、ここを間違えることで失敗を繰り返しているといえる、ということです。
計画に固執してしまうのです。

昔、『踊る大捜査線』で、アオシマ君が、
「事件は現場で起きているんだ!」
という有名な決め台詞を吐いたことがありますが、まさに、そのことです。
現場は、動いているのです。
だから、軍隊でも、最前線に戦場指揮官がいるのです。

碁でも将棋でも同じです。
相手の出方次第で、当意即妙に打ち手を変化させていかなければ、絶対に勝つことはできません。
特に、相手が強い場合なら、なおのことです。

スポーツでも同じです。
計画は必要です。
しかし、計画通りにはなかなかいかないものです。

そこでブリコラージュという考え方が出てきます。

ブリコラージュ(Bricolage)というのは、フランス語の動詞 「bricoler」に由来する言葉で、その場にあるものを寄せ集めて、試行錯誤しながら盛り付ける・・・つまり結果を出していくことを言います。

ゴッホの有名な絵に「ひまわり」がありますが、ゴッホは、あらかじめああいう絵を描こうとしてキャンパスに向かったわけではなくて、美しい花を描きたいと思って、キャンパスに向かって、絵の具を塗り重ねていったら、結果としてあの「ひまわり」ができあがった・・・・これがブリコラージュです。

計画が結果を作るのではなく、瞬間瞬間の最善手の積み重ねが、良い結果を招くのです。

渋沢栄一は、個人的にはまったく好きな人物ではありませんが、ただ、彼が大成功をおさめた背景には、農家だったお父さんが、我が子の栄一くんに、武士以上の教育を与えようと、忙しい農作業の合間を縫って、直接教育を施し、武芸は神道無念流を学ばせ、結果、優秀な若者となった栄一くんが、我が国では当時めずらしかったフランス語を習得することで、人生を開きました。

渋沢栄一という人物の好悪や善悪評価は別として、彼はその生涯を通じてたいへん勉強熱心であったと伝えられています。
その勉強の積み重ねが、結果として、日本経済の父と呼ばれ、現代に続く500社以上の企業や大学の創業に関わるという偉業を為したわけです。

それは決して「計画された人生」というものではなくて、瞬間瞬間の勤勉を積み重ねる、つまり学問のブリコラージュによって、彼の人生が成果を生んだ、といえるわけです。
そしてそこに、もうひとつの重要なファクターがあります。
それがアブダクション(abduction)です。

アブダクション(abduction)の単語の意味は「誘拐」とか「拉致」です。
ですから最近ではUFOに拉致されたことをアブダクションと呼んだりもされています。

なぜアブダクションが「誘拐」とか「拉致」になるかというと、その語彙が「別な側に転じる」というものだからです。
そこからアブダクションは、論理学において、「いくつかの事実に基づいて、それらに共通する仮説を得る」こと、すなわち「仮定的推論」の意味で用いられます。

論理学上の推論法としては、我が国では演繹法(デデュケーション・Deduction)と帰納法(インデュケーション・Induction)ばかりが強調され教えられています。
あたかもそれ以外の論理的手段は「ない」かのように教育されています。
しかし実は、世の中において、もっとも役に立つのはむしろアブダクション(Abduction)です。

演繹法というのは、簡単に言えば三段論法のことで、たとえば「人は考える。私は考える。ゆえに私は人である」みたいなものです。
しかし、猫だって考えます。そうであれば、私は猫であるのかもしれない。
そうなってくると、思考が混乱してきますから、どんどん思考が複雑化してきて、永遠に結論がでないということになってしまいます。
これでは、いかなる場合にも結論を求める実社会では、およそ役に立ちません。

帰納法は、一般化、法則化する手法で、A君は勉強家である、B君も勉強家である、A君もB君も日本人である。したがって日本人は勉強家である、と一般化するという論理手法です。
けれど、勉強が苦手な日本人だっているわけです。
つまり帰納法は、むしろ結論が誤誘導されやすいという欠陥を持つ論理手法です。

