以前にグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』(岩波文庫)から、17世紀の西洋における傭兵のことをご紹介させていただきました。
あらためてすこしだけ引用させていただきます。
*****
兵隊どもは短銃の撃鉄から燧石(ひうちいし)を取り外し、そこへ百姓たちの手の拇指をはさんで締めつけ、憐れな百姓たちを魔女でも焼き殺すかのように責めたて、捕えてきた百姓の一人などは、まだなんにも白状しないうちからパン焼き竃の中へ放りこまれ、火をつけられようとしていた。 他のひとりの百姓は頭のまわりに綱を巻きつけられ、その綱を棒切れで絞られ、口や鼻や耳から血が流れ出た。 要するにどの兵隊もそれぞれ新工夫の手段で百姓を痛めつけ、どの百姓もそれぞれお抱えの拷問者に傷めつけられた。 (中略) 連れてこられた女や下婢や娘がどうされたかは、兵隊どもが私にそれを見せようとしなかったから、私にもよくわからない。しかし、あちらの隅やこちらの隅から悲鳴がきこえたことは、今もよく覚えている。
*******
このときの情景を絵にしたものが、冒頭の絵です。
著者のグリンメルスハウゼンは、みずからの体験を綴りました。
そして上にあるお話は、誇張のある話ではなく、日常的にあったことといわれています。
三十年戦争が行われたのは、1618年から1648年のことです。
それは日本いうなら、江戸時代初期。国民生活が平和と安定を享受していた頃です。
日本が平和な日々を送っていた、ちょうどそれと同じ頃、西洋では人倫を無視した蛮行が日常的に行われていたのです。
西洋社会は、15世紀半ばから17世紀半ばの大航海時代、そしてその後に続く植民地時代(17世紀半ばから20世紀)によって、たいへんに豊かな時代を迎えたとされます。
けれどそんな豊かになっていたはずの17世紀の初頭から中頃にかけてさえ、上にある『阿呆物語』に描写されているような蛮行が、国内で公然と行われていたのです。
この文で大暴れしているのが、西洋の傭兵(ようへい)たちです。
傭兵というのは、西洋では戦いの主役です。
ヨーロッパの王国は、国王直属の軍隊が戦うのではなく、国王が傭兵を雇って戦いをしていました。
理由はコストの問題です。
いつの時代も同じで、経営に際して最も多くのお金がかかるのが、人件費です。
とりわけ兵は、平時には仕事がないけれど、いざ戦いとなると多くの人数を必要とします。
そこで、一時雇いの傭兵が用いられたのです。
これは、古代ローマ帝国の時代も、近世の国王の時代も同じです。
その傭兵たちは、戦いのときしか仕事がありません。
雇われるときには少しでも高い値段で雇ってもらったほうが得なわけですから、体を鍛えて筋骨隆々としたいかにも堂々とした体格になりました。
とにもかくにも、見た目が強そうであることが高値で雇われるために必要だったからです。
だから厚い胸板、丸太のような腕になりました。
そのほうが傭兵としての価値が上がるからです。
さらに日頃、人と接するときも、いかにも不遜で威張っていることが必要でした。
協調よりも、自らの強さを誇る傲慢さが、雇われるときの値を吊り上げたからです。
ところが同時に(ここが大事なのですが)、雇われる側の傭兵にとっては、自らの肉体の見た目だけが稼ぎの元手です。
ですから彼らは、戦いが始まるまで、そして戦いに勝つときは、はまさに破竹の勢いの勇猛果敢でした。
けれど、少しでも戦いが不利になると、すぐに逃げ出しました。
戦いで怪我をしたら、次から稼げなくなるし、死んでしまったら賃金をもらえなくなるからです。
だから、逃げるのはあたりまえの行動だったのです。
