我が国の縄文文明の、おそらく7000年前ぐらいから我が国では青銅器が、鉄器も同時期に製造が始まった可能性があります。
そう考えないと、歴史学的に辻褄が合わないのです。

一般に青銅器時代のあとに鉄器の時代が到来したとされます。
このことは必要な火力に依ります。青銅の溶解温度は、黄銅(銅65%、亜鉛35%)と呼ばれるものでおよそ900度℃~940℃です。
鉄は鉄1538℃で、炭素含有量が多いと1400℃くらいから溶解が始まります。

一方、木を燃やしたときの温度は、炎が300℃〜1100℃で、
このときの燃焼床の温度は500℃〜800℃になります。

土器は粘土で形を作ったあと、火の近くに置いて水分を飛ばすことで硬い土器に仕上げますが、初期の頃の土器は、下部がとんがった形をしています。
下がとんがっていたら、そこらへんに置いて使うことができません。
土中に半分埋めてつかわなければならない。

どうしてそんな面倒なことをしていたのかというと、初期の頃の土器は、いわゆる野焼きで、言ってみれば焚き火の上にただ土器を置いただけという作り方だったのです。
すると燃焼温度がそんなに上がらないので、土器の水分を十分に蒸発させることができず、結果として水漏れがする土器になってしまいます。
だから土中に半分埋めて使っていたのです。

ところが単に平地で焚き火をするだけという形では、風で火が消えてしまったり、同じく風で火の粉が舞って火災の原因になったりします。
そこで縄文中期ごろになると、土器を制作する際に、焚き火の周囲を石で囲むようになるのです。
こうしてできた石の壁が徐々に高くなり、そのうち上に蓋をするようになります。
つまりカマドが誕生するわけです。

同じように火を焚いても、1時間以上カマド内で木を燃やし続けると、煙がほとんど出なくなり、カマド内部の温度は1100℃あたりまで上昇します。
つまり青銅が溶解する温度になるのです。

青銅は銅と錫の合金ですが、このときたまたまカマドの内側に黄銅鉱、輝銅鉱、青銅石などあると、ここから青銅が溶けてカマドの床に溜まります。
なんどもそれが繰り返されるうち、長い歳月の間には、床に溜まるその硬いものを型に流し込むようにしてみようという動きが生まれたとしても不思議はありません。
そして一度、型にはめて青銅器ができるようになると、そこからは道具として様々な加工が施されていくにようになるのです。

縄文式土器は、7000年前辺りから、底の尖った尖底(せんてい)型から、底の平らな鉢形になります。
これはつまり火力が変わったということです。そ
して鉢形になれば、青銅器の製造が可能になるのです。

現在、学会では日本で青銅器の製造が始まったのは、弥生時代前期初頭(紀元前4世紀頃)としています。
そしてその技術は朝鮮半島から伝来したものであったのだといいます。
(我が国における青銅器の初出は、山形県遊佐町の3崎山遺跡から発掘された、長さ2十6センチの青銅刀子(せいどうとうす)です。
この刀は中国から渡来した日本最古の青銅刀子と言われています)。

朝鮮半島での青銅器製造は3300年前頃から始まったとされています。
これは中国東北部の遼寧省や吉林省を中心に広がる紅山文化の影響を受けて、朝鮮半島北部を中心に青銅器文化が発展したことによるとされます。

中国での最古の青銅器は、甘粛省の馬家窯文化に属する斉家文化の銅嶺遺址 から出土した銅嶺大鼎(どうりょうだいてい)で、4700年前の製造と考えられています。

西洋での青銅器の製造は、6000年前には、バルカン半島のあたりで青銅器が製造されるようになり、それまでの石器や骨角器に代わって、武器や工具、装飾品などに広く用いられるようになったとされます。

要するに、世界ではおよそ6000年前から青銅器が製造されるようになり、この影響を受けて中国でも朝鮮半島でも後に青銅器が用いられるようになったというわけです。

ところが、これら遺跡からの発掘物は、いずれも形が整い、精巧な形をした物品です。
普通に考えて、最初からそのような精巧な細工物などできようはずもありません。
むしろ、偶然の産物によって人が青銅を手に入れ、これを型に嵌めて色々と工夫を凝らすうちに、徐々に精巧な道具となって進化していったと考えるのが普通です。

そしてこのように考えたとき、日本で1万6500年前には土器が製造されており、かつ7000年前ころには1100℃の熱をカマで得ることができていたという客観的事実から、おそらく7000年前頃には、青銅器の製造が我が国で始まっていたと考えたほうが、歴史学的には正解だと思えるのです。

7300年前には、アカホヤの破局噴火があり、日本人たちは世界に向けて散っていきました。
けれど祖国というのは、どこか恋しいものですし、行くことができたのなら、帰ることもできたわけです。
なにしろ当時の倭人には葦船があったからです。

そして7000年前にはカマの進化から青銅器が製造されるようになったとすれば、その技術を、大噴火の際にそれぞれの散った先に伝播していったとしても、何の不思議もないのです。