そういう次第ですから、演繹法も帰納法も、やや極端な言い方をするなら、実社会ではおよそ役に立ちません。
そして日本人に対して、その役に立たない論理手法しか世の中に存在していないことにしておけば、日本人を愚民化し、あるいは日本人を誤った方向に洗脳し、誘導することができます。
つまり日本人を、強制的にアホにするためには、日本人にとっての論理的思考方法を、演繹法または帰納法に縛り付けておけばよいのです。
まあ、戦後の日本人は、まさにこれに完全にハメられてしまったわけです。

早い話、「神話がなんの役に立つのか?」という問いに対して、演繹的、機能法的にそれを証明することはできません。
演繹法なら、「神話は役に立つ。なぜならば・・・」となりますが、そもそも役に立たないといっているわけですから、これでは頭から対立と闘争の世界、つまり共産主義の世界に誘導されてしまいます。ということは演繹法では証明できないわけです。

帰納法でも同じです。
帰納法的展開なら、神話が役に立つことを、具体的な事例を神話の中に探し求めることになります。
大国主神がウサギを助けたことが、いかにして今の世の中に役立つのか、という論理展開になれば、これを否定するのは、たやすいことです。
つまり、演繹法でも帰納法でも、「神話が役に立つ」ことを論理的に証明することは不可能なのです。

しかし、神話が役に立つのは事実であり、現実です。
ではどういうときに役立つのかといえば、神話に書かれていることと、いま自分たちが直面している現実とをクロスさせて、そこから新たな知見を得ようとするときにこそ、神話は価値判断の物差しとして機能します。
これがアブダクション(Abduction)です。

アブダクションでは、どのようにアプローチされるかというと、先程の例なら、
事象1「人は考える」
事象2「日本人は勤勉な人が多い」
という2点から、
「日本人に考えることを中心に置いた、新たな勉強を提案してみたらどうか」
といった、新たな仮定的推論を導くのです。
仮定的推論ですから、他にも別な推論が成り立つかもしれない。

大国主神は、困っているウサギを助けた。
これはやさしさが大切であることを伝える神話だ。
いまコロナで大勢の人たちが困っている。
その困っている人たちを助けるには、正しい情報が必要であるに違いない。
そしてそこには、ウサギを助けた大国主神のようなやさしさが必要であるに違いない・・・などと、神話と現代の問題をクロスさせながら、論理的に新たな視点を得る。
それがアブダクションです。

歴史、古典も、ただ記憶力を試すテストで良い点をとるためだけの勉強なら、社会人にとっては不要なものです。
では、昔の人が、どうしてそんな歴史や古典にこだわったのか。あるいは社会人になってからも、そうした学問を重ねていこうとしたのか。
その答えが、歴史や神話や古典だからこそ可能な、アブダクションが可能だからです。

現代の問題のことを時事問題と言いますが、問題というのは、その問題が発生したときと同じレベルの思考で解決できることは、絶対にありません。
そうであれば、時事問題を現代の問題として思考している限り、そこに解決の糸口は見つからない、ということです。
歴史や神話や古典を学び、それらと現代の問題をクロスさせて、そこから解決の糸口を得る。つまり仮定的推論を得る。
そこに問題解決の緒口があります。
だから昔の人は、古典を、神話を學んだのです。

つまり、瞬間瞬間の問題解決をブリコラージュしていくと同時に、いま抱えている問題と、神話や古典や歴史などをクロスオーバーさせながら、アブダクションする。
そうすることで、たいていの問題は、解決の糸口が見つかります。

※この記事は2018年11月のねずブロ記事のリニューアルです。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。

ブリコラージュとアブダクション” に対して1件のコメントがあります。

  1. 永岡 智一 より:

    今日の先生のブログは、まさに「自分の思考と行動そのままやんか」、というふうにハッとさせられました。

    お話のものの見方や考え方で視野も広がるのかもしれないし、そんな気がしてきました。

    私の一番足りないところが視野が狭く、周りに流されやすいところでしたが原因はそこなんだなと気づけました。

    ありがとうございます。

コメントは受け付けていません。