第109回倭塾は、2024年5月25日 12:30-17:00 の開催です。場所は富岡八幡宮/婚儀殿2F。テーマは「マネーの歴史とこれから」です。みなさまの奮ってのご参加をお待ちします。詳細はコチラ

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日本語では、夫のことを「主人」とも言いますが、妻が夫を主人と呼ぶ場合、そこにあるのは、会社の社長と同じ語感しかありません。
主人=支配者とか所有者ではありません。

どうしてそのような語感が生まれたのかというと、もともと我が国では、1200年以上にわたって、「家」をある種の「法人」と捉える慣習が成立していたからです。

どういうことかというと、時代はなんと大化の改新にまでさかのぼります。
このとき中大兄皇子に代わって天皇に御即位された第36代孝徳天皇の時代に、「戸主(こしゅ)」という制度が定められました。

これは「家」をいわば法人のように考え、その家の代表者を「戸主」とした制度です。
この制度のもとでは、「家」の財産は、あくまで「家」という法人の財産です。
戸主はあくまで「家」の財産管理の統括責任者であって、戸主個人の個人的財産ではないとされていたのです。

ところが明治に入って洋風化が進み、ついに明治31年(1898年)、明治民法が制定されて、ここでは家の財産は「家長の財産」とされるようになりました。
その家長は家で一番「年長の男性」とされました。
つまり家にある一切の財産は、すべて、家の奥にいる爺ちゃんの個人的財産とされることになったのです。

家の財産を「家のもの」とする考え方と、「家長のもの」とする考え方では、まったく家の在り方が異なります。

これが戦後の民法で、また変更されて、現代では家の財産という概念はなくなって、すべて個人の財産という考え方になっています。
夫婦であっても、親子であっても、財産はそれぞれの個人のものなのです。

この制度の違いをわかりやすく言うと、
たとえば300坪の土地を所有していたとします。

大化の改新以来、1200年以上続いた我が国の制度では、その土地は家のみんなの共有財産です。
明治民法では、その土地は家長である旦那の個人財産です。
戦後民法では、その土地は世帯主か配偶者かどちらか登記上の所有者のものです。

まあ、すごいことを考える人がいるものです。

もともとの日本では、家の財産は、旦那のものでも奥さんのものでもなく、あくまで「家のもの」であったわけですから、その財産管理の一切を奥さんが行ない、旦那は家という法人の内部で起こる一切のことに責任を持つといった棲み分けが行われていたのです。
そこから、奥さんのことは「かみ(神)さん」(家の財産のすべての管理者です)とか、「よ(良)め(女)さん」と呼ばれるようになりました。
旦那は「家」という法人の代表者ですから、社長の代わりに「主人」と呼ばれていましたが、ここでいう「主人」は、西洋的な所有者や支配者という意味での主人ではありません。
あくまで法人の代表者としての意味の言葉になります。

会社の社長さんは、会社の代表者であって、会社の所有者ではありません。
これと同じことが、明治以前の日本では「家」という概念に用いられていたのです。

つまりもともとの日本にあった「家」という概念は、現代的な言い方をするなら、財産を共有するコミュニティといった形になります。
法的な手続きをするときとかは、そのコミュの代表者が必要ですから、その人を家長と呼んだわけです。
家長には、女性がなることも普通に行われていましたが、これもまたコミュニティの代表者という意味ですから、むしろあってあたりまえのものであったとわかります。

300坪の土地が、誰か個人のものであれば、その土地で働く人は、単に「使われているだけ」の存在になります。
けれどその土地が、みんなの共有財産であれば、みんなが大切にしようとします。
そしてそれが生活習慣となることで、日本は、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる国を築いてきたのです。

一方、個人が所有するという文化のもとでは、何千兆円もの資産を、特定個人が私有することが起こります。
そうした人たちの周囲には、そのおこぼれにあずかろうとして手を揉む人たちが列をなします。
そしてその大金持ちの私有財産を増やすことに貢献しようともします。
すると、大金持ちさんの意向の有無にかかわらず、どれだけ多くの人を危険に晒そうと、ひたすら儲けに精を出すという社会環境が生まれます。
世界は、みんなのためにではなく、どこまでも特定個人とその個人に群がるごく一部の人々の金儲けと贅沢の為だけに存在していくようになります。

現代は、そうした一部の大金持ちによるグーローバルな世界支配が行われている一方で、新たな民間のコミュニティが数多く立ち上がる時代になっています。
グローバルな世界支配は、実は、太陽フレアがちょっと暴れただけで、あらゆる電子機器が使用不能になって崩壊するものです。
なぜならそれは人の欲によって生まれているものだからです。

おそらく神々は、次の新しい時代に向けて、すでに動き始められています。
人類社会は、これから日本型社会を目指すのです。

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家族制度の変遷に見る世界の形、日本の形” に対して1件のコメントがあります。

  1. 上野充弘 より:

    日本人は自分のためだけに生きるという強さは持ち得ていません。誰かの為、何かの為に生きるということで力が湧いてくる人種だと思う。
    日本が形成された時から、コミュニティのためにということを考えるように生きてきたからなのですね。

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