日本には古来「水に流す」という文化があります。
過去に何があっても、とりあえずは水に流して、今日も頑張ろう!といった具合です。
こうした考え方が生まれた背景には、3つの日本的思考が関係しています。

ひとつは「時間の流れ」です。

日本人は古来、時間が未来から過去へと流れると考えます。
だから未来は「未だ来たらず」ですし、過去は「過ぎ去る」です。
過ぎた昔のことにいつまでも執着するのではなく、すこしでも良い未来にやってきてもらうために、今日も一日がんばろう!といった考え方をします。

日本には神話の昔から、この世界は「よろこびあふれる楽しい国」を目指して神々が築いたものであるという自覚があります。
たいせつなことは、いま努力してそういう未来を築くことであって、済んだことにいつまでも執着して和を乱すことは、いけないことであると考えられてきたわけです。

ふたつめは「対等性」です。

このことは、日本とは異なり、上下と支配の関係を軸にする国や民族を考えるとよくわかります。
何事につけ、順位や上下を付けたがる思考を持つ国柄にあっては、過去の不冴は、相手よりも上位に立つ格好の材料になると考えられます。
ですから、いつまでも執拗に、そして毎日、過去の相手の失敗や過不足を言い続け、それによって自己を相手よりも優位に立たせようとします。

少し考えれば、相手の悪口を言ったところで、自分が偉くなるわけはないことくらい、誰にだってわかりそうなものですが、そこが文化性です。
ひたすら相手の悪口を言い続けることで、自分が相手よりも優位に立てると思い込む。

こうした人の特徴として、常に人の悪口を言い続け、口を開けば他人の悪口ばかりをいうけれど、ひとたび自分の悪口を言われると、まるで発狂したかのように自分を被害者に仕立て上げます。
そしていつまでも執拗に相手を批難し続け、決して「水に流す」ことがない。

上辺がいかにイケメンや美人であろうと、どれだけスタイルが良かろうと、いかに良い大学を出ていようと、そうした人とはあまりお友達になりたくないものです(笑)

みっつめが「善悪の基準」です。

日本人は古来、騙す人と騙された人がいたら、「騙す人が悪い」と考えます。
実はそうした考え方が成立するためには、世の中が豊かで平和で、手ひどい悪事を働く人がいない社会であることが不可欠です。
そもそも騙す人がいないのですから、騙される人もいない。
そういう社会の中にあれば、騙す人が出れば、それは「悪」であるとされるわけです。

ところが世界はそうではありません。
一部の支配層が民衆から徹底的な収奪をし、民衆は貧窮のどん底暮らしです。
そうした社会にあっては、むしろ支配層をうまく騙して利得を得た人が、喝采を浴びることになります。
こうして、騙される方が悪いのだ、という文化が成立していきます。
すると、騙してでも利得を得たものが勝ち、という社会になります。
けれど、そうは言っても騙された側は、いつまでも、騙された恨みを忘れない。
そこから「恨の文化」なんてものが生まれたりもするわけです。

こうなると、意図的に「恨み」を作り出すことで、自己の優位を図ろうとする馬鹿者まで現れるようになります。

何が正しくて、何が間違っているのかという善悪の基準は、長い歴史の中ではじめて熟成されるものです。
例えば米国の先の大統領選挙で、売電さん側がかなりの不正を働いたことは、多くの日本人の知るところです。
ですからほとんどの日本人は、それを悪いことと考えます。
けれど米国は歴史の浅い国です。
まだ正しいことの概念が十分に発達していない。
だから、結果が全てであり、勝てば何をやっても許されると考えます。
多くの日本人は、それを不正だと言いますが、米国では勝つことが正義なのですから、勝った売電さんは不正ではないのです。

歴史の重みというのは、こうした社会的価値観にも、つよい影響を与えるのです。
そもそも社会常識というものは、法で定まるものばかりではありません。
慣習法という言葉があるように、その社会が長年積み重ねてきた歴史伝統文化の中に定まるのが社会常識です。
ですから、日本の常識で米国の選挙をとやかくいうこと自体に、実は無理があるのです。

その日本について、8月革命説と言って、日本は昭和27年に建国された、歴史の浅い国だとする説があります。
東大名誉教授で憲法学者の宮沢俊義氏が説いた説ですが、ここに大きな勘違いがあります。
なるほど、戦前戦中までの大日本帝国は、戦後に日本国となり、憲法も大日本帝国憲法から日本国憲法に変わりました。
けれどその変化は、日本の中の政治体制が代わったに過ぎません。
政治体制としてみたときの国家のことを、英語で「ステイト」と言います。
その意味では、明治日本は、薩長ステイトだったし、江戸日本は徳川ステイト、鎌倉時代は、鎌倉ステイトの時代であったということができます。

けれど、鎌倉、室町、織豊、徳川、薩長、戦後のGHQ支配と政治体制が替わっても、日本は相変わらず日本です。
そしてこの場合の日本のことを、英語では「ネイション」と呼びます。
「ネイション」とは、歴史伝統文化をひとつにする集団としての国家を意味する言葉です。

つまり8月革命説というのは、単に日本の政治体制の変化のことを指しているに過ぎないのです。
日本というネイションは、縄文以来、ずっと続いているのです。
それがどのくらい続いているかといえば、考古学的に判明している始期は、なんといまから3万8千年前にさかのぼります。
4千年、5千年といったレベルではないのです。
3万8千年の間に、日本は天然の災害から人々の争いまで、さまざまな経験をしてきて、そうした中にあって「これだけは大切だ」というものが、長い歴史の洗礼を浴びて生き残り、それが日本文化となっているのです。

だから日本には、ネイションとしての、深い文化があります。
そしてその文化こそ、騙される人と騙す人がいたなら、騙す方が悪いと考え、誰も見ていなくてもお天道様が見ていらっしゃると考える日本文化になっています。

なぜそのような文化になったのか。
それは、国家として大切な根本に、私たちの祖先が、「愛と喜びと幸せと美しさ」が大切だと気づき、それを日本の文化にまで高めてくれたからです。

新約聖書に次の言葉があります。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」

古代ローマの歴史家のキケロの言葉です。
「あらゆる人間愛の中で、
 最も重要で最も大きな喜びを与えてくれるのは
 祖国への愛である」

愛と喜びと幸せと美しさ。
そうしたものを大切にして生きることができる社会を生むために、私たちはいまいちど日本文化の根底にある、「よろこびあふれる楽しい国」を見直すべきときに来ています。

※この記事は2022年6月のねずブロ記事のリニューアルです。

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