よく聞く言葉に「エビデンス」という言葉があります。
「根拠」「証拠」「裏付け 」を意味する言葉です。
語源は「e-(外に)+videre(見える)」で、表に見えている事実をという意味です。

医学なら、たとえば英国の何という医者が、その症例に対して、どのような処置をすることで、病状が改善されたといった事実があり、その事実がレポートとなって世界に向けて公表され、そうした処置の事例を基に、日本の医師が、その処置に何らかの新しい方法や医薬品を加えることで、病状がさらに劇的に改善された、といったことが、まさしく「エビデンス」であり、その積み上げが医学そのものの発展に寄与します。
そしてこうした流れは、理系一般にいえることといえます。

ところが文系の場合、「法学」も「歴史学」も「文学」などにおける「エビデンス」は、多くの場合、単にその先生の「意見」でしかありません。
意見は事実をもとに構築されますが、どんなにすごい学者の先生が書いたものであっても、事実と意見は異なるのものです。
にもかかわらず、よく言われるのは、
「誰のどの本に書いてあったのか、エビデンスを示せ」
です。

しかしこれは意味がないことです。
どのような素晴らしい御高説であっても、意見は意見、その人個人の考えでしかないからです。

たとえば古墳であれば、わかっている事実は、現実に多数の「古墳が存在している」ことと、その古墳が時代とともに徐々に大きくなり、仁徳天皇陵をピークにその後の規模が縮小していること、副葬品などが多数存在する遺構があることなどです。

これらを時系列に並べて、
「古墳は、皇族貴族や豪族といった権力者が、自分の持つ権力の大きさを墓の大きさで表現しようとした世界的に珍しい遺構である」という墳墓説が、現在の学会の主流です。
でも、それはあくまで「意見」でしかないのです。
タイムマシンでも発明されない限り、実際には何のために古墳を築いたのか、その真実はわからないのです。

ところが、どこかの権威ある学者の先生が、単なる意見を本にすると、それがあたかも「事実」のように認識されます。
そしてそれが「エビデンス」となり、「エビデンスを示す」ということは、その学者の先生のどの本の何ページにそれが書いてあるのかが、「エビデンス」となっています。

ところが文系というのは、かつてGHQが入ってきたときに、学者はことごとく公職追放されています。
代わって教授のポストを得たのは、戦時中に特高警察に逮捕され刑務所にはいっていた共産主義者や無政府主義者、あるいは日本人のような顔をしていて、日本語を話すけれど、日本人ではない人たちでした。

そして、戦前戦中までの教授たちが書いた本のほとんどは焚書処分となり、代わって(政治的)に、戦後の「教授」たちが書いた本を「エビデンス」として参照しなければ、論文として認められないことが常識化されていったのです。

けれど、どんな場合でも、「意見(オピニオン・opinion)」は「意見」であって、「事実(Fact)」とは異なります。
そしてあたりまえのことですが、「意見」は「エビデンス(evidence=証拠)」にはなりません。

古墳が豪族たちの権力の象徴であったということは、あくまで「意見(オピニオン・opinion)」であって、「エビデンス(evidence=証拠)」ではないのです。

織田信長は本能寺の変で倒れたと、昔の書物に書かれています。これが事実です。
けれど、本能寺の焼け跡から信長の遺体は出ていません。これもまた記録された事実です。
するとそこから、「もしかすると信長は生きていたのではないか」という推測が生まれます。

こうして事実をもとに、論理的に推考することを、論理学用語で「アブダクション」と言います。
タイムマシンがない以上、現場を直接見に行くことは誰にもできません。
したがって、どうして信長の遺体があがっていないのかの理由を説明するものは何もありません。
にもかかわらず、当時の模様を記した書物には、このときに信長が亡くなったと書かれています。
けれど、亡くなったという証拠(遺体)がないということは、このときに信長が死んだという記述は、ただの「意見」でしかないのです。

「歴史」は、「過去の事実の因果関係を書き記すもの」です。
真実は、タイムマシンが発明されて、直接その時代の当事者にインタビューすることが可能になるまで、わからないのです。
いや、たとえタイムマシンが発明されたとしても、インタビューの際に、その人が正直に答えてくれるかどうかもわかりません。

なぜなら、そもそも人間の心や思考というものは、一瞬の中に様々な思考、ときとして真逆な思考が働くものだからです。
頼朝は鎌倉で幕府を開きましたが、どうして頼朝が鎌倉に幕府を置いたのか、頼朝にインタビューしても、まともな回答は返ってこない可能性のほうが大です。
けれども歴史学は、なぜ頼朝が鎌倉に幕府を開いたのかの因果関係を事実に基づいて証明しなければなりません。
そして誰もが納得できる証明ができたときに、それははじめて歴史となるのです。

