下にご紹介するお話は、昭和12(1937)年から、昭和22(1947)年まで、小学校5年生の国語の教科書に掲載された物語です。(読みやすくするために、現代語にすこしアレンジしています)


「稲むらの火」

この事件が起こった頃、五兵衞はかなりの老人でした。
五兵衞の家は、村での物持ちでした。
長い間、村の庄屋を勤めたので、五兵衞は村の人々から尊敬されていました。
村の人たちは、いつも五兵衞を「浜口のおじいちゃん」と呼びました。
村いちばんの金持なので、「浜口の大尽(だいじん)」ともいっていました。

五兵衞はいつも小作人や貧乏漁師のためになることばかりしていました。
喧嘩の仲裁から、困った時のお金の立替え、ときには貧乏人にタダ同様に売ってやりもしていました。
五兵衞の大きな草葺(くさぶき)の家は、一つの湾を見おろした小さな高台の上に建っていました。
この高台は、小さい段々の水田が浜の方へと並んでいて、三方は山に取り巻かれていました。
この土地は、海に向って、その山の腹から浜辺まで、えぐりとったようになっていて、五兵衛の家は、その中程の高台にありました。
海の方から見ると、細い、白いうねうねした道が、段々の田を左右にわけて、下の村から五兵衛の家へと登っていました。
そうして下の村には、湾に沿って90ばかりの草葺と、一つの神社とが並んでいました。

それは秋のある夕方の事でした。

五兵衛は、下の村の祭りの用意を、自分の家の縁側(えんがわ)から眺めていました。
その年は非常に稲の出来がよかったので、氏神で盛んな豊年祭が行われることになったのです。
老人は、村の屋根の上にひるがえっている大幟(おおのぼり)や、竹の竿(さお)についた祭提灯(まつりちょうちん)や、神社の森影に見える飾り行燈(あんどん)や、派手な揃い(そろい)を着た若い人たちの群を見ることができました。

その時五兵衛と一緒に居たのは、小さい十歳の孫だけでした。
他の者は早くから村の方へ下りて行きましたが、少し加減の悪かった五兵衛老人は、孫と淋しく留守居をして居たのでした。

その日は秋だというのに、何となしに蒸暑い日でした。
夕方になるとそよ風が出ましたが、それでも何だか重くるしい暑さが残っていました。
そんな日にはとかく地震があるものでしたが、この日も間もなく地震が来ました。その地震は、別に驚くほどのものではありませんでした。

しかしこれまで幾百度となく地震を経験している五兵衛老人には、変に思われました。
長い、のろい、ゆったりとした揺れようでした。
多分極めて遠い土地の大地震の余波のようでした。
家はきしみながら、幾度か穏やかに揺れて、また元の静けさに返りました。

地震が終ると、老人の鋭い考え深い眼は、気ぜわしそうに下の村を見ました。
ちょうど、何もわからない所で、何とはなしに少し変だという感じに、思わずある一方に気が取られるように、老人には、何となく沖合の方に、ただならぬ事があるように思われたのです。

立上って海を眺めました。
海は不意に暗くなって、何だか風と反対に波が動いているようでした。
波は、沖へ沖へと走っていました。

たちまちのうちに、下の村でも、この妙な出来事に気が付きました。
先の地震を感じた人は一人もなかったのですが、この海の動きには、皆が確かに驚きました。
老人の眼にも、村の大勢が浪際(なみぎわ)へ浪際へと走るのが見えました。

誰もかって知らないほど、海水が引きはじめました。
これまで知られなかった肋骨(ろっこつ)のやうな畦(あぜ)のある砂の広場や、海草のからんでいる大きい岩底が、見るまにあらわれて来ました。
が、村の人々は、この意外な引潮が何を意味するのかは知らないようでした。

五兵衛自身も、こんな有様を見たのは初めてでした。
しかし、幼い時に父が話したことがふと胸に浮んで来ました。
何百年の前にあったという伝説でも彼は知っているのでした。
彼には海がどうなるのかが解ったのです。

たぶんこの時、五兵衛老人の咄嗟(とっさ)に考えたことは、下の村へ孫を使にやるにかかる時間の事であったことでしょう。
山のお寺の僧に、大釣鐘(おおつりがね)を鳴らして貰(もら)うまでに要る時間のことであったことでしょう。

老人は孫に向って、大声で命じました。
「おい、忠、早く。
 大急ぎだ。
 松火(しょうか)をつけて来い!」
(注:松火=たいまつ)

松火は嵐の晩に使うために、海岸の村々ではどの家にもありました。
子供はすぐに持って来ました。
すると老人はそれを掴(つか)んで、家から少し下った田に急ぎました。
そこには浜口一家の1年の労役の酬として、熟しきった稲の刈束が、堆(うずたか)く積んでありました。

老人はその近いものに火をかけました。
日に乾いた藁(わら)は、吹きあげる海風にどっと燃えあがりました。
老人は、走って第二の稲の山に火をつけました。
第三の山につけました。
一山、一山、たちまちに天を沖する大きな煙の渦が、幾條も幾條も合わさって空に高く渦巻きました。

孫の忠は青くなって、
「お祖父さん。お祖父さん。
 どうして。どうしたの。」
と叫びましたが、五兵衛老人は答えようともしませんでした。
彼はただ命の瀬戸にある下の村の四百人の事ばかり考えていたのでした。
忠は突然泣きだして、家の中へ駆けこみました。
祖父が気が狂ったと思ったのです。

老人は自分の家の最後の稲むらに火をつけると、その松火を投出ししました。
この炎に、山寺から鐘が鳴り初めました。
村の人々はこの鐘の響に、この煙の渦巻に浜辺から村を過ぎて、丘へ丘へと、蟻のむれのように登って来ました。
日は沈みかかっていました。
湾の皺(しわ)のある海底や、斑(まだら)に土色のある大きい砂原の広がりを、最後の夕映がぼんやりと照らしました。

波はまだ、沖へ沖へと走っていました。
実際は、老人の思ったほど長くたたないうちに、火消のための一隊が高台に着きました。
その二十人ばかりの村人は、すぐ稲むらの火を消しにかかろうとしました。
老人は手を挙げて止めました。

「うっちゃって置け。
 燃やして置け。
 大変だ。
 村中皆ここへ来るのだ。」

村中の人々は追々と集まりました。
若い男たちや、子供が来ました。
元気な女たちや娘なども来ました。
それから老人の大方も来ました。
しまいには、上からの合図に、子供を背負った母親たちも来ました。

が、次第に集まった人々は、やはり何事か知らずに、ただ燃えている稲と、老人の顔とを、不思議そうに眺めて居ました。日は沈みました。

「お祖父さんは気が違ったんだ。
 お祖父さんが火をつけたんだ。」

孫の忠はすすり泣きながら言いました。

「火をつけたのは俺だ。
 だが、村じゃみんな来たか?!」

老人が厳然と言いました。
村の組合のおもだった人たちや、家の主人たちは、人々の顔を見回したり、坂を上がって来るものを数へたりして言いました。

「はい、みんな居ます。
 でなくても、直ぐに参ります。
 一体どうしたのですか?」

「来た!
 見ろ!」

老人は沖の方を指さして、力一杯の声で叫びました。
「来た。
 どうだ、おれはきちがいか?
 見ろ!」

黄昏(たそがれ)のうす明かりをすかして、一同は東の方を見ました。
そして薄暗い地平線の端に、まるで海岸のような細い長い一線を見ました。
それは見ているうちに太くなりました。
線は広くなりました。

たちまちその長い暗がりは、堤防のように、そうして絶壁のやうに聳(そび)えて、鳥の飛ぶより早く進んで来ます。押しかえしの波だったのです。

「津波だ!」
と人々は叫びました。

海がおそろしく盛上がって、山々をとどろかす程の重さで、電をつんざいたような、泡沫とともに海岸にぶつかったとき、何ともいえぬ重い、強い、すべての叫び声を打ち消すような響きがしました。
一時は、雲のように坂の上へ突進して来た水煙のあらしの外には、何も見えなくなりました。
人々はうろたえながら、ただおびえました。

そして再び見直した時、人々は、家々の上に荒狂って走る、白い恐ろしい海を見ました。
その海は、うなりながら土地の五臓六腑(ごぞうろっぷ)を引きちぎって退きました。
二度。三度。五度。
海は進んでは退き、又進みました。
しかしそのたびごとに、波は小さくなって、だんだん元の海へと帰って行きました。
大風のあとのやうに荒れながら。