つまり傭兵は、肉体的な外見は、いかにも筋骨隆々でたのもしいし、いつも強がっているし、勝ち戦なら略奪もおもいのままだけれど、戦いがひとたび不利ともなれば、すぐに逃散するという人種だったのです。
それこそが、彼らの生きる知恵でした。
こうした傭兵による戦いが変化したのが、フランス革命後のナポレオンの登場です。
ナポレオンの軍は、兵を直接雇用し、兵たちはフランスのために戦いました。
ひとりひとりは日頃は普通のおっちゃんや兄ちゃんです。
だから、けっして強そうではない。
けれど彼らには、西欧社会で初となる国家意識があり、彼らは国のために戦いました。
ですから、怪我をしても、不利な戦いでも、いつまでもどこまでも、死ぬまで戦い続けました。
しかもナポレオンの偉かったのは、死んだり怪我をした兵にも、ちゃんと報酬が払われたという点でした。
周辺の王国の兵は、昔ながらの傭兵です。
戦いが少しでも不利になったら逃げる。
ナポレオンの兵は、いつまでもどこまでも戦う。
その強弱は明らかで、結果、ナポレオンは破竹の勢いでヨーロッパ諸国を席巻することになります。
そしてナポレオンの軍があまりに強いから、周辺諸国の王は、民主化を実現して、国民が国ために戦うように仕向けようとして、王も憲法の下に所属する人間だというふうにしたのが、立憲君主制のはじまりです。
(以上の説は宮脇淳子先生のご著書から勉強させていただいたことを、筆者なりにまとめさせていただいたものです)
一方、日本における武士は、もともと平安中期に生まれた新田の開墾百姓たちがはじまりです。
彼らは自分たちの土地を守るために、自主的に武装をするようになり、さらに訓練して武力を高めていきました。
そして戦いは、自分とその家族や一党がいる土地を守るための戦いでした。
ですから日本の武士は、どこまでも、いつまでも、そして死んでも戦い続けました。
怪我をしても、不利な戦いとなっても、戦いました。
世界の兵の武装は盾を用います。
日本の武士は盾を用いません。
武士は、身を捨てて、土地を国を、守り抜く存在だったからです。
少しだけそんな武士に似ている存在に、英国のナイト(knight)があります。
ナイトは、騎馬で戦う勇敢な者に与えられた名誉的称号としてはじまり、後に準貴族身分とみなされ、キリスト教の規範意識を持つ紳士を指しました。
彼らは勇敢とされ、礼節もありました。
ただし、ナイトというのは大地主であり、将校です。
自ら戦う存在ではなく、指揮をする存在であって、最前線で戦うのは、やはり傭兵や、徴用された農民でした。
そんなヨーロッパで行われた第一次大戦は、いまでは想像もできないほどの兵が犠牲になりました。
ヨーロッパ戦線での第一次大戦の死者戦傷行方不明者は、両軍併せておよそ4000万人です。
当時の世界の人口はおよそ16億人です。
そのうちの半分が女性、そして残りの半分が老人と子供です。
つまり、兵として戦える適齢期の男子の10人にひとりが戦争で亡くなったのです。
その背景には、兵はいくら失っても、また補充すれば良いという思想があったといわれています。
さらに民間人に、これをはるかに越える死傷者が生まれました。
そんな戦いにおいて、多くの戦場で兵たちが次々と亡くなっていくとき、多くの場合、将校たちは負け戦では、兵を置いてさっさと逃げていったことが数多く報告されています。
傭兵の時代と同じなのです。
死んだら元も子もない。
けれど、兵が死ぬのはいっこうに構わない。
いまだけ、カネだけ、自分だけという思想は、いまに始まったものではないのです。
けれど、人には人の道ってものがあります。
誰かを犠牲にして自分だけ助かり、あるいは強がって見せながら、いざとなったら逃げ出してしまう。
挙句の果てが、戦いがないときは、無防備な農家を襲ってやりたい放題。
そんなものは、人倫を外れています。