赤穂浪士は、主君浅野内匠頭の仇討ちをした、これは事実です。
けれど、どうして仇討ちをしたのか。その理由はわからない。
当時の芝居などに書かれている筋書きは、吉良上野介にイジメられた、というものです。
しかし、年寄に少々イジメられたかといって、ブチ切れて殿中で刃をふるうようなバカ殿のために、命がけで討ち入りをするなんてことは、普通の常識で考えたらアリエナイことです。
では、どうして討ち入りが行われたのか。
ほんとうのところ、浅野内匠頭に何があったのか。
この因果関係を、事実をもとに明らかにするのが、歴史です。

ですから歴史は、新たな史料が、たったひとつ見つかっただけで、それまでの定説がねこそぎひっくり返ることが多々あります。
つまり歴史というのは、それ自体が「意見」であって、「事実」ではないのです。

繰り返しますが、「意見」と「事実」は異なります。
いかに論文としての形式が整っていたとしても、「意見」を「事実」として考察した論文なら、それはエビデンスにはなりえないし、そのような論文をもとに論文を書くなら、それは屋上屋を架すことにしかなりません。

さらに文学である「古文」になると、たとえば古事記や日本書紀、あるいは枕草子や徒然草でもそうなのですが、現代において書かれた解説なるものは、すべて「その書を読んだ学者等が感じた主観」でしかありません。
「主観」は、決して「エビデンス(evidence=証拠・証明)」にはなりません。

高名な「先生」の論文に論理的な矛盾があり、非合理的で、たとえば近隣諸国条項や、戦後すぐならGHQに配慮したなどの一定の偏見に基づくものであるならば、それは事実に基づいて訂正されるべきものです。
そのような「先生」の論文を「エビデンスにしなければ、論が成り立たない」とすることは、学問への冒涜です。

古事記に、天照大御神さまが岩屋戸からお出ましになられる際に、天手力男神が、力にまかせて天照大御神さまを岩屋戸から「引っ張り出したのだ」という、よく世の中に通っているご説があります。
ここは原文では「天手力男神取其御手引出」とあるところです。
しかしここでいう「其御手引出」は、
㈠「天手力男神が、天照大御神さまの御手をとって強引に力にまかせて引っ張り出した」
ではなく、
㈡「天手力男神が、天照大御神さまの御手を引かれ、天照大御神さまは(自らの御意思で)岩屋戸からお出ましになられた」
と読む必要があると思います。

なぜなら天照大御神さまは最高神だからです。
最高神というのは、いわば最強の神様ですから、天照大御神さまが、ご自身で岩屋戸からお出ましになられる御意思がなければ(まさに御神意)がなければ、天手力雄命がいくら力自慢であったとしても、天照大御神さまの御手を取ることも不可能なら、強引に力任せに引っ張り出すなど、絶対に無理なことです。
もし天手力雄神がそのようなことをするならば、まさに天照大御神さまの鎧袖一触、天手力雄神は、遠く宇宙の果まで飛ばされてしまわれたかもしれません。
ここでは、どこまでも天照大御神さまの御意思が尊重されたと読むべきで、㈠のような解釈は成り立たないとみるべきです。

けれど、「ではそのように書いてある文献が過去にあるのか」と言われれば、ありません。
ないから本にしたり、動画でお話したり、ブログに書いたりしているのです。

エビデンスというものは、「誰かの意見」であってはならないのではないかと思います。
どこまでも、事実や原文に即し、それが書かれたものであるならば、その書いた人、あるいは当時の人々の書いた意思や目的など、書かれた背景をしっかりと見極めた上で、事実に即して自分の頭で考える。
そういうことが大事なのではないかと思います。

未来は、今の思考や行動によって変わります。
どのような未来にやって来てもらうかは、いまどのように生きるのか、どのように判断し行動するのかにすべてがかかっています。
誰かを頼ったり、人の話を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え行動することができるようになることが大事です。

【併合時の日本政府からKorea総督府への通達】というものがあります。
詳しいことは
https://nezu3344.com/blog-entry-1690.html
に掲載しています。

このなかに、次の言葉があります。

・彼らは争議に際して、弁護士等権威ある称号を詐称せる者を同道せる場合がある。
 権威称号を称する同道者については、関係各所への身元照会を行うこと。

「権威ある人の言うことだから正しい」「本に書いてあることだから正しい」といった考え方をしていると、簡単に騙されてしまうのです。
そのような考え方は、早々に捨て去ることです。

論文等の文献から、「意見」を捨てて行きます。
すると事実だけが残ります。
その事実を基に、自分の頭で考えます。
事実と事実を合理的かつ客観的、論理的に再構成するのです。
するとこれまで霧に覆われて見えなかったものが、はっきりと見えてきます。

それが「真実」です。
事実だけが「エビデンス」の名に値するものです。

※この記事は2022年4月のねずブロ記事のリニューアルです。

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エビデンスを考える” に対して2件のコメントがあります。

  1. 内田 幸一 より:

    ありがとう御座いました。

  2. 清野薩夫 より:

    常日頃思っている事をまとめていただいて有難うございます。聞伝えだけで日本人は野蛮だ人殺しだ、白人は正義だと言う海外の人たちにエビデンス&論理的に会話できる力がつきそうです。今後もたくさんお教え下さい😊

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