高台の上には、しばらく何の声もありませんでした。
一同は、下の村の荒廃を無言のうちに見つめていました。

投げ出された岩や、裂けて骨の出た絶壁のものすごさ。
家や社がさらわれた跡には、海底からもぎ取られた海藻や砂利(じゃり)が放り出されいるむごたらしさ。
村は無い。
田畑の大部分も無い。
浜には家が一つも無い。
見えるのは、ただ沖の方に物狂はしく浮き沈みする藁屋根の二つ三つだけです。
死を遁(のが)れた恐ろしさと、家と財とを奪われた悲しさに、人々はただ茫然とするばかりでした。

老人が再び言いました。
「稲に火をつけたわけは、あれだ」

人々は、自分の命が救われた事に気がつきました。
思わず地面に土下座して、五兵衛の前で涙にむせびました。
老人も少し泣きまた。
嬉しさから、そして無理をした身体の苦しさから。

でもそのままでは居ませんでした。
「さあ、俺の家は村の家だ。
 お寺もある。
 皆しっかりしろ!」
彼は先に立って案内しました。
人々はただ叫んだり、関の声を挙げたりしました。

それから村の困難は随分続きました。
しかし村はだんだんに回復しました。
それには老人の努力も大きいものでした。

村が再び立て直されたとき、人々は五兵衛に対する自分等の負債を忘れませんでしたが、その偉大な慈悲の魂に対して、何とも酬(むく)いることが出来ませんでした。

彼らは、五兵衛の魂は全く神の如きものであると思いました。
そこでその魂のために、一つの社を建てて、鳥居の上には金字で「五兵衛大明神」の額をかけました。
村中は少しもその尊さを疑うことなく、この神の前に祈りと供物を捧げました。

それについて老人がどう感じたか、私は知りません。
ただ、私の知っているのは、下の村で彼が神として祀(まつ)られているとき、彼は山の上の古い草葺屋根の中で、子供や孫たちと一緒に、前の通り人間らしく質素に住んでいたことです。

もう彼が死んでから百年以上になりますが、神社はやはり存在していて、村人の祈りは、この善良な老人の御魂(みたま)に向って、今も捧げられているといふことです。

************

この物語の原作は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の、「A Living God(日本名「生神」)」です。
ハーンは、明治29(1896)年岩手県三陸沖で起こった明治三陸沖地震のときの津波被害(死者2万1915名)の報に接して、この作品を書いたと言われています。
原作は英語です。

明治三陸沖地震は、震源地が岩手県釜石市東方沖200kmで、M8.5の巨大地震です。
宮古測候所の地震計の記録によると、揺れは、なんと5分間という長い時間続き、各地の震度は2~3程度と微弱だったそうです。
だから誰も気にかけなかったし、地震による直接的な被害はほとんどありません。

ところが、この長い揺れのあとに、巨大な大津波がやってきました。
津波による被害は、
 死者  2万1,915名
 負傷者  4,398名
 家屋流失 9,878戸
 家屋全壊 1,844戸
 船舶流失 6,930隻
です。甚大な被害でした。

大津波の第一波は、地震発生から約30分後のことでした。
当時の記録によれば、津波に襲われたのは北海道から宮城県にわたる広い範囲です。
北海道の襟裳岬では4M、青森県八戸で3M、宮城県女川町で3.1Mの津波でした。

巨大津波が襲ったのは、岩手県の三陸沿岸です。
最大波高は、
 釜石市  8.2M
 宮古市 18.9M
 山田町 10.5M
 大船渡市22.4M
と、軒並み10Mを超える高さでした。

特に綾里湾の奥では、入り組んだ谷状の部分を津波が遡上したため、日本の本州で、観測された津波としては、最も高い、「波高38.2M」の津波となりました。
入江では、津波が巨大化するのです。

平成16(2004)年に起きたインド・スマトラ沖地震(M9.3)では、大津波によっ22万人以上の死者が出ました。
タイのプーケット島では、当時、津波がやってきたときの様子が、テレビで日本でも数多く紹介されました。
プーケットでは、地震発生の2時間半後に巨大津波が到来しています。
津波の速度、それはなんと時速700kmに達するものでした。
津波は、ただの高波ではなく、それに速度というエネルギーが重なるものなのです。

巨大地震による津波は、震源地から遠く離れた所にも影響がでます。
地震自体が巨大でも、震源地から遠く離れていたら揺れは小さく、しかも揺れがゆっくりとしていて、長時間揺れが続きます。
そして沿岸部で、潮が大きく沖に退き、
退いた潮が、時速700kmという猛スピードで一気に押し寄せるのです。
これが津波の恐ろしさです。

もし、「長時間の揺れ」、「潮が沖に退くこと」が、「巨大津波の前哨」であるということを多くの人が知っていれば、スマトラ沖地震では、これだけの被害はなかったかもしれません。
そう考えると、とても残念です。

スマトラ沖地震では、平成17(2005)年1月に、大津波の被害後にジャカルタで開催された「東南アジア諸国連合緊急首脳会議」で、シンガポールのリー・シェンロン首相が、当時の小泉純一郎内閣総理大臣に、
「日本では小学校教科書に
 『稲むらの火』という話があって、
 子供の時から津波対策を教えているというが、
 ほんとうか?」
と尋ねたそうです。
残念ながら小泉総理(当時)は、戦後世代でこの話を知らず、東京の文部科学省に照会したけれど、誰も知らなかったといいます。

ハーンが書いた、「A Living God」は、実話です。
舞台となったのは、安政元(1854)年の安政南海地震で、このとき、紀州藩の広村(現在の和歌山県広川町)に襲来した大津波を、事前に潮の変化で悟った浜口儀兵衛が、大量の藁(わら)の山に火をつけて、村人を安全な高台へ避難させ村人を救ったという故事を題材にしています。
この安政南海地震は、M8.4の大地震でした。
津波の規模も上でご紹介した明治三陸沖地震と、ほぼ同等の規模のものです。

昭和9(1934)年のことですが、当時の文部省が新しい国語と修身の教材を公募しました。
このとき、事件のあった村の隣村で小学校の教師をしていた中井常蔵が、ハーンが英文で書いた「A Living God」を、やさしく日本語に翻訳・再構成して「燃ゆる稲むら」という題名で、この物語を応募しました。

原文はそのまま採用となり、「稲むらの火」と題されて、昭和12(1937)から、終戦後の昭和22(1947)年まで、尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」の教科書に掲載されました。

しかしこの物語は、戦後すぐ、教科書から外されました。
占領軍であるGHQが、日本人の公徳心を養う内容を記載した教科書の記述に、ことごとく内容の削除と変更を求めたからです。

日本は、昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で、約7年に及ぶ占領から解放されて、主権(独立)を回復したことになっています。
しかし、あれから27年も経って、いまだに教育の現場にこうした素晴らしい物語が、復活していません。
日本人の被占領化、とりわけ教育現場における被占領化は、いまだに続いているのです。

ちなみに、物語で紹介されている「津波の前に潮がひく」という事象については、一部の左翼系の学者などから「物語が説くような形で津波の襲来前に海水が退くとは必ずしも限らない」などと指摘されているそうです。

しかし小規模の津波には、なるほどそれはないかもしれないけれど、甚大な被害を及ぼす大津波については、低い震度、長時間続く揺れ、沖に退く潮、が前触れであることは実際に多いわけだし、津波対策には、早期避難がとても大切であることを考えると、地震大国といわれる日本で、子供たちにこうした事柄を教える必要が「まったくない」といえるのか、疑問が残るところです。

さて、物語に登場する五兵衞じいさんですが、実名は「浜口儀兵衛」です。
実際には、当時おじいさんではなく、まだ30代の学習塾長だったようです。
家も町中にありました。
また、燃やしたのも稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えた藁の山(=稲むら)でした。
津波が発生したのが、12月24日で、冬のことですから、当然といえば当然です。

浜口儀兵衛のすごいところは、津波災害に際して迅速な避難に貢献しただけでなく、被災後、再び被害が起こることを考えて、私財を投じ、村人を動かして、津波除けの大堤防築造した点にもあります。
さらに浜口儀兵衛は、大堤防構築のために工事費を自分が私財を投じて負担すること、広村に対し、一定期間、特別に年貢の免除することを、紀州藩に願い出て、許可を得ています。

そして4年近い歳月を費やして、長さ652M、高さ3M(平均海水面上約4.5M)、幅、底面17M、上面2.5M~3Mという立派な大堤防を築造しました。
彼が私財を投じて堤防を建造しようとした背景には、津波から村を守るというだけでなく、被災し、家や漁船を失って虚脱状態に陥った村人たちに職場提供するためだったと言われています。

浜口儀兵衛は、村人たちに、自分たちの力で堤防を築くことによって、独立自主の精神を養い、勤勉努力の習慣を身につけさせたともいわれています。
約4年間の工事は、延5万6736名におよぶ雇用と労働奉仕を生みだしました。
そしてこの大堤防は、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して、村からまったく被害を出しませんでした。

堤防は、いまでも残っていて、毎年11月には、広村では、津波祭が行われています。
祭では、土を手で土手に運こび、感恩碑の前で儀礼が行われます。
地元には、浜口儀兵衛が幕末に開いた「耐久塾」の名を受け継いで、広川町立耐久中学校、和歌山県立耐久高校が、あります。

明治36(1903)年のことです。
浜口担(になう)という青年が、ロンドンに招かれ、The Japan Society で講演を行いました。

その席上、ある若い英国人の婦人が立ち上がり、
「皆さんの中には、ラフカディオ・ハーンが書いた『生神様』と題する物語を読んだ方もおられるでしょう。
私は、それを読んで、津波から村人の命を救った浜口儀兵衛という人の智恵と勇気に深い感銘を受けました。
あなたは浜口というラストネームですが、何かつながりがおありでしょうか。」

彼は、実は浜口儀兵衛の息子だったのです。
思いがけず、遠いこの地で、父の名前をイギリス婦人の口から聞いた担は、激しい感動のため胸がふさがり、一言も発することができませんでした。
司会者が近づいて小声で問いただし、そしてうなづき、担に代わって言いました。

「今夜の講師、浜口担氏こそ、
 ハーンの物語の主人公、
 浜口儀兵衛のご子息です。」

会場の人々は、拍手と歓声で応えました。
(出典:平川祐弘著『小泉八雲-西洋脱出の夢』)

いまさらのことですが、小泉氏がジャカルタの会議で質問をされたより数年前の平成11(1999)年に、当時の皇后陛下が、宮内記者会の質問に対するご回答の中で、次のように述べられています。

「子供のころ教科書に、
 確か「稲むらの火」と題した
 津波の際の避難の様子を描いた物語があり、
 その後長く記憶に残ったことでしたが、
 津波であれ、洪水であれ、
 平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、
 対処の可能性が、
 学校教育の中で具体的に教えられた
 ひとつの例として思い出されます。」

ちなみに「ツナミ(Tsunami)」 という言葉は、現在国際語化しています。
もともとハーンの物語が初出で、その後、1968年にアメリカの海洋学者Van Dorn が学術用語として使うことを提案し、国際語化したものです。
そしてスマトラ沖地震による津波が激甚な被害が世界中に報道されたことで、一気に各国の言語で一般語になっています。

もし、日本が、皇后陛下の御心を謙虚にとらえ、教育の現場でもっと早くから「稲むらの火」を復活させ、Tsunami という言葉だけでなく、津波の被害や早期避難を早くから世界に向けて呼びかけていたら、もしかしたらスマトラ沖地震などの被害者も、ずっと少なくてすんだかもしれません。
日本は、陛下や皇后のお言葉を、もっと真剣に伺うべきなのではないでしょうか。

そういえば、鎌倉の大仏さまは、室町時代に発生した津波によってどんぶらこ、どんぶらこと、沖に流されたというのも、有名な話です。
鎌倉の大仏がご安置されている高徳院は、海岸線から直線距離で約1kmも奥まったところにあるけれど、津波はすぐ近くを流れる川を遡上して、大仏押し流したのです。

日本は、災害が多発する国土の上にある国です。
そしてその災害には、疫病(感染症)も含まれます。
日本の歴史は、そうした災害と、平素からの災害対策の歴史でもあります。
こうしたことを、一昔前までは、しっかりと学校で教えていました。

いまの日本は、果たしてこのままで良いのでしょうか。

※この記事は2010年1月のねずブロ記事のリニューアルです。

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