東大の総長が自衛隊に押しかけてきて、「自分を一兵卒として給油支援に従軍させろ」言ったとしたら。
いまの時代、果たしてそれはニュースになるでしょうか。

ところがそういうことが実際にあったのです。
陸軍に東大総長が押し掛けてきて、
「日露戦争に一兵卒として従軍させろ」
と申し出たのです。

それが山川健次郎(1854~1931)です。
地位も名誉も関係ない。
国のために一命を捧げる。
それだけの心で押しかけた山川健次郎に、陸軍の人事担当者は困りはてたといいます。

その山川健次郎は、会津藩の国家老だった山川重固の次男です。
少年期に白虎隊に入隊しています。
それは数え年15歳(満14歳)のときのことでした。

白虎隊は15歳から18歳までの少年たちで編成されました。
しかしいよいよ戦いというとき、会津藩は健次郎を含む15歳の年少組を外したのです。
表向きは15歳の少年では、鉄砲があまりにも重すぎたということです。
しかしあまりに不憫であったというのが本当の理由だったのかもしれません。

慶応4(1868)年8月22日、官軍によって国境の母成峠が破られました。
いよいよ城下での決戦と知った健次郎の親友の家では、母、祖母、兄嫁、姉、妹の5人が、互いの首を刺して命を絶ちました。
他の家でも、母や妻ら女性たち全員が、刀で喉を突いて絶命しました。

城内に集った武士たちは、ですから皆、年とった父母や妻子を刺し殺して城に集まった武士たちでした。
いまよりも、もっとずっと父母の孝が大事にされた時代です。
どれほどの決意と覚悟があったのか、推して知るべしです。

城主の松平容保は、覚悟の武士たちを従えて滝沢峠に向かいました。
白虎隊も滝沢口まで行きました。
ところがここで、白虎隊の中で15歳以下の年少組は待機を命ぜられました。

ひとつ上の年齢の白虎隊は、出陣しました。
滝沢村での戦いは激戦となりました。
白虎隊の面々は戻る途中の飯守山(いいもりやま)で、城が黒煙を上げているのを見ました。
「城が落ちた。
 もはやこれまで」と、
出撃した少年たちは互いの喉を刀で突き刺しました。
20人中19名がその場で絶命しました。
たまたま通りがかった老婆に、飯沼貞吉(いいぬま さだきち)ひとりだけが助けられました。

本当は、このときまだ城は落ちていませんでした。
少年たちは思い違いで自決しています。
このことが城中に伝えられたとき、城内の者は皆、絶句しました。

亡くなった少年たちは、健次郎が兄と慕った先輩たちでした。
学問を教えてくれ、武道の修行を教えてくれた先輩たちでした。
このとき健次郎は、死んでいったひとりひとりの顔を思い浮かべて滂沱の涙を流したそうです。
会津の悲劇を心に刻み、一生忘れまいと心に誓いました。

戦いに敗れた会津藩は、下北半島に移封になりました。
会津藩士秋月悌次郎は、長州藩の参謀奥平謙輔に会って、会津の少年2名を書生に使ってほしいと頼み込みました。
このなかのひとりが健次郎でした。
それは会津の再建を次の世代に託そうとした心からでした。

ちなみに我が国では、戊辰戦争のときもそうでしたし、日清日露の頃もそうでしたし、第一次世界大戦のあとも、復員した日本の兵士たちは、決して奢ることも僻むこともなく、全力で、十代の若者なら学問に精を出し、成人者なら仕事に打ち込んでいます。

実は、これが崩れたのが先の大戦の終戦後で、元兵士の一部が愚連隊化しました。
激しい戦いのあと、従軍し生き残った若者たちが、友が死んで自分だけが生き残ったことへの理不尽感から、捨て鉢になってしまって、今日を限りの命とばかりに乱暴狼藉を働くようになるということは、これはどこの国でもあることです。
ベトナム戦争のあとがそうでしたし、第二次世界大戦後のヨーロッパ諸国でも、マフィアが横行しました。

日本の場合は、終戦まで日本人だったけれど終戦後に外国人となって三国人を自称した人たちが、自らを「戦勝民だ」と名乗って、日本人の一般市民に対して理不尽な暴力をはたらきました。
こうした暴力への対抗のために、元日本軍の兵士の一部が立ち上がったというのが、実際のところです。

話を戻します。
なかでもとりわけ優秀だった健次郎は、明治4年(1871)北海道開拓使の次官・黒田清隆が汽船「じゃぱん号」に乗って渡米する際に、同行を命ぜられました。
そしてこのことが健次郎の未来を変えていきました。

船が太平洋の真ん中を航海中のことです。
船内に張り紙が掲示されました。
「明日朝、
 本船は日本に向かって航海する
 太平洋郵便会社の船に出会う。
 日本に手紙を出したい者は
 用意するように」