人には情があり、これを人情といいます。
そして義理のためには命をもかける。
日本では、それは武士の道というだけでなく、底辺に生きる一般庶民の中にも、あたりまえの道として存在し続けていたものです。
ちなみに、日本の武士は、宮本武蔵のような大柄な人を除いて、多くの場合、体型は小柄で痩せ型でした。
明治時代になってからも、日本人男子の体躯は、ドイツ人の女性のレベルでした。
ところが、そんな小柄で痩せていた日本人が、2キロの重さのある両刀を常時腰に下げ、60キロもある米俵(こめだわら)を一日中軽々と担いだりしていました。
いまでは、コンクリートの袋は、1袋(こうかいて「いったい」と読みます)25kgですが、これを一日中、上げ下ろしをするのは、体格の良い白系、黒系外国人労働者であっても、息があがるそうです。
ところが一昔前までの日本ではコンクリートの袋は1袋50kgで、それを昔の人は軽々と担いで一日中上げ下ろしをしていました。
どうしてこのようなことができたのかというと、実は力の使い方にあるのだそうです。
これは古武術をしている友人から聞いたのですが、昔の人は力の使い方をよく心得ていたために、体重50kgの人が、100kgの人を軽々と投げ飛ばすことができたそうです。
現代では西洋式スポーツの影響で、できるだけ筋肉にストレスをかけて、堂々としたキン肉マン的体型にすることが良いこととされました。
けれど昔の日本ではまったく逆に、できるだけ体にストレスをかけないで重作業ができるように様々な合理的な身体の使い方を工夫しました。
西洋ではヘラクレスの時代から、筋肉隆々の大男がもてはやされましたが、日本では、そのような人物は、歴史を通じてたったひとりの例外を除いては、あとはおおむねウドの大木と言われました。
たったひとりというのは、源頼朝や義経の叔父(おじ)にあたる源為朝で、これは身長は2メートル超えで、13歳頃には5人がかりでひくような剛弓を、ひとりで自在にあやつり、このため弓を持つ左腕の長さが右腕よりも十二センチも長く、矢は矢じりだけで22センチもあったそうです。
その威力は、数名の鎧武者をまとめて串刺しにし、一矢で300人乗りの軍船を転覆させたといいます。
まさにヘラクレス顔負けのすさまじさですが、保元の乱で崇徳天皇を護って大奮戦した後、敗れて敗走中に体の具合を悪くして、素っ裸で湯治をしているところを捕縛されて伊豆に流されるのですが、あたり一帯をまとめあげて国司に抵抗。
討伐軍を送られると、今度は沖縄に渡って琉球王国を築いてしまったという、まるでアニメのような大豪傑です。
宮本武蔵も顔負けの大活躍なのですが、日本の歴史ではあまり高く評価されません。
むしろ小柄で非力な源義経人気の方が、昔から高い。
要するに小柄で非力だけれど、チカラの使い方や用兵が上手で、気が優しくて責任感が強い。
そんな人物が、むしろヒーローになっています。
また武士には武士道があり、冒頭にご紹介した阿呆物語に登場する傭兵のような不埒な振る舞いは、ケースとしてはお大江山酒呑童子のようなケースもあるけれど、いずれも桃太郎の鬼よろしく、すべて退治されています。
支配者がいかにも強そうな傭兵を用いて人々を支配し収奪して、一部の支配層だけが贅沢な暮らしをしてきた西欧社会。
逆に民衆が豊かに安全に安心して暮らせるようにと、チカラのある者が責任を果たしてきた日本社会。
私たち日本人は、そういうご先祖たちの努力の積み重ねの果てに、現代社会に命をいただいています。
子どもたちや孫たちのために、いまよりもほんのちょっとでもいい。
良い時代をのこしていきたい。
それは、縄文の昔から、古来変わらぬ日本人の生き方であったのではないでしょうか。
※この記事は2019年5月のねずブロ記事のリニューアルです。