さらにカマは進化していきます。
石で周りを囲むのではなく、斜面にトンネルを掘り、そのトンネルをそのままカマにしてしまう動きが始まります。
そうする事によってカマの中で一度に多数の土器を同時に焼くことが出来るからです。
土器の大量生産が出来るようになってくると、同じような土器をただいくつも作るのではなく、もっと凝った面白い形の土器を作ろうという動きが始まります。
こうして時代は火焔土器のように非常に造形の凝った縄文土器が誕生していきます。

ところが、ここで面白い事が起こります。大きな洞穴で、つまり大きなカマで土器を焼くようになると、窯が広いのでその広い窯の中でたくさんの薪(たきぎ)を燃やすようになるのですが、この薪の燃えカスとなった炭が実はまだまだ燃えるから再利用しようじゃないかということが始まるのです。

そして面白い事に、木を燃やしても最高で1100℃の温度しか得ることができませんが、炭を燃やした場合、そこにフーフーと息を吹きかけて炭を真っ赤に怒らせると、燃焼温度は約1500℃から2500℃にまであがるのです。

そしてこれだけの温度を得ることができるようになると、カマの中に鉄鉱石があれば、そこから鉄が流れ出して、カマの底に溜まります。これを型に流し込めば、そのまま鉄器ができあがるのです。

鉄器は青銅器よりもはるかに硬くて丈夫です。
もちろん木材とは比べ物になりません。
そこで私たちの祖先は、そうして出来た鉄器を用いて、鍬や鋤、あるいはツルハシのような物を作るようになるのです。

この鉄についても、これまでの学会では、弥生時代前期から中期(紀元前4世紀頃)に朝鮮半島から伝わったのが始まりとされてきました。
そして弥生時代には、まだ日本では製鉄技術が確立されていず、鉄製品はすべて朝鮮半島から輸入されていて、日本で鉄器が製造されるようになったのは、それから900年もあとの、古墳時代中期(5世紀)からのことであるとされてきました。

ところが2020年に、淡路島の舟木遺跡で、鉄器を生産する鍛冶工房4棟を含む20棟の竪穴建物が発見され、さらに魚を突くヤスや釣り針など170点を超える鉄器が出土しました。
これらはいずれも紀元前3世紀頃のものということが確認されました。
さらに福岡県春日市にある赤井手遺跡で発掘された鉄器は、発見当時は紀元前300年(4世紀)の弥生時代の始期のものとされていたのですが、炭素14年代測定法(C14)で再調査したところ、これら鉄器が作られた時期は、なんと紀元前10世紀頃(紀元前940年頃)と判明したのです。
一方、朝鮮半島には確かな鉄の製錬遺跡が未だに発見されていません。

世界では、最古とされる鉄器は、2021年にイランのシャフリ・ソフテ遺跡で、紀元前3000年頃の地層から発掘された鉄製のビーズになります。
明らかに人工的に作られた鉄器で、現時点で世界最古の鉄器である可能性が高いとされています。

いずれにせよ、鉄器の製造のためには、1500℃以上の高温の炉が必要で、その火力は古代においては炭から得られたとするならば、炭を使った炉が必要になります。
この点について我が国では、大阪府交野市の星田旭縄文時代住居遺跡から、およそ8000年前の竪穴住居跡の円形の炉跡から、焼土とともに散乱した木炭片が発見されています。
おそらく炭火を使って調理や暖房を行っていた跡だといわれています。

また、広島県呉市にある西ガガラ遺跡からも、およそ8000年前の地床炉が発見されています。地床炉というのは地面を掘って造られた炉のことで、構造は簡素なものですが、ここでも木炭片の散乱が発掘されているのです。

このことと、先程のカマの使用がおよそ7000年前には始まっていたことをあわせ考えると、我が国ではおよそ7000年前には、炭を用いてカマを焚くことが行われていた可能性があるのです。
そしてその方法ならば、鉄を溶解させることが可能になります。
つまり我が国では、青銅器とほぼ同時期に、あるいは青銅器よりも少し遅れて、ほぼ同じ時期から鉄器もまた用いられ始めた可能性があるといえるのです。

青銅器にしても鉄器にしても、我が国ではそれらはずっと農機具として用いてきた歴史があります。
弥生時代頃になって、大陸との関係から日本人も武装せざるを得なくなって、鉄製の刀剣などが造られるようになるのですが、それ以前では、鉄も青銅も、いずれも土を耕したり、木を伐採したりするためだけに用いられてきたのです。

ところがそんな鉄や青銅器が、大陸に渡ると、それらはすべて武器として用いられるようになりました。
そして武装した兵たちに、偉い人が最前線で戦わせるという時代になっていきました。
喧嘩するなら自分で喧嘩すればよいのに、自分は怪我をしないように後ろで指揮を取り、喧嘩は他の人々(兵)にやらせるという形が、世界では定着していったのです。

鉄や青銅器を、農機具として用いた日本人、武器に用いた世界の王国。
この文化の違いは、極めておおきいものといえます。
私たち日本人は、人から奪うのではなく、どこまでも「みんなで働く」ことを大切にしてきた歴史を持つ民族であることを、この事実が示すからです。

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