翌朝、ふたつの船は出会い、郵便が交換されました。
このとき健次郎は、西洋の科学技術の凄味を実感したといいます。
一行はサンフランシスコに到着したあと、列車で大陸を横断しました。
見たこともない、煙を吐く巨大な機関車に、またもや健次郎は仰天しました。

健次郎は思ったそうです。
「会津藩は漢学による道徳教育に
 偏り過ぎていたのかもしれない。
 科学技術を軽視したために
 自分たちは負けたといえる。」
このように考えた健次郎は、米国内で科学技術を徹底的に学ぼうと決意しました。

健次郎は、名門エール大学への進学を目指しました。
しかしそのためには、米国人と同等以上の語学力、会話力、読解力、知識が必要となります。
健次郎は語学力を身につけるため、日本人のいないところに住むことを決意します。

こうして健次郎は、エール大学から北に45キロほど行ったノールリッチという人口1万人の小さな町で下宿することになりました。
そして不眠不休で猛勉強しました。

そうは言っても人間です。
ときには勉強に身が入らない日もありました。
健次郎は、そいうときには会津を思い浮かべました。
会津の人々の期待を一身に担って渡米したのです。
死んでいった先輩たちのためにも、これからの会津の人達のためにも、自分がここでくじけるわけにいかない。

この当時、会津藩は、青森の下北半島と岩手県の県境あたりに移封になっています。
そこは極寒の地です。
土地はやせ、米もとれない。
壮健な男達の多くは戊辰戦争で失われています。
ですから多くは、未亡人と子供たちと老夫婦しかいない。
飢えと寒さで、藩士やその家族が次々と死んでいきました。
そこに健次郎の家族もいました。

健次郎は手紙で、このことを知りました。
健次郎は声を出して泣きました。
会津の人々の苦境。
それを思ったら、自分は負けたり逃げたりするわけにいかない。

猛勉強の結果、健次郎は念願のエール大学に一発合格しました。
健次郎は、日本と米国との国力の差は、日本人の科学軽視にあると感じ、物理学を専攻しました。

ところが日本国内では、明治新政府の財政が逼迫し、国庫が破産の危機に見舞われました。
このとき各藩が競って送りだした留学生への国費支出があまりにも高額に上るとの問題が浮上しました。
こうして健次郎にも帰国命令が出されました。

健次郎はあと一年半で卒業というところでした。
健次郎は帰朝命令を一日伸ばしにして無視しようとしました。
しかし経済的な問題は避けて通れない。
このとき健次郎の友人ロバート・モリスの伯母のハルドマン夫人が、学資援助を申し出てくれました。
ただし条件をひとつ出されました。
それは、
「あなたが大学を卒業して帰国したら、
 もっぱら国のために尽すこと」
というものでした。
健次郎は終生、ハルドマン夫人の写真を居室に飾っていたそうです。

4年半の留学を終え、21歳になった健次郎は、エール大学で物理学の学位を取得して帰国の途につきました。
健次郎は、エール大学を3年の最短期間で卒業しています。
ものすごいことです。
健次郎の努力がしのばれます。

日本に帰国した健次郎は、東京大学の前身である東京開成学校の教授補に就職しました。
そして明治12年、彼は、日本人として最初の物理学教授となりました。

明治19(1886)年、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学と名称を変更しました。
東京帝国大学は、文科、理科、医科、工科、法科の5つの単科大学で構成されました。
健次郎は明治26年、40歳の若さで理科大学長に就任しました。

健次郎の教授時代の逸話があります。
健次郎は、自分の研究で成果がでると、その成果を惜しげもなく弟子たちに譲ったのだそうです。
そのため、いつのまにか弟子のほうが有名になることがよくありました。

しかし健次郎は、そのことをいつも喜んでいました。
自分のために研究をしているのなら、成果は自分のものにしたいと思うのはあたりまえのことです。
どこまでも国のために、自分の力も命も捧げているのです。
手柄など誰のものであっても良い。
むしろ自分の研究成果がその人の成功体験となって、学問の普及促進に拍車がかかるなるなら、そっちのほうがはるかに望ましいことなのです。

ちなみに、第一人者というのは、叩かれるものです。
これは後年田中角栄先生が述べていますが、
「人の世は、嫉妬とお金で動いている」
それは事実なのだろうと思います。

研究をして成果が出た時点では、その成果を知っているのは、世の中で自分一人だけです。(当然ですよね)
逆に言えば、世の中の人たちは、それを知らないし、わからないし、自分が持っている知識や知見と異なることを言われれば、知的レベルの高い人ほど、その成果に反発します。
つまり、社会的影響力のある人たちが、成果に反発するのです。
この時点では、成果を出した人はひとり。
反発する人たちは権威ある人たちを含めて、世の中のほぼすべて、といった状態になります。
当然、成果を出した人は、叩かれるし、その成果が素晴らしいものであれば嫉妬されることになります。

ところが、成果を譲られた人は、先駆者となった人が叩かれている分、譲られた人は叩かれずに済みます。
こうして、その成果は、徐々に多くの人に広がっていきます。
つまり、世の中に普及させるためには、むしろ成果を人に譲ったほうが、国のためになるのです。

米国の場合は、逆に成果をどこまでも自分のものにします。
それはなぜかというと、そうしなければ、投資会社からの経済的支援を受けることができないからです。
日本の場合、投資会社というシステムが、明治以降、ありません。
むしろ江戸の昔のほうが、最先端の学術が進んだのは、分限者と呼ばれる大地主や商店主などが、そうした学問に出資をしてくれたといった背景があったからといえます。

そういう意味で、現代日本においては、企業が大学の研究室等に出資するほかは、まず出資を得ることができません。
企業の場合、医学、工学系などの最先端技術系は、企業と大学の連携が取りやすいのですが、文系の場合は、これがかなり困難になります。
江戸時代に鴨長明や本居宣長、石田梅岩などの文系の大学者が市井に誕生し、現代にそうした学者の誕生がないのは、こうした社会構造の違いによります。

さて、話がまた脱線してしまいましたが、山川健次郎の場合、手柄を部下の学生たちに公然と譲ることができたのは、そこが帝国大学であり、国から研究費がでていたこと、および明治の頃の帝国大学に、薩長閥による庇護があり、山川健次郎が、薩摩の黒田清隆の保護下にあったことも、影響しています。
薩摩藩独特の思想で、自らの手柄を誇ることよりも、部下に花をもたせる。
このことがそもそも大事にされていたのです。

こうして山川健次郎の弟子として、物理学者の田中館愛橘(たなかだて あいきつ)や長岡半太郎、そしてその弟子にはノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎などが陸続と輩出されるようになるのです。

明治34(1901)年、健次郎は48歳で東京帝国大学総長に就任しました。
薩長政権下において、朝敵となった会津藩から最高学府の総長が就任したのです。
まさに異例のことです。
旧会津藩の関係者たちは、健次郎の就任に涙を流して喜んでくれました。

日露戦争のあと、東京帝国大学の教授処分をめぐって、文部省と帝大が衝突するという事件が起こりました。
それが「七博士事件」です。
東京帝大教授戸水寛水をリ一ダーとする七博士が、時の宰相桂太郎に、対露即時開戦論を建議し、奉天戦後には、ロシアに対してバイカル湖以東の割譲を要求しろと主張したのです。

当時のメディアは、戸水教授らをバイカル博士と褒めあげて喝采しました。
しかし実際にはこのとき日本軍は疲弊しきって、戦闘を継続するだけの余力は残っていませんでした。
政府は文部省を通じて東大に7教授の処分を求めました。

この頃には世論もようやく「対露強硬論」がいかに空論にすぎなかったかを理解していました。
七博士の言論は、勇ましいけれど中身がない空理空論にすぎないものであったことが世間にも知れていました。
東大総長であった健次郎も、戸水教授ら7博士の意見に反対でした。

しかし学問の自由を守ることと、意見の対立は別な問題です。
健次郎は、城を大学に、刀を信念に置き替えて文部省を相手に戦い、一歩も引かず、ついに7博士の処分を聞き入れませんでした。
そして事件解決後、健次郎はすべての責任をとって東大総長を辞任しました。

教授、学生などは、東大の全学をあげて、健次郎を慰留したそうです。
総長としての健次郎の勇気ある行動に、誰もが共感したのです。
しかし東大教授ともあろう者が、軽々に世論の誘導に乗って国運を衰亡させることなど、あってはならないことです。
だから健次郎は、東大総長として一切の責任をとったのです。

東大総長を辞任した健次郎に、貴族院議会から声がかかりました。
こうして健次郎は51歳で貴族院議員となりました。
そして58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び東京帝国大学総長に就任しています。
このときも、九州帝大の学生たちが総立ちになって健次郎の慰留をしたといいます。

彼が信望を集めたのは、彼の教育への情熱ばかりではなく、彼の持つ厳しさ、清貧、学生たちへのやさしさにあったといいます。
健次郎の娘は、彼を評して
「それは厳しく神にも等しい人でした」
と語っています。

健次郎は、その後61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4(1915)年に男爵となり、昭和6(1931)年6月、恩師である長州の奥平謙輔の書が飾ってある自宅で、永眠しました。享年77歳でした。

ひとりの人間の成長には、多くの人の支えと、歴史があります。
人はひとりで生きているわけではない。
それぞれの家や郷土、故国の歴史の中に生き、友や仲間に支えられて生きています。
そしてそういう自覚こそ人を育てるものであると思います。

※この記事は2009年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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東大総長を三度勤めた山川健次郎に学ぶ男の生き様” に対して1件のコメントがあります。

  1. 和久田日出夫 より:

    会津藩には素晴らしい教育がありました。今の日本は日本のためにとか、人のためにという教育が疎かです。教員から教育しなければなりません、悲しいことです